59話 記憶の欠片
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「あれは…………まさかっ‼」
想定外の出来事だったのかもしれない。この時の舞美子を見て美姫はそう思った。舞美子が滅多に見せない驚愕の表情。だが、今日は何度目なのかわからない程、目にした光景だった。それ程までに今日は色々な事が起き過ぎているのだ。
「こっちに現れるなんて…………! 冬馬――――引き寄せ――――」
舞美子の頭の中ではすでに色々な可能性を探っているに違いない。だが、舞美子の声がはっきりと聞き取れない。頭の中で不快で大きな音が邪魔をしているからだった。その轟音を鳴り響かせている原因は、恐らく周辺の霊気を巻き込みながら危険な『何か』がこちらに向かって来ているからだろう。感じる霊気がそう思わせるのに十分だった。
やがて音が止み、その危険な存在を目視で確認出来るようになった。そこには大きな黒い人影のような『何か』が現れたのである。
「舞美姉さん……?」
「これもあの子の仕業…………せやけど、あれを御すんは…………」
ぼそりと呟いた舞美子の思考はすでに高速回転で動き始めているようだ。ただ、こちらの問い掛けに反応しないのは、やはり想定外だったのかもしれない。普段の舞美子なら会話をしながらも、思考を巡らせているはずだ。それだけ今の舞美子には余裕が無いのだろうか。だとすれば、その要因は冬馬の前に突如と現れた危険極まりない黒い人影のせいで間違いないだろう。
それでも、舞美子は舞美子であった。彼女の思考はこんな時でも止まるような柔なものではない。すぐさま指示が飛ぶ。
「美姫ちゃん、守護霊を!」
舞美子が普段の喋り方に戻っているところを見ると、やはり余裕が無いのかもしれない。ただ、美姫としてはこちらの方がすんなりと頭の中に入って来る。だが、声を掛けられても美姫はすぐに反応出来なかった。頭ではわかっていても、なぜか体が言うことを聞かなかったのだ。
「美姫ちゃん……!?」
「だ、大丈夫……少し気分が悪いだけ……たぶん、この霊気のせい……」
美姫はそう答えると、今度は少し顔を歪めた。頭の中に激しい痛みが走る。原因はなぜだかわからない。わかっていること、それは冬馬の前に現れた黒い人影の影響だということだけだった。
黒い人影は禍々しい霊気を宿していて、それだけで危険な存在と言っていいだろう。よく見れば、体を覆うように薄っすらと赤黒い色を帯びているようにも見える。が、如何せんこの暗がりでは、守護師の目をもってしてもはっきりと認識出来ない。ただ、その様子はどこかおかしかった。
「舞美姉さん……あれって……何なの……?」
「あれは魔霊で間違いあらへん……あらへんけど……」
舞美子の歯切れが悪いのも無理はない。何せ、見た目は悪霊を巨大化しただけに見える姿なのだ。だが、その霊力は心の奥底から恐怖を覚える程の、禍々しくも凄まじい強大さを感じるのだ。そして、何よりも美姫は先程から違和感を覚えていた。頭痛と相まって過度なストレスを感じてしまう。当然ながら美姫はこれまでに魔霊と対峙したことはあるが、今までこんな歪な相手と遭遇した経験は無かった。いや、無かったはずだった。
(初めてじゃない……? どこかで会ったことが……)
そう思った瞬間、また激し頭痛に見舞われる。やがて立っていられなくなり、遂にはその場に片膝を突いてしまった。
「んんっ……」
何かが引っ掛かって邪魔をしている、そんな感覚だった。その原因がわからず、それが違和感となってストレスを感じるのだろう。
(わたしは……何か大事なことを……忘れている……?)
それが何なのか、何も思い出せない。昔のことを思い出そうとすると激しい痛みが襲い掛かる。まるで美姫自身が思い出したくないと、自らブレーキを掛けているかのようにさえ思えてくる。何にせよ、美姫にも今は余裕が無かった。
ただ、美姫が苦悶している最中、彼女とは対照的に笑みを浮かべている者がいた。それは何を隠そう、美姫の守護霊である織田信長だった。その信長が動き始める。
「やっぱ出て来たね」
主家の守護霊である信長がいつの間にか美姫たちの隣に来ていた。トーンを抑えて呟く信長の表情を見ると、いつものやる気のない姿はそこには無かった。信長は緊張と言うより、どことなくニヤケているようにも見えるのが返って不気味だ。
この守護霊はいつもこんな調子だ。やる気が無いのかと思えば、危険な状況でも笑みを浮かべたりする。心で繋がっているとは言え、未だに信長の性格や思考の本質まで美姫は掴めていない。裏を返せば、まだ完全に守護霊と一体にはなっていないという証でもあるのだが、それを今嘆いている時ではない。
グオォォォォォォ……
突然、重くて低い呻き声が聞こえた。その声は人と言うよりも獣と言った方が合点がいく。それほどに魔霊の声は頭の中で響くような、耳障りで不快感を感じるには十分だった。
美姫はこの時、頭の中で激しい痛みと闘いながらも、なぜか幼少期の記憶へと遡っていた。先程からの違和感がそうさせているのだ。だが、思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってくる。やはり思い出したくない何かがそうさせているとしか思えなかった。
美姫がそんな状態だったのだが、信長はこの状況を冷静に見ていた。
「魔霊としてまだ完全体じゃないってとこかな。まっ、ある意味それが一番危険ってやつだけど」
「それって……」
「あれも暴走してるってことだよ」
信長との会話に出た『暴走』と言う言葉に、また美姫は頭痛がひどくなった。
「美姫さん……! 冬馬……!」
準はかなり苦しそうだ。やはり先に西の別邸へと運ぶべきだったと美姫は後悔したが、時すでに遅しだった。準を守りながら魔霊と対峙するのは、今の美姫では簡単な事ではないと自分自身でもわかっているからだ。守護霊がいるとは言え、この霊気が乱れている状況ではまともに戦えないだろう。戦国時代に覇を唱えた織田信長とはいえ、さすがに苦戦するのは目に見えている。ここは一旦、守護霊の実体化を解いた方が良いかもしれないと考えた時だった。
「美姫がこんな調子じゃ分が悪過ぎるけど……行ってみようか!」
「えっ……!」
なんと、守護霊の信長は魔霊の方へと向かって跳んで行ってしまったのである。
どうして信長は不利な状況でも、敢えて戦いに挑むのだろうか。美姫の知る限り、守護霊は守護師のように『身を挺して守る』という概念は希薄なはずだ。
元来、守護霊とはそういうものなのだ。いくら死んでいるとは言え、己の魂を危険に晒すようなことはしない。なぜなら、魂に大きなダメージがあると、実体化が出来なくなるからだ。これはあくまで推測の域なのだが、魔霊が現にそういった現象になっている。それだけではない。過去の記録を見ても、守護霊にもそういった事例が残っているのだ。魂は無くならずとも、また復活するには相当な年月を要することになるからだ。そうなることは守護霊や魔霊となった者たちも望んではいないだろう。なにせ過酷な戦国時代を生き、そして強い野望を持った者たちばかりなのだ。今の時代に魂として蘇った意義を見出しているに違いない。守護霊として存在する者は守護師と共に、魔霊となった者は己が野望の為に存在する。それが現世における彼等の定義のようなものになっているのである。だからこそ、魂はしかるべき場所でしっかりと管理されなければならないのだ。
普段でも意思疎通が取りにくい信長なのだが、今は美姫にもその真意は掴み切れなかった。
(信長は……あれが誰なのか知っている……?)
美姫はあの魔霊が誰なのかわからなかった。もちろん、危険認定されている特等級の魔霊は知っている。だが、家紋もなければ、人としての姿をしていないのだ。普通に考えてもわかるはずが無いのだが、信長は知っている。そして、この軍師もそのようだった。
「あれは火気属性の霊気…………間違いあらへん!」
「舞美姉さん、あの魔霊はいったい――――」
――――――――ヌオォォォォォォッ‼
魔霊が禍々しい赤み掛かった霊気を発散させた。明らかに攻撃的な意図を含んだものだ。恐らく、美姫の体調が万全なら自力で防げただろう。だが、今は激しい頭痛の上、霊気が集まりにくい状況だ。しかも美姫は守護霊を召喚しているので、そちらにも霊気を供給しなければならない。正直言って、今の美姫に防げる自信は無かった。案の定、守護霊の信長はいとも簡単に弾き飛ばされてしまった。いつもの信長だったら、こんなものではないはずだ。やはり霊気の影響が大き過ぎるのかもしれない。
ただ、悲観はしていなかった。なぜなら、こういう時は必ず助けてくれる頼もしい存在がいることを美姫は知っているからだ。それは子どもの頃から未だに変わらない、確信たる想いでもあった。
「美姫ちゃん、後ろへ!」
美姫の前で盾になるように立っているのは、やはり舞美子だった。金気である白い霊気を壁にする、いわゆる霊壁を展開している。守護師にとっては基本的な術である。舞美子ほどの力を以ってすれば、強固な霊壁を作ることなど造作もない。ただ、この状況下で一つだけ難点はあった。それは舞美子が金気使いということだった。
――――――――五行相剋。
五気にはそれぞれ相性というものがある。相剋とは簡潔に言えば、有利な相手と不利な相手があるということだ。そして、運が悪いことに目の前にいる魔霊は火気属性なのだ。金気使いにとって火気属性が相手では相性が悪い。ましてや強力な霊気を有する魔霊が相手なら尚更である。
「舞美姉さん……」
「大丈夫や! それよりあれに対抗し得る応援を早う呼んだ方が……美姫ちゃんはここから離れた方がええ! 冬馬君にも早く伝えへんと!」
舞美子は耐えるように両の手を前に突き出して踏ん張っている。舞美子がこれほど懸命に戦っているのは久しぶりに見たような気がした。
舞美子が苦戦するほどの相手なのだから、あの冬馬は大丈夫だろうか。ふと不安が頭を過ったが、すぐにそれは解消された。
《我が魂に集いし水気の者たちよ 我が想いに応えよ!》
冬馬が言霊による詠唱を行っていたのだ。見る見るうちに水気の霊気が膨れ上がってきた。
「この状況であれだけの霊気を集めるなんて! いや、水気やからこそ成せる業……!」
またも舞美子が驚いている。いや、美姫ですら信じられない光景だった。今は霊気が集まらないのだ。それが冬馬には関係ないかと思えるほど、グングンと霊力も上昇している。
「暴走した霊気を正常に戻している……!?」
舞美子の言葉から推測すると、恐らくそういうことだろう。
そして、冬馬の変化はこれだけではなかった。五行相剋で言うなれば水気は火気に強い。現に、冬馬は魔霊とはさらに至近距離にいるというのに、まだ踏み止まっている。いや、それどころかじわりじわりと冬馬の放つ霊気が押し返していた。
「うおおおおおおおおおおおおっ‼」
冬馬が絶叫する雄叫びが聞こえてきた。すると、冬馬の放つ水気の霊気が一気に拡散した。その瞬間、完全に黒い人影の攻撃を冬馬が上回った。だが、それは無茶な霊気の使い方だということは誰の目にも明らかだった。
「あきまへんっ! それ以上はあきまへんっ‼」
舞美子の制止も全く冬馬には届いていない。いや、届くはずもない。あれだけ必死に無我夢中で放っているのだから、聞こえるわけがない。
「このままでは……!」
だが、美姫の体は動いてくれなかった。
やがて、冬馬から感じられる霊気がぱたりと消失した。冬馬は力なく前のめりに倒れ、全く動かなくなってしまった。
「まさか……!」
「…………くっ!」
「嘘やろ…………冬馬あああっ!」
二之丸家の新当主として迎え入れるはずだった冬馬を失ってしまったかもしれない。そう思うと、美姫は自分でも血の気が引いていくのがわかった。舞美子も恐らく同じ想いなのだろう。目を瞑って下を向いてしまった。
美姫は守護師としてわかるのだ。冬馬が持てる霊気を使い切ってしまったということを。そして、今までの戦いや体力消耗に精神的疲労を考慮しても、冬馬が限界を大きく超えてしまったということもわかるのだ。今回ばかりは最悪な事態に陥ってしまったと思わざるを得ない、そんな状況だったのである。
無理をしてでも冬馬を止めるべきだったと美姫は後悔した。結界が崩壊して霊気が乱れ切っている今のこの状況下で、水気の始祖家の力を持つ冬馬を失うことは、守護師界にとっても大きな損失になる。
「舞美姉さん!」
美姫は今からでも冬馬の救出をしなければと、舞美子を見て確認した。まだ冬馬が死んだとは限らない。すぐに救命処置をすれば、ひょっとするとまだ間に合うかもしれない。そう思った美姫だったが、舞美子の反応は美姫の予想とは違っていた。
「今はここから離れる方が先や……」
「――――なっ!」
力なく発言する舞美子に、いつもの笑みは無かった。その理由は未だにその姿を保っている黒い人影をした魔霊を見たからだろう。その魔霊からは禍々しい霊気は消え去っていた。だが、その霊力は依然として危険なレベルを保ったままだった。禍々しさが無くなったとは言え、魔霊は魔霊なのだ。『火気』に強い『水気』の冬馬の力はもう使えない。『金気』の舞美子では到底太刀打ち出来ない。かと言って美姫の不調では信長一人で戦うには厳しいということは目に見えている。望楼月也と徳川家康がここに居れば話は別だが、彼等がどこに行ったのかは不明だ。この状況に気付いて駆けつけてくれたなら良いのだが、残念ながらやって来る気配は今のところ全く感じられなかった。正直言って、今のこの面子では苦しいだろう。
ただ、好材料もあることにはあった。先程よりも集まる霊気の量は増えている。これは冬馬が放った霊気が、周辺の暴走した霊気を正常に戻したという証しだろう。準の顔色も心なしか良くなっているし、何より美姫自身の体は先程よりも楽になっていた。
だが、それだけのことだった。以前のように霊気を使えるようになったわけではない。結界が再構築したわけでもなく、魔霊が消え去ったわけでもない。厳しい言い方をすれば、戦況がほんの少しだけ好転したという、ただそれだけのことなのだ。魔霊が大人しくしている今のうちに、こちらの戦力を立て直すのがセオリーだということも美姫は十分に理解している。それでも、美姫は今すぐにここを離れるという決断が出来なかった。
「美姫……ちゃん……?」
舞美子が少し眉間にしわを寄せて美姫を見つめた。その表情は怒りではなく、明らかに心配している顔だった。それは美姫が少し息苦しそうに呼吸をしていたからだ。
「大丈夫」
そういう美姫は気丈に返事をしたが、まだ息は乱れたままだった。
それでも美姫は不思議な感覚だった。下手をすれば命を落とす危機的状況だというのに、全く悲観していなかったのだ。魔霊が現れてから、美姫の中で一瞬の間に色々な感情が渦巻いていた。今まで何のために鍛錬して来たのか。今まで何のために生きてきたのか。答えはすぐに出て来る。こういった場面で力を発揮するためである。何も出来ない自分に苛立ちを覚えつつも、自身に対して失望すら感じていた。だが、目の前で冬馬が倒れた姿を見て、一つの覚悟が生まれた瞬間でもあった。
信長は美姫の言葉に賛成も反対もしない。今は何も言わずに魔霊の動向に注視している。
「困らせて……ごめん……」
美姫は混乱した頭で、さらに激しく乱れる呼吸の中で必死に言葉を振り絞った。
「でもね……なぜだかわからないけど……今ここから離れたら……後悔するような気がするの」
そう言うと、美姫の目から一筋の涙が零れた。前にも似たようなことがあったような気がしたのだ。どういった状況だったのか全く思い出せない。だが、激しく感情を揺さぶるような悲しい出来事があったということだけはわかった。
そこから美姫の表情が一変した。一度目を瞑ると、乱れた呼吸を整える。そしてガッと目を見開くと、これまでのクールビューティーの美姫の目に戻った。いや、以前にも増して強い意志を持った目に生まれ変わったのである。
それを見た舞美子は目を瞑り、「承知」と静かに答えた。そして舞美子も以前のような不敵な笑みに戻った。
ただ、それを知ってか魔霊は倒れている冬馬へじわりと近付いて行った。その姿はこれまでと違って人間らしい、ゆっくりとした歩様だった。このままでは冬馬を完全に失ってしまうかもしれない。そう思った美姫は居ても立っても居られなくなった。
「舞美姉さん、行くわよ!」
「承知!」
舞美子は心地いい程の返事をすると、すぐさま両の手を合わせた。何かの術を使うのだろう。いや、何を使おうとしているのか美姫は瞬時にわかった。この場に新たな戦力を呼ぶつもりなのだと。舞美子の守護霊を召喚して魔霊に対抗しようとしているのだ。ただ、これは賭けと言ってもよかった。なぜなら、この霊気の状況下では守護霊に霊力の供給を十分に出来ない恐れもある。現に美姫がそうで、信長に十分な力を発揮させることが出来ないでいる。それに金気使いの舞美子の守護霊では、役に立たない可能性もあるのだ。それでも今はこれしか対応策が無いということなのである。
だが、舞美子による守護霊召喚術の言霊による詠唱が行われることは無かった。なぜなら、舞美子がある事に気が付いて動きを止めたからである。
「……舞美姉さん?」
「おかしい……」
美姫はゆっくりと舞美子の視線を辿った。そして美姫もまた、舞美子と同じような違和感を感じたのであった。それはある人物の姿を目にしたからであった。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
一年ぶりの投稿となってしまい、申し訳ありません。
あと二話で守護師覚醒編は終了です。明日、明後日に一話ずつ投稿しますので、よろしければそちらも読んで頂ければ幸いです。
今後もどうぞよろしくお願いします。




