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老鍼灸師は転生しても治さない  作者: かどやん。
第1章 鍼も灸もない世界と黒い龍

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第16話 異世界では、龍脈に本当に龍がいる

「このよつな湖があったんじゃな」


 深い森の中に、巨大な水鏡がぽっかりと横たわっている。本来なら、さぞ美しい場所なのだろう。


 だが、今は違った。


「これは……」


 水が濁っている。


 泥が混じっているのではない。水そのものに薄い靄がかかったような色があり、湖面も妙に重い。


 風は吹いている。儂の髪も木々の葉も揺れている。それなのに、湖面にはほとんど波が立っていなかった。


 岸辺まで近づき、しゃがんで手を水へ入れる。


 冷たい。水そのものに異常は無さそうだが、この水を好んで飲む気にはなれない。


――気が淀んでいるのだ。


 森で感じていたものより、はるかに強い。


 ここだ。


 この湖を中心に、何かが起きている。


 その時、グレイが儂の横をすり抜け、湖の縁へ向かった。


「グレイ、どうしたんじゃ?」


 呼び止めても、グレイは水面を見つめたまま動かない。


 やがて、湖の奥へ向かって大きく鳴いた。


「ニャアーーーッ!」


 それに応えるように、湖面へ小さな泡が浮かぶ。


 ぽこり。もう一つ、ぽこり。


 やがて、水の中から何かが顔を出した。


「こやつは……!」


 儂は目を瞬いた。


 黒い龍だった。


 黒い鱗に長い身体、角と髭、四本の脚。地球で絵や彫刻として何度も見た、東洋の龍によく似ている。


 ただし――小さい。


 身体の長さは、十歳になった今の儂と大して変わらない。


「さすが異世界じゃな……龍が実在するとはのう」


 異世界なのだから龍などの幻想的な生物がいてもおかしくはない。


 そう思っていたはずなのに、実際に目の前へ現れると、さすがに感慨深いものがある。


 だが、見惚れている場合ではなかった。


「おぬし……ずいぶん弱っておるな」


 黒龍は岸まで這い上がると、その場へ力なく身体を横たえた。


 鱗には艶がない。グレイの黒曜石のような角とは大違いだ。呼吸も浅く、瞳にもほとんど力がない。


 そして何より、気の流れがひどく乱れている。


 これは、グレイを初めて診た時と似ていた。


 いや、それよりずっと重い。


 儂は黒龍のそばへしゃがんだ。


 逃げる様子はない。


「ちょっと診せてもらうぞ」


 そっと黒龍の身体へ触れた。


 その瞬間――。


「これは……!」


 思わず息を呑んだ。


 あまりにも大きい。


 目の前の身体は小さい。龍の中でも、おそらくまだ幼いのだろう。


 それなのに、その奥に感じる気は、とてもこの一匹の中だけに収まるようなものではなかった。


 深く、広く、大きく、どこまでも続いている。


 儂は目を閉じ、その気をたどった。


 すると、黒龍の気が湖へつながった。さらに湖から森へ、川へ、土へ、木々へと広がり、その先は大地の奥深くまで続いている。


 巨大な気の流れが、この土地そのものを巡っていた。


「なるほどのう……」


 地球にも、これに似た考え方はあった。


 風水では、山や川、谷を巡る大地の気の流れを、龍になぞらえて“龍脈”と呼ぶ。


 そして、その龍脈の気が集まり、強く働く場所を“龍穴”と呼んだ。


 白い空間で神が見せてくれた、この世界の星。


 そこにも、白い気の道が、まるで大地を巡る血管のように張り巡らされていた。


「龍脈……」


 口にしてみる。


 地球では、大地を巡る気の道を、比喩として龍になぞらえていた。


 だが、この世界には本当に龍がいる。


 ならば「龍脈」という言葉は、もはや比喩ですらないのかもしれない。


 そして、この湖には、その巨大な流れが集まっている。


 人体でいえば、経絡を巡る気が集まり、全身へ働きかける経穴――ツボのような場所だ。


「なら、ここは――龍穴じゃな」


 大地を巡る気の流れが“龍脈”。

 その気が集まる要所が“龍穴”。


 どうやら儂は、この世界へ来た理由につながるものを、思ったより早く見つけてしまったらしい。


 そして、この小さな黒龍は――。


 儂はもう一度、その身体へ手を添えた。触れながら、龍の気と湖の気を確かめる。


 そこで、ようやく腑に落ちた。


 龍が湖を守っているのではない。この湖を気に入り、棲みついているわけでもない。


 龍も、湖も、大地を巡る気の流れも、切り離された別々のものではなかった。


 同じ大きな流れが、それぞれ違う姿となって現れている。


「そういうことか」


 だから、龍が弱ったから湖が濁った――というだけではない。


 湖が濁ったから龍が弱った――というのでもない。


 どちらかが原因で、どちらかが結果なのではないのだ。


 一つの異変が、龍にも、湖にも、森にも、それぞれ違う形で現れている。


「この小さな黒龍は、“龍脈の化身”といったところかの」


 その時だった。


 黒龍の身体の奥で、何かが引っかかった。


「……これか」


 グレイの中にもあった。森の地面にも、わずかに混じっていた。


 そして、神から聞いていた、この世界に本来存在しなかったもの。


 世界の陰陽の気とうまく馴染まず、その巡りを乱しているもの。


 異質な気。


 今、初めてそれにはっきりと触れた。


 この世界を満たす“白い地の気”の中に、ひと筋だけ、闇を溶かしたような黒い気が混じっている。


 しかも、それは黒龍の中だけではない。湖にもある。大地を巡る龍脈にも、同じ黒い気が入り込んでいる。


「なるほど……」


 ここまで分かれば、むしろ当然のことに思えた。


 龍も、湖も、森も、もともと同じ大きな流れでつながっている。


 ならば、そこへ異質な気が入り込めば、その影響もまた、一か所だけでは済まない。


 龍脈の巡りが乱れ、その淀みが龍穴であるこの湖へ現れる。


 黒龍は弱り、森の気も滞る。


 植物は生気を失い、動物たちは離れ、グレイのような生き物にも影響が及ぶ。


「……全てが一つなんしゃな。同じ病を、違うところから見ておっただけか」


 儂は静かに湖を見渡した。


 黒龍も、湖も、森も、別々に病んでいたのではない。


 一つの異変が、つながった世界のあちこちに、それぞれの形で現れていたのだ。


 神が儂をこの世界へ呼んだ理由。


 その一端が、ようやく目の前で形になった。


 おそらく、これはこの森だけの問題ではない。


 世界のどこかで、同じように龍脈が乱れ、龍穴に異変が起き始めているのだろう。


 もしそれが広がれば、やがて世界そのものの気の巡りにまで影響する。


 だが――今は分かったことより、分からないことの方がはるかに多い。


 この異質な気は、いったい何なのか。どこから来たのか。


 なぜ、この世界の気とうまく馴染まないのか。


 そして何より――。


 本当に、悪いものなのか。


 儂は小さな黒龍へ視線を戻した。


 苦しそうに目を閉じている。


「まあ、考えるのは後じゃな」


 世界の謎も気になる。非常に気になる。


 だが、その前に患者がいる。


「まずは、おぬしからじゃ」


 儂は黒龍の身体へ、そっと手を添えた。



挿絵(By みてみん)

お読みいただき、ありがとうございました。


小さな龍の登場です。龍脈が比喩ではなくなりましたね。


一日一話、毎日20時30分に更新する予定です。


続きを読んでみたいと思っていただけたら、星の評価やブックマークで応援していただけると大変励みになります。


よろしくお願いいたします。

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