第1章 第1話 玉の輿ですわ!
「玉の輿ですわ!」
わたし、エレノア=アルデハイトは、届いたばかりの手紙を高々と掲げた。
十八歳の誕生日を迎えたばかりの朝。わたしのもとに、人生を大きく変える縁談が舞い込んできたのだ。
お相手は、レオハルト=バランタイン様。
二十五歳。名門バランタイン伯爵家の当主であり、容姿端麗、文武両道。そのうえ、将来は南領伯への就任が内定しているという。
南領伯とは、王国の南方を守る辺境伯の一角を担う地位だ。
つまり、レオハルト様と結婚すれば、わたしは南領伯夫人になれる。
これを玉の輿と言わずして、なんと言おう!
「エレノア、お前は本当にいいのか?」
向かいに座る父が、渋い顔でお茶をすすった。
父のウィルヘルムは四十五歳。苦労が絶えないせいか、実年齢よりも老けて見える。アルデハイト子爵家の財政が厳しいことは、娘のわたしもよく知っていた。
「バランタイン家から縁談が来たこと自体は、ありがたい話だ。だが、相手は南領伯になるお方なのだぞ」
父はそう言って、手紙をテーブルに置いた。
「南領がどれほど危険な土地か、知らないわけではあるまい」
「あなた、エレノアの気持ちも考えてあげてくださいな」
母がふんわりと微笑んだ。
母のアマーリエは三十九歳。年齢を感じさせない美貌の持ち主で、わたしとは姉妹に間違われることもある。
「娘が南領伯夫人になるのよ。きっと素敵なドレスを着て、華やかな舞踏会に出席して……。ああ、結婚式にはどんな花を飾りましょう!」
楽しそうに頬を染める母に、父は頭を抱えた。
「お前たちはどうしてそう能天気なのだ。いいか、エレノア。どうしてこの縁談が我が家に来たのか、考えてみなさい」
父の言葉に、わたしはにっこりと微笑んだ。
「我が家の隠れた魅力に、ついに王都の名門貴族が気づいたのですわね!」
「うふふ。そうかもしれませんわね」
「ぶっ、ごほっ!」
わたしと母の言葉に、父は思わずむせた。
「い、いいか、二人とも。よく聞きなさい」
母に背中をさすられながら、父はどうにか息を整えた。
「南領伯は、これまで三代続けて非業の死を遂げている。当然、危険は妻の身にも及ぶだろう。だからこそ、有力貴族家はみな縁談を断ったそうだ。誰しも、そんな危険な土地に自分の娘を送りたくはないからな」
なるほど。
わたしが選ばれたのは、誰もが羨むほどの幸運に恵まれたからではない。
ほかの貴族家が、危険を嫌って辞退したから。
言ってしまえば、残り物。
どうせそんなことだろうとは思っていたけれど、こんなにはっきり言わなくてもいいのに。
「まあ、あなた。そんなに危険な土地なら、レオハルト様も何年かしたら、どなたかと交代していただけるのではなくて?」
「それは難しいな」
父はゆっくりとかぶりを振った。
「バランタイン家に替わるほど強力な騎士団を持つ貴族家は、ほかにないのだ。王国にとって、南方を守る最後の切り札なのだから」
「まあ、それは大変ねえ」
母は相変わらず、のんびりとした声を上げた。
「うふふふ……」
「エレノア、何がおかしいのだ」
「皆様、見る目がありませんわ」
わたしは満面の笑みを浮かべた。
「つまり、レオハルト様は、南領伯をお任せになられるほど、国王様から能力を認められているということでしょう?」
「それはそうだが、そういう問題ではないぞ!」
「伯爵家の当主で、将来は南領伯。おまけに文武両道の美男子とか。これほど条件のそろった方、そうそういらっしゃいませんわ!」
「お前は自分の将来を、もう少し真剣に考えなさい!」
「わたくしは、いつだって真剣ですわ!」
我が家には、持参金をたっぷり用意する余裕などない。
王都の有力貴族との縁を結べるような、華やかな後ろ盾もない。
そんなわたしのもとに、突然舞い込んできた大金星なのだ。
逃す理由なんて、どこにあるというのだろう。
もちろん、わたしだって危険がないとは思っていない。
南領伯夫人になれば、夫とともに命を狙われることだってあるかもしれない。
けれど、貧乏子爵家の娘が、こんなにも条件の整った相手と結婚できる機会など、そうそうあるものではない。
……というより、わたしはこれまで、殿方からただの一度も結婚を申し込まれたことがなかったのだから。
「なら、お父様は、わたくしに一生独身で過ごせとでもおっしゃるの?」
「い、いや、そんなことを望んでいるわけではない。お前が幸せになれる相手さえ現れたら、いつでも……」
「あなた!」
母がぴしゃりと言った。
そして、静かに父を見つめる。
その目は、まるでこう語っているようだった。
――これまで娘に縁談が来なかったのは、あなたの甲斐性のなさが原因でしょう。
もちろん、そんなことを口にしたらおしまいだということは、わたしにもわかっている。
だから、代わりに大きく息を吸い込んだ。
「わたくし、レオハルト様と結婚いたしますわ!」
こうして、わたしは夢の玉の輿婚へ、一歩踏み出したのだった。
◆◇◆
数日後。
わたしは、バランタイン家の別邸にて、レオハルト様との初対面の日を迎えていた。
鏡の前で、何度も身だしなみを確かめる。
ドレスに乱れはない。髪もきちんと整えた。笑顔だって練習した。
よし。完璧だ。
「お嬢様、そろそろお時間です」
侍女のハンナが声をかけてきた。
ハンナは十七歳。わたしと年齢が近い大切な侍女だ。
「ありがとう、ハンナ。わたし、変じゃないかしら?」
「奥方様のお若い頃のお写真とそっくりでとてもお綺麗です。きっと大丈夫ですよ」
「そうよね。わたくしなら大丈夫に決まってますわ!」
勢いよく立ち上がったわたしは、ドレスの裾を踏んでしまった。
「あっ!」
「お嬢様!」
ハンナが慌てて支えてくれる。
「な、何でもありませんわ」
「はい。そういうことにしておきます」
ハンナは優しく微笑んだ。
その顔に、ほんの少し笑いをこらえている気配があるのは、気のせいだと思いたい。
わたしは気を取り直し、レオハルト様の待つ部屋へと向かった。
扉が開く。
そこに立っていたのは、息をのむほど美しい男性だった。
すらりとした長身。整った顔立ち。落ち着いた眼差し。
騎士のような凛々しさがあるのに、どこか柔らかな雰囲気も感じられる。
こんな素敵な方が、本当にわたしの婚約相手なのだろうか。
「初めまして、エレノア嬢。レオハルト=バランタインです」
「は、初めまして。エレノア=アルデハイトと申します。レオハルトひゃま……っ、痛っ!」
よりにもよって、舌を噛んでしまった。
初対面の、それも人生を左右する大切な場面で。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですわ! 少々、舌が驚いただけですの!」
何を言っているの、わたし!
恥ずかしさで顔が熱くなった。
穴があったら入りたい。いや、いっそこの場から消えてしまいたい。
けれど、レオハルト様は怒るどころか、くすりと笑った。
「ふふ。緊張なさっているのですね」
「も、申し訳ございません……」
「謝らないでください。私も、緊張していたものですから」
意外な言葉に、わたしは顔を上げた。
「レオハルト様も、ですか?」
「ええ。これから人生を共にするかもしれない方との初対面です。緊張しないはずがありません」
そう言って、彼は穏やかに微笑んだ。
このとき、胸の奥が、きゅんと鳴った。
なんて素敵な方なのだろう。
身分を鼻にかけることもなく、失敗したわたしを笑いものにもしない。それどころか、自分も緊張していたと打ち明けてくださるなんて。
「エレノア嬢。もし、この縁談がまとまったなら、あなたを大切にしたいと思っています」
まっすぐな瞳が、わたしを見つめた。
「南領は、決して安全な場所ではありません。苦労をかけることもあるでしょう。それでも、あなたが安心して暮らせるよう、できる限りのことをします」
胸が熱くなった。
わたしは、こんな言葉をかけてもらえる人間だったのだろうか。
「……ありがとうございます、レオハルト様」
今度は、舌を噛まずに言えた。
「わたしも、レオハルト様をお支えできる妻になりたいですわ」
「それは心強いですね」
彼は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、わたしは心に決めた。
絶対に、この方と結婚する。
思えば、同格の令嬢たちが次々と婚約を決めていく中、わたしだけが取り残されていた。
社交の場では、友人たちの婚約話に笑顔で相づちを打つ。帰宅してからは、誰にも見られないよう枕に顔を埋め、悔し涙を流したこともあった。
それが、ようやく報われようとしている。
わたしは、心の中で拳をぐっと握りしめた。
◆◇◆
さらに数日後。
バランタイン家の別邸で、婚約披露の祝宴が開かれた。
会場には華やかな花が飾られ、招待客たちの笑い声が響いている。
わたしは純白のドレスに身を包み、レオハルト様の隣に立っていた。
彼がそっと手を差し出す。
「エレノア、こちらへ」
「はい、レオハルト様」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
それだけで、心が浮き立った。
祝宴の途中、レオハルト様が小さな箱を取り出した。
「あなたに、これを」
箱の中には、銀色の指輪が収められていた。
「婚約の証です。受け取っていただけますか?」
「もちろんですわ!」
返事が少し早すぎたかもしれない。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
レオハルト様が、わたしの指に指輪をはめてくださる。
銀色の輪が、灯りを受けてきらりと輝いた。
「よくお似合いです」
「……ありがとうございます」
「それから、私のことはレオとでも呼んでください。家族の者は皆そう呼びますので」
「はい、レオ様……」
指輪を見つめる。
これが、わたしとレオ様を結ぶ証。
その意味を考えると、胸がいっぱいになった。
いつか、この方と本当の夫婦になれる。
この指輪を眺めながら、二人で穏やかな日々を過ごせる。
「それでは、皆様。婚約を祝して、乾杯しましょう」
誰かの声が響いた。
わたしは差し出された杯を手に取り、レオ様を見上げた。
彼もまた、杯を手にしている。
「エレノア。これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
杯を傾けた。
口に含んだ液体が、喉を滑り落ちていく。
その直後だった。
「……っ、あ……?」
胸の奥に、焼けつくような痛みが走った。
息ができない。
何が起きているのかわからない。喉がひりつき、胃の底から何かがせり上がってくる。
「エレノア?」
レオ様の声が、遠くに聞こえた。
わたしは口元を押さえた。
「ごほっ……!」
口の中に、鉄のような味が広がった。
「きゃあああっ!」
誰かの悲鳴が響いた。
膝から力が抜けた。
純白のドレスが、血で赤く染まっていく。
どうして。
わたしは、ただ杯を飲んだだけなのに。
「エレノア!」
レオハルト様が駆け寄ってくる。
彼の顔が、苦しげに歪んでいた。
誰かが叫んでいる。医師を呼べという声も聞こえた。
けれど、もう何を言っているのか、はっきりとはわからない。
身体が冷えていく。
指先の感覚が消えていく。
せっかく、幸せになれると思ったのに。
ようやく、夢に手が届いたと思ったのに。
どうして、こんなことに。
わたしは震える手を伸ばした。
「レオ……さま……」
彼が、わたしの手を握った。
その手は温かかった。
「……ごめん」
かすれた声が、耳元に落ちた。
どうして、謝るの?
あなたは、何か知っているの?
聞きたいことは、いくつもあった。
けれど、もう声が出なかった。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、悲しそうなレオハルト様の顔だった。
そして、わたしの意識は闇に沈んだ。
◆◇◆
「お嬢様。お嬢様、朝ですよ」
聞き慣れた声がした。
わたしは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。見慣れたカーテン。窓から差し込む朝の光。
ここは、わたしの寝室?
「……ハンナ?」
「どうなさいました? まるで、恐ろしい夢でもご覧になったようなお顔です」
ハンナが心配そうに、わたしの顔をのぞき込んでいた。
わたしは、自分の身体を確かめた。
痛みはない。血もついていない。ドレスではなく、寝間着を着ている。
そして、指にはめられているはずの銀の指輪もない。
あれは夢だったのだろうか。
いや、違う。
喉を焼く痛みも、口の中に広がった血の味も、冷たくなっていく身体の感覚も、あまりにも鮮明だった。
わたしは、確かに死んだのだ。
「ハンナ……今日は、何日?」
「本日は婚約披露の祝宴がある日ですが」
ハンナは不思議そうに首をかしげた。
祝宴がある日。
ということは、あの恐ろしい出来事が起きる、その日の朝?
どうして、朝に戻っているの?
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
今日、わたしは死ぬ。
そして、レオハルト様は最後に謝った。
どんな意味なのか、何もわからない。
わからないけれど……。
(冗談ではありませんわ!)
わたしは、ぎゅっと拳を握った。
せっかくつかんだ玉の輿。
せっかく見つけた、幸せになれるかもしれない未来。
それを、わけもわからないまま奪われてたまるものか。
死ぬのは、もうごめんだ。
けれど、だからといって、せっかくの縁談を諦めるつもりもない。
「せっかくつかんだ玉の輿、絶対に手放しませんわ!」
こうして、わたしの二度目の一日が始まったのだった。




