次の約束には名前がある
商店街の体験会の記録を閉じた日の夕方、高瀬さんが俺の机へやってきた。
「久世さん。次に読み込む記録を、岸本さんから一件いただきました。まず店舗名を確認したんですけれど、そのあとは何を質問すればいいでしょうか」
俺は画面を覗き込みかけ、少し間を置いた。
「高瀬さんは、どこが気になりますか」
「お店の方が、何時までこちらの返答を待てるかですね。私なら、まずそこを先に聞いておきたいです」
「じゃあ、その順番でいきましょう。俺は何を手伝えばいいですか」
高瀬さんは少し考え込み、相手から返事をもらったあとで記録のまとめ方を見てほしい、と言った。俺は頷いた。俺が答えをすべて用意しておかなくても、彼女自身の仕事はちゃんと動き始めている。
定時には席を離れた。白峰さんとの約束があるからだ。映画館のそばにある古本屋で、彼女が気にかけていた古いパンフレットを探すことになっていた。仕事が一段落したご褒美として会うわけではない。会いたかったから、先に日を決めた。
古本屋に入ると、白峰さんは俺よりも先に目当ての棚を見つけ出した。映画のパンフレットがぎっしりと立てられた、細い通路の棚だ。彼女はその中から一冊を抜き取り、表紙の色褪せた人物を指さした。
「この方、この前一緒に観た喜劇にも出ていたんですよ」
「必死に走り回っていた主人公ですか」
「あちらは別の方です。久世さんが気に入ったと言っていた、途中でお菓子を食べていた友人の方」
言われて記憶が蘇った。脇でのんびり構えていたくせに、最後の肝心な場面ではしっかり封筒を届けるのを手伝っていた男だ。白峰さんは、俺が画面のどこに目を留めていたかまで覚えていてくれたらしい。
「よく覚えていますね」
「久世さんが、映画を観終わったあとに何度もその方の話をしていたからです」
俺は気恥ずかしさを紛らわせるように、棚の反対側へ視線を逸らした。そこには年季の入った料理本が並んでいる。別に逃げ道を探しているわけではない――たぶん。
白峰さんがパンフレットを買ってから店を出て、近くのパン屋へ立ち寄った。先日の体験会でパン作りを教えていた店だが、今日はごく普通の客として店先の値札を眺める。俺は焼きたての丸いパンを二つ選び、白峰さんは小さな卵サンドをトレイに載せた。
「また卵ですか」
「食べ比べですから」
「相変わらず研究熱心ですね」
「久世さんこそ、パンを二つも」
「食べたいので」
店の人は、いつもの客としてパンを紙袋へ詰めてくれた。俺たちから仕事の話題を切り出すことはない。イートインの小さな窓際席に腰を下ろし、紙袋を開くと、香ばしい焼きたての匂いがふわりと広がった。
白峰さんは買ったばかりのパンフレットを膝の上に置き、俺の顔を見つめた。
「今日は、久世さんから誘っていただけて嬉しかったです」
「俺もです。次は、また映画も観に行きたいですね」
「その次もですか?」
「行きたいです」
即答してから、まるで業務のスケジュール調整のような言い回しになってしまったと反省した。何度も重ねてきた約束に、俺たちはまだ明確な名前を付けていない。
「白峰さん。次の休み、デートに行きませんか」
彼女はサンドイッチを手にしたまま、しばらくじっと俺を見つめた。しまった、先に飲み物を一口含んで息を整えるべきだっただろうか。そんな考えが頭をよぎった瞬間、彼女がふっと笑った。
「今日も、私はそのつもりでしたよ」
「……それなら、そう言ってくれれば」
「久世さんが自分から言ってくれるのを、待っていたかったんです」
俺は返す言葉を探す代わりに、丸いパンを一口かじった。熱すぎて舌を焼くこともない。いつかのハンバーグのように、慌てて水に手を伸ばす必要もなかった。
「次は、俺が映画を選びます」
俺が言うと、白峰さんは嬉しそうに頷いた。
「入るお店は、二人で一緒に決めましょう」
今日という日の名前は、二人で決めた。明日になれば、またいつも通りのオフィスへ向かう。高瀬さんには高瀬さんの仕事があり、俺にも俺の席がある。けれど、次の休日のことを考えるのに、誰かの許可はいらなかった。
白峰さんは自分の卵サンドを半分に割り、紙袋の上にそっと置いた。
「これ、半分こにしますか」
「はい。俺も食べてみたいです」
彼女は楽しそうに笑い、紙袋の上の半分を俺のほうへ寄せた。俺は受け取るため、迷わず先に手を伸ばした。




