第二章 紅 ②
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その男が初めて登楼した日のことを、竜吉はよく覚えていた。薫が呼出になり道中を張るようになってから一年ほど経った頃である。江戸詰めの嶌田様が国許に帰るとかで、大座敷を貸し切って大宴会を開いた日、大勢引き連れてきた供侍の中の一人に男は混ざっていた。そこには馴染みの薫だけでなく、座を華やかにするために朋輩の遊女達も呼ばれ、新造や禿、芸者衆も大勢そこに同席していたのだが、そこの女達が口を揃えてその男のことを噂していた。
「まるでお役者じゃ、菊五郎の絵なんぞによく似ておる」
「したがすぐに国許に帰ってしまうんじゃろ、嶌田様も人の悪い」
「江戸詰めにあんな侍ばかり選ってくれるなら、わっちらも狸寝入りをせずに済むわいなぁ」
笑い合う女達の声がどうかすると座に聞こえそうなくらい高いので、竜吉はしばしば人差し指立てて彼女らを戒めたものだ。しかし男なんぞ腐るほど見ているはずの彼女らがそこまで手放しで褒めるとは、一体どんな男かとさすがに気になり、座をひょいと覗いてみてすぐにそれと見分けがついた。一番末席の方で一人盃を傾ける男、周りから銚子を勧められることも無ければ騒ぎに加わることも無く、ただぽつねんと手酌をしていることからも、仲間内では浮いた存在なのだろう。それもそのはず、「浅黄裏」と馬鹿にされる他の侍達とはそもそも形からして異なり、黒羽二重の紋付に茶献上の帯を締め、ちょっと襟を抜いて見せているので、背筋がすっと伸びて見えて姿の良いことこの上ない。年の頃は竜吉とほぼ同じくらいか、糸を引いたような鋭い目元は涼しげで、色は抜けるように白く、月代を細く剃り上げ鬢のところから一筋二筋、白い頬へ後れ毛がかかるところなぞ、男の自分が見てもぞっとするような色気があった。しかし、ただの伊達男とは違った、蔭のような、闇のような、どこか危ういものが男の身の内に漂っているのが竜吉には視えた。痩せても枯れても元商人の倅、人を見る目に曇りは無かった。
(ありゃ、一癖も二癖もありそうな奴だ)
しかし国許に帰る嶌田様の供ならやがて江戸を離れるのだろう。見世に来るのもこの一回きりだと思って、その時はほとんど気にもかけなかった。しかしその思惑は外れ、嶌田様と入れ替えで江戸詰めとなった田村様が初めて湊屋を訪れ、薫花魁お見立てで初会となった日にも、この男は供の中にいた。
聞きもせぬのに引き付け座敷で勝手に田村の語ったことには、
「供に連れてきたこの色男はの」例の男を目で指し示して「嶌田氏からの預かりもので、吉原に繰り出す時には女どもが喜ぶのでぜひ連れて行けと、こう申されたのでな。良い看板であったろう」
不躾な物言いに座にいた女達は一瞬嫌な顔をしていたが、一の上座にいた薫は気にも留めず、口を覆って笑って見せたので、皆慌ててそれに倣い、座は大いに沸いたものである。
この時も竜吉は、たまたま煙草盆をしつらえに座敷に訪れていたが、一同が湧いてもにこりともせぬ男の目が、ただ一点、薫をじっと見つめていたこと、またその視線を捉えた薫が、今まで見せたことの無いような戸惑いの表情を浮かべ、すっと目を逸らしたことを見逃さなかった。嫌な予感がした。しかし女将にいちいち報告するほどのことではなく、また田村様もそれきりその男を供に連れては来なかったので、再び日々の忙しさの中に、男のことを忘れていってしまった。
だが竜吉の嫌な予感は外れなかった。男はこのふた月ほど後、今度は一人で湊屋を訪れ、薫を指名して来た。それから先はどちらが先に惚れたものか、薫はずるずるとその男にのめり込んでいった。
男の名は桐生凛三郎といい、旗本の三男坊だという話であった。しかし金を持って薫に会いに来ている限りは客であるし、ご内証も黙認していた。恋を知った薫は、物静かな中により一層の艶を増し、最初の頃は馴染みの評判は上がったくらいだったのである。気を張るお職の花魁の座、情夫の一人くらいいなきゃやってられない、それは薫さんとて同じことだよと朋輩達は噂し、凛三郎についても、愛想は悪いがその男ぶりと変に侍ぶらぬところがかえって女達に評判が良く、彼が登楼すると薫だけでなく彼女らまで「凛さん」「凛さんが来た」と浮き足立つ始末であった。
だがそんな中でも、凛三郎について快く思わない者は竜吉だけではなかった。一人は女将、これは旦那亡き後女手一つで見世を取り仕切る百戦錬磨の剛腕、うわべだけに騙される人でないのは当たり前であった。そしてもう一人はしをん。だがこの「快く思わない」の内容が、しをんに関しては他の二人と異なっていた。
その感情が何であるか、しをんは既に気付いていた。それは嫉妬であった。ひいな遊びのように、いつまでも薫と二人穏やかに過ごしていた日々が、凛三郎の登場で壊されたのだ。この所薫はしをんの相手をほとんどしてくれず、何やらいそいそと文を書いては、その使いをただ頼むだけであった。文の送り先は分かりきっている。「りんざぶろうさま」細く流麗な薫の筆跡でこう書かれた草紙を受け取る度に、しをんは何とも言えぬやるせなさが身の内に湧いて、わざと乱暴に文を懐に突っ込んだ。
(わっちの姐さんが、あんな男に)
薫がいそいそと凛三郎の待つ部屋に向かう時は、上草履の足音がいつもより軽やかだ。その音を聞く毎に、あべこべにしをんの心は重くなる。そして薫を部屋に送った後は、にこりともせずに凛三郎をぎろりと睨みつけ、襖をばしんと閉じた。薫は小言も言わなかった。むしろ、そんなことに気付かぬくらい、目の前の凛三郎に夢中なのだ。自分の視線に気付いてか、いつも凛三郎はこっちをちらと一瞥し、ふっと唇を歪める。それがまた憎たらしい。まるでもう薫は自分のものだと言わんばかりの不敵な笑み。しをんは決して、あの男が姐の情夫だなどとは思いたくなった。それはやはり男の笑みの中に不穏なものを、子供心に感じ取ったからかもしれない。
凛三郎がその本性を現すまで、そう長い時間はかからなかった。
最初はほんの少しの金の無心だった。国侍の内情の苦しさは薫にはよくわかっていたし、何しろ生まれて初めて心の底から惚れ抜いた男の頼みを、突っぱねられる性分ではなかった。薫には山﨑屋を始めとして多くの後ろ盾があったし、金回りに困ることはあまり無かったことも、金に対する考えの甘さを生んだ原因なのだろう。しかし、ここからはもう泥沼であった。凛三郎がきちんと金を持って登楼していたのは最初の半年ほど、その内薫の身揚がりで登楼する回数が三回に一度、二回に一度になり、やがては毎回になった。しかも揚がる時は決まって居続けで、その度に薫は見世を休んでまで凛三郎に付きりになった。
こうなるともういけない。薫の変化は馴染みの客にすぐに伝わり、山﨑屋の隠居などはすぐに見抜いてそれ見たことかと女将に苦言を呈した。それでも隠居はまだ通ってきてくれた。他の客はと言えば身が入っちゃいないと文句を垂れたきり、もう現れなくなったり、切れ状を送ってくる客も次第に増えた。張りが少しばかり弱くとも、学もあって話も出来、何より誰にでも甲斐甲斐しく接する薫に皆惚れていたのだ。その甲斐甲斐しさがただ一人の男に向けられたとあっては、客が愛想を尽かすのも道理であった。
「こりゃ下手したら格付けを落とさなきゃいけないよ」
煙管を吹かしながら、女将が竜吉にこう洩らしたのは凛三郎が初めて登楼してからおよそ一年が経った頃だった。
「このまんまじゃ、山﨑屋さんからも愛想を尽かされかねない。そうなったらもうなし崩しだ。あの妓は住み換えだね」
酷い話だが、使い物にならなくなった女郎は、容赦なく切り捨てていかなければ大見世を取り仕切るのは到底難しい。お職が情夫に入れあげて人気を落とすようでは、惣籬の湊屋の看板そのものに傷がつく。
「しかしそんなことはしたくない、何とかして切らなきゃなるまいね。田村様の紹介とはいえ、見過ごしてはいられないよ」
ぽんと、女将が煙草盆に火種を落とした。
「女将さん」ここで初めて、竜吉は女将の向かいに座った。「あの桐生とか言う侍、本当に田村様の供侍ならいざこざの元にもなりましょうが、果たして怪しいもんです」
「竜吉、おまえもそう思うかい」女将は煙管の雁首で火鉢の端を打ちながら「いっぺん、調べてみるかい。滞った払いを取り戻すまではいかなくても、何らかの手は打たなきゃあ、こちらにも面子ってものがある」
「では、田村様に文を遣わしますか」
「いや、それには及ばない。三浦屋の旦那に頼もう。あの方は田村様のお屋敷にも出入りがあったから」
三浦屋とは、薫の朋輩である座敷持ち・夕顔の馴染みで、武家屋敷の御用商人を務めていた。侍に直接頼む前に、まずより手近な所から探りを入れるのが賢明だという判断だろう。竜吉は心得て、早速夕顔に頼んで三浦屋の旦那に文を出すことにした。
衝立の向こうに、薫と凛三郎がいる。この不寝番くらい、しをんにとって苦痛の時間は無かった。転寝を決め込みたくても、胸のむかつきのせいで眠気が飛ぶ。廓に引き取られて最初の頃は、衝立の向こうで何をしているのかすら、しをんは知らなかった。朋輩の禿達に聞いてみると彼らは得意げに教えてくれたが、それでもやっぱり何をしているのか見当がつかず、とうとう実際に覗いてみて驚いた。床の上での薫は、普段の薫と全く違っていた。どこにいても、たとえ湯上り化粧前でも居住い正しく、襟が乱れていたことすらない薫が、男といる時は長襦袢から白い足も露に突き出し、襟もはだけるままである。櫛目正しい髪が乱れ、紅が男の肌について落ちる。すぐに怖くなって見るのを止めた。あれは本当に薫だろうか。ここの女達が皆々あれをしているのか。そして自分もいずれは――しをんの中で至高の存在だった薫も、床の上ではただ男を悦ばせるだけの存在。その事実を突きつけられ、しをんは男に対する嫌悪感で胸がいっぱいになったが、年を経る毎にそれは収まるどころか、益々増していった。それは憎悪といっても正しかった。それでも山﨑屋の隠居のように、気のいい客はしをんを皆可愛がったので、あからさまにそれを表すことは無かった。だが凛三郎は違った。彼はしをんにとってもはや敵であった。今まで積もりに積もっていた男達に対するどす黒い感情が、凛三郎に対して一気に放出されたのだろう。
衝立の向こうから、薫の声が聴こえる。甘やかな、溜息交じりの声、時に男の名前を呼びながら、それは次第に昂っていく。こんな声を、今まで薫が出したことはなかった。よくあからさまに大きなよがり声で、客を喜ばせようとする女がいる。しかし薫は決してそんなことをしなかった。本当に、つい溜らなくなって思わず声を洩らす。薫はまさにそんな感じで、客もそれが良いと喜んだのだ。だが、凛三郎といる時は、明らかにただの嬌声、あんな声は姐さんの声じゃないと、しをんは耳を塞いで部屋を飛び出した。どうせ、薫は事に夢中で気付きはしない。
引け四つ、ほうぼうの部屋から聞こえていた女達や客のはしゃぎ声、宴たけなわの音曲などが止み、時折ひそひそとした人声が聞こえてくるだけの廊下。しをんは欄干に掴まりながら、沈々と月光が降り注ぐ庭先を見つめていた。ふっと息を吐き、やっと落ち着いてきたと思っていたその時、ふいに真後ろの部屋から、今真っ最中と言わんばかりの男女の声が聞こえてきて、その瞬間しをんは、ついに耐え切れなくなって吐いた。咳き込みながら、ほとんど唾液ばかりの嘔吐を繰り返す。あの声を聴いていたら、自分の身の内まで穢されてしまいそうだ。――そう穢れる。男は女を穢す。薫もそれは同じ。気高く、馨しい薫が、凛三郎という男によってどろどろに穢される。誇り高い花魁が、ただの生臭い女郎に成り下がる。あんな男に。あんな男のせいで。
「許せない…」
胃液に焼けた喉から搾り出すように、しをんは呪詛の声を上げた。ふとその時、後ろに人の気配を感じて、ぎろりと振り向きざまに睨みつけた。
「引込みになろうってぇ奴がそんなおっかねぇ顔をするな、しをん」竜吉だった。「今吐いていたな、悪い客に酒でも呑まされたのかい」
竜吉と知って、しをんの瞳は少し緩んだ。唾液で汚れた口を拭う。
「何でもありんせん」
その時、後ろでまた女の声が聴こえた。悲鳴にも似た、随分大仰な声だった。
「竜吉っつぁん」その方を忌々しげに眺めながら、「竜吉っつぁんもあれをしなんすか」
あまりに唐突な問いだったので、竜吉は「あれ」の意味を一瞬量りかねた。
「なんだ急に」大袈裟な嬌声はなおも続く。「そりゃ当たり前だろう。男なら誰だってするさ。おめぇも十一にもなって馬鹿なことを聞くんもんじゃねえ」
笑いながら応えて見せて竜吉ははっとなった。自分を睨みつけるしをんの目から、透明なものが伝っていたのだ。月影にきらりと光り、まるで真珠のようなそれが、先程吐いたせいか少し蒼ざめた頬を伝う様に、竜吉は背筋がぞくぞくと震えた。
(まただ…こいつはがきのくせに、どうしてこんな…)
嘘泣き空涙は遊女の武器、そんなものには慣れっこのはずだった。しかし十やそこらの子供の涙に、こんなに心を乱されるとは。それは天性の媚態なのだろう。
「こんなとこで泣くんじゃねぇ。おめぇもここの子なら、客の前で泣きな」
これ以上見つめていたら、しをんを抱きすくめてしまいそうだった。竜吉は小さな肩にぽんと手を置いたきり、そのままその場を去った。
しをんは年を経る毎に、益々浮舟に似てきた。その美貌は、同じ年頃の禿達の中でも群を抜いていたために、他の客達にちょっかいを出されることもしばしばだった。だがしをんは一向に頓着せず、いつもその黒目がちな瞳でじっと睨んでは、逆に大人の客を辟易させた。芥子坊主も今はすっかり髪が伸び、豊かな黒髪に禿独特の豪華な花簪を飾る様子は、人々の目を自ずと引き付けた。年が明ければ十二、引込みになっていよいよ本格的な仕込みが始まる。そんな時に、姐女郎があんな有様では、困ったことだと女将は溜息した。
「しをんのためにもならない。違う妓に預けてはいかがですか」
薫付の番頭新造が、女将にたびたび意見してきたが、それでも首を縦に振らなかったのは、何よりしをん自身が薫に心底惚れ込んでおり、その傍を離れるとはとても思えなかったからだ。
「そこでだめになるなら、あの子もそれまでだよ。そんなんではこの先生きていけないからね」
だがいい影響を与えないことは確かだった。今まで廓の世界には珍しいほどに仲睦まじく、本当の姉妹のように連れ立って来た薫としをん。それはしをんのためにも勿論、薫のためにも良いことであった。わっちはこの子のためにも稼がにゃならぬと、その思いが辛いお職の重圧から薫を守っていたこともまた事実だ。その支えがしをんから凛三郎に移っただけと、最初は楽観していたが甘かった。凛三郎はしをんとは違う。凛三郎との付き合いは、花魁としての薫を駄目にするものだった。
「ええい、忌々しい虫じゃ。色男なだけにたちが悪い」
苛立たしげにぽんぽんと火鉢の端を煙管で弾いていた時、先程の番頭新造が再び戻って来た。
「女将さん、夕顔さんが」
「ああ、入っとくれ」
夕顔が遠慮がちに部屋に入ってきたのを見て、女将はすぐに用件を見抜いた。
「三浦屋さんからの文だね」
夕顔は静かにこくっと頷き、いくらか厚みのある草紙を徐に手渡した。受け取ってすぐに封を切る女将ではない。夕顔に礼を言って人払いをした後、そっと封を切った。さっと目を通した瞬間、女将の目の色が変わった。
「やっぱり、そうだったんだね…」
こう呟いて舌打ちすると、手紙を元のように納めて懐に仕舞い込み、三度さっきの番新を呼びつけて今度は竜吉を呼びにやらせた。
女は美しい。
湯船に浸かりつつ、湯殿で身体を洗う女達の姿をぼうっと見ながら、しをんは心底そう思った。
丸みのある柔らかな体の線、肌理の細かい白い肌、細い項に豊かな乳房、そして尻、太股、どれをとっても、優しさに溢れ輝いて見える。そりゃ女も時には恐ろしい。心中立てをするのだからと、自らの小指を小刀でぶつ切って見せた女、禿を引っぱたく新造に、新造を怒鳴りつける番頭新造、髪をおどろに振り乱しての取っ組み合いも見たことがある。だが女に振られて怒鳴り散らす客だの、酒に酔って絡んでくる客だの、追い回して禿の自分の帯を解こうとした客、そんな連中の醜さに比べれば、よほど絵になる姿であった。
その美しい女達の中で、一際輝きを放っていたのが姐の薫。透き通るような白い肌に、誰よりも優雅な立ち居振る舞い、何でもよく知っており、何でもよく出来る、いっち綺麗なおいらん姐さん、薫はしをんの全てであった。馴染みの客はお大名に大店の旦那衆、綺羅星のごとき上客がひしめいており、身請けの話など降るようにあるに違いないのに、ただ一人、美しい打掛に落ちた染みのように、あの男が薫の前に現れてから、そんな話はぱったりと無くなり、連日のようだった華やかな道中も、次第次第に減っていく。
「ほんにあの男は憎らしい」
自分の心の声が湯殿に響いたのかと思い、しをんはびくっと顔を上げた。するとそれは自分の声ではなく、隣で糠袋を使いながら話をする女の声であった。女は夕顔、薫の子供の時からの朋輩で、昼夜金二分の座敷持、今この湊屋では二枚目に位置する遊女だった。
「薫ちゃんも面倒な男に引っかかったもんだ」
「本当にねぇ」相槌を打ったのは湯を使う年かさの遊女だ。「あの妓は子供の時から知ってるけど、素直で本当に良い子なんだよ。でも禿立ちは世間知らずだ、男に騙されると坂道に豆、あっという間に転がり落ちる」
「あれで本当に、相思相愛ならまだ救いようがあるがね」
しをんは湯にのぼせそうになりながら、一心に二人の話を聞く。
「侍だなんてとんでもない、あいつはとうに浪人の身なんだ」
「へぇ? じゃあ田村様が連れてきた時は」
「あんまり素行が悪いんで、国へ連れて行きかねて、嶌田様が田村様に押っつけたみたいなんだけどさ、とうとう本性がばれて、こうさ」
夕顔が首をちょん切る仕草をした。
「それじゃあ、何だって江戸でぶらぶらしてるんだい」
「もともと三男坊の冷や飯食い、故郷からも見放されているんだろうさ。でも、一番の理由は、」
ここで声を潜め、辺りに薫のいないことを確認するように周りを見渡し、夕顔はそっと小指を立てた。
「もともとしくじったのもこれのせいさ。品川の辺りにいるらしいんだがね」
「それじゃあ何かい? 薫ちゃんはていの良い金づるってわけかい?」
相手が声を荒げたので夕顔はしっと人差し指を出し、
「可哀想だけど、どうもそういうことみたいだよ。三浦屋の旦那が言うには、あの男ぶりを売って方々に貢がせてるって。その筋じゃ有名なんだと」
しをんは意識が遠のきそうになった。湯船に長く浸かりすぎたせいもあったが、それ以上に、身の内からふつふつと湧き上がるあまりの怒りに、気分が悪くなったのだ。何としても、あの男と別れさせなければ。薫が駄目にされる前に。美しい花木に取り付いた宿木は、早々に引き抜いてしまわねば。育ってからでは、主もろとも枯れてしまう。
しをんは湯船から飛び出したが、頭の芯がふらふらして、真っ直ぐに歩けなかった。身体の中も、外の世界も、ぐらぐらに揺れていた。
「――そういうことなんだ」
女将の話を聞いて、竜吉は自分の勘が全て正しかったことを知り、そして胃がむかつくような感情を抑えることが出来なかった。
「これではっきり決心がついたよ」女将も苦虫噛み潰した表情で、煙管の吸い口を咥える。「あの侍とは別れさせる。薫にはあたしから言おう」
「言って聞きますかい、薫さんは」
「聞かせなきゃなるまいよ。この見世の看板がかかってるんだ。是が非でも呑んでもらわなきゃ、証文ごと切見世に叩き売るより他なくなるからね」
叩き売る、という言葉の響きに、辺りの空気を凍らせるほどの冷酷な決意を見て、さすがの竜吉もぞっとした。
「もちろんあたしゃ、薫の性分などとうに見抜いている。あの子が八つの時から見てきたあたしだよ、素直な反面、一途で頑固で、こうと決めたらてこでも動かぬとこがある。だからこそあの妓は、あそこまで登り詰めたんだ。しかしその足を掬うのも、その性分とは皮肉だね」
女将は溜息の代わりに、深く紫煙を吐き出した。煙が部屋を漂い、やがて空気の中に溶け入るのを二人はじぃっと見つめていたが、やがて竜吉が口を開く。
「女将さん、俺にはわかりません」女将は相変わらず、煙の行方を見つめたままだ。「あなたは最初から見抜いてらしたはず。あの桐生てぇのがろくでもない奴であること、そして薫さんがそれにのめり込めば、どういうことになるかを」
次第に、竜吉の声は高くなっていく。
「こうなることはわかっていながら、」膝の上で拳を握る。「ほうっておいたのは一体なぜなんです。しをんが」
欄干で苦しげに吐いていた、しをんの小さな背中を思い出す。涙を流した、その凄艶な表情を思い出す。
「しをんがどんだけ苦しんでるか、わかっておりやしょう。あのまんま行けば、あの子は死んじまいますよ」
「…そうだろうね」
ぽつりと女将が呟いた言葉に、竜吉は思わず声を荒げた。
「そうだろうねたぁ、何てぇ言い草! 女将、あんたは誰よりも情け深い人です。女郎を紙くず同然に扱う他の亡八とは違い、あんたは女ども一人ひとりにきちんと目をかけてやる。だからここの女どもはみんな、客に対しても行き届いた相手が出来る。それでこその湊屋だと、俺は思って奉公してきやした。ことに薫やしをんは、あんたにとっちゃ娘同然のもんじゃないんですかい? 浮舟が身籠った時だって――」
ここまでまくし立て、竜吉ははっと我に返った。だが口から出た言葉はもう返らない。女将はきっとこちらを見据えて、
「竜吉」その睨みは竜吉の怒りを冷やしてまだ余りがあった。「おまえもここの男なら、そんなことを軽々しく口に出すんじゃないよ。おまえはとうに気付いていたんだろうがね、目聡いのも災いの元さ。人より物が良く見える人間は、それだけ人より気を張らなくちゃならない」
煙管を煙草盆にぽいと置くと、女将は背筋をしゃんと伸ばして、竜吉へと向かい合った。
「女将さん、あいすみません…柄にも無く、頭に血が昇っちまいました」
「そんなこたいいんだよ」声が一段と低くなった。「この話はおまえにだから言えるんだ。おまえ、しをんが誰の子かもう気付いているね」
一瞬のためらいの後、竜吉はこくっと頷いた。
「尤もそんなこた隠すに及ばない。隠したところであのご面相じゃ、見る人が見ればすぐにバレちまう。若藤や薫だって始めっから気付いていたんだ。肝心なのはそこではない」
ここで女将は、更に膝を進めて、竜吉にぐっと近づいた。遊女達に見慣れていると女将は随分年増に見えたが、よくよく見ればまだ肌にも張りがあるし、髪も黒々と豊かで、そんじょそこらの女には全く引けを取らない。それは女将の身の内からくるものも大きく影響しているのだろう。
「ところでおまえ、薫の在所を知っているかい」
竜吉は黙って首を振った。女将と面突き合わせて話しているせいだろうか、舌が重石をつけたように動かず、口を利くことが出来ない。
「あの妓はね、ここの馴染みだったお武家さまの娘なんだよ」女将の鉄漿が、明り取りからの光に揺れて見える。「うちの暖簾をくぐるぐらいだ、よほど金回りに苦しんだんだろうねぇ、でもそのお武家さまは決して売るなどとはおっしゃらなかった。預けるだけだと、きっと迎えに来ると、そう私にも薫にも、念を押していかれたものだよ。だから薫も、よくあるように泣きべそかいたり、そんなことは一切無かったよ。お父上が迎えに来るって、頭から信じていたのだろうねぇ。それからも長いこと、薫は信じていた。浮舟が死んで、引っ込みから新造出し、下手したら突き出しで一本立ちするその日まで、まだ間に合う、まだ今ならと思っていたかもしれないよ」
ひょっとしたら今も、薫はその父とやらを待ち続けているのかもしれない。あれはそういう女だと、竜吉は口には出さなかったが目で応えた。
「下地が良かったんだろうねぇ、あの子はどんな芸事もみな並以上にこなした。字なんざあの浮舟が舌を巻くくらい達筆だったよ。世が世ならああいう子が太夫になったのだろうねぇ。でもあの子自身はそれが、花魁になるための稽古だなんて思っちゃいなかった。だからあの子はあんなに何でも一生懸命やったのだろう」
薫の生家がどれほどの身分だったのかは知らないが、武門の子女なら花魁の教養などは分相応の花嫁修業。薫が元よりここに身を沈めたままでいる気が無かったのなら、それを己れの本分と思って励んだのも当然のことだった。そこで竜吉は、あの薫の、健気なまでの甲斐甲斐しさがどこから来るのか、やっと得心が行った。あれは武家の奥方の、内助の功のやりようなのだ。客を夫に見立て、ご内儀同然に尽くす。それを武士や大家の旦那が喜ばぬはずはなかった。今のご時世あれほどよく出来たご新造など、鉦や太鼓で捜せるものでもないだろう。薫は言うなれば廓の中で現れた、かつて妻の鏡とされた女達の面影を持つ最後の女であったのだ。
だがその良妻も所詮は一夜で消える夢、恋を知り一人の男のものになった瞬間に、その他の人間は全て忘れ去られる。
「じゃあしをんを預けたのは」竜吉はようやっと重い唇を開いた。「幼い日のひいな遊びのように、薫がしをんに色々と仕込むだろうと、そういうことで」
女将はふっと笑み、それきり話を止めた。外では七つの鐘が時を告げ、昼見世の終わりを呼ばわっていた。昔語りもこれにて仕舞いと言わんばかりの、眠たげな音。
「そう、だからこそ、しをんのこの大事に、ああいう虫がついたのは手痛いことだったね。何としても今の内に切らねばなるまいよ」
しかし、竜吉はここまで聞いてもまだ合点がいかないところがいくつかあった。それはしをん自身のこと――最初の日、妙に良い出で立ちで現れたしをん、箕輪の寮でこっそり育ったのなら、もっと粗末な装いをしているものだろうに、それにしをん自身のあの「下地」は一体いつ身につけられたものなのか、そして薫がしをんを仕込み、しをんが薫の下で育っていくことで、最終的には女将はしをんをどうしたいのか。それを見抜くまでには、まだ竜吉には幾年かの時を有するようだった。
それに今は、凛三郎の問題をどうにかせねばならぬ。それが一等大事なことであった。
夕餉を見ただけで、しをんは喉の奥からえぐいものをがこみ上げてくるのを感じた。左右では食べ盛りの禿達が茶碗に顔を突っ込まんばかりにかっ込んでるのに、こちらは箸を取るのも億劫だ。それでも食べねば後が持たない。呼出の薫は昼見世にはほとんど出ない代わりに、夜見世はほぼ出ずっぱりだ。一日はまだまだ長い。息を呑んで、箸を取る。芋の煮ころがしを半分に割り、それをまた半分にして、崩れたところの欠片をひょいと掴む。小鳥の餌のような小さな芋を、恐る恐る口へと運ぶ。だが、口に箸が触れた瞬間、また吐き気がこみ上げた。木の箸が唇に当たる感触に、今朝の出来事を思い出す。
「おいらん、お起きなんし」
四つより少し前に起きて蒲団を上げ、後輩の禿達を起こしてから、そう言って薫を起こすのがしをんの一日の最初の日課であった。薫はその声にあいと応えたなり、なかなか起きてはこない。薫は青白い肌の表すように血の巡りが悪いと見えて、手足はいつも冷たく、またとりわけ朝は辛いようだった。そこでしをんはもう一度呼びかけ、今度は寝床の中の薫を揺さぶる。それでも起きない時は、上掛けを剥ぐ。そうすると細い肢体に纏いつく寝巻の絹目が、朝の光の中でつやつやと輝き、そこから伸びた白い足首の静脈が透ける様に、しをんは毎度のことながらうっとりする。そうして更に、いっち綺麗なおいらん姐さんの、こんな姿を知っているのはわっちだけと、誇らかな気持ちにもなる。こうすると初めて薫はさぞ大儀そうに起き上がり、しをんに朝の挨拶をする。そうしてしをんが部屋を立ち去り、うがい手水のための手桶を持ってきた時にはもう薫はすっかりいつもの薫に戻り、髪には櫛が入り、襟も背筋もぴんと伸びている。もっとも客が居続けた時の薫はこれとは異なり、客よりも早く起きて化粧もすっかり直し、しをんが起こしに来る頃には火鉢の傍にきちんと座っている。朝まだきの廓の静寂の中に、薫が襦袢に小袖を羽織って背筋を伸ばし、蒲団の中で白河夜船の客をじぃっと見据えている凛とした様子も、しをんはやはり好きなのであった。いくら普段は寝坊でも、客に寝顔を見せるは遊女の恥、さすがは花魁の鑑と鼻が高かった。
しかしこの日、この朝の薫はこのどちらの姿でも無かった。居続けた客が凛三郎だったからである。しをんはそのことを知っていたが、それでも起こしにいくのは務めの内、襖を開けると立て込めた屏風の向こうで、鼻にかかった薫の甘えた笑い声がする。甘えているのは声だけではないことは、見ずとも知れた。しをんは早くその声を止めたくて、わざと大きな声でお起きなんしと呼びかける。とうに起きているのは知っている。屏風の向こうでなにやら物音がする内に、鏡台の前で乱れ髪を直す薫の姿がちらと見えた。しをんはすぐに立ち去ろうとしたが、薫が何か用を言いつけようと手招きする。渋々と屏風の内へ行く。
「しをん、今朝は蕎麦を誂えておくれな。ねぇ凛さん、熱いのを二つでいいだろう」
ねぇと振り向いた先に、表天鵞絨の三つ布団の上で胡坐をかいて、煙草入れから煙管を取り出している凛三郎。しをんがきっと睨みつけると、その手を止めてにやりと笑う。この男はいつも仏頂面のくせして、この時ばかりはしをんの敵意を楽しんでいるかのように、さぞ愉快そうに忍び笑むのだった。その笑みは巷の女を騒がすだろうが、しをんはそれを見る度益々胸の炎が燻った。
「ああ、それに銚子の一つもついてりゃ有難い。昨夜は呑みすぎたから、迎え酒に」
薫はあいと明るく返事し、しをんにその通りに言いつけた。
「まぁ凛さん、なんて水臭い」
しをんへの言葉が完全に言い終わらぬ内に、薫はそそと凛三郎の傍に寄ると、凛三郎が自分で火を付けようとした煙管を取り上げ、自ら煙草盆に火を点けた。そのまま煙をふっと吐き出すと、自らの紅が吸い口にべっとりとついた煙管を、凛三郎に回す。凛三郎は薫の方をちらと見るなり、その紅を拭いもせずに煙管を咥え込んだ。その様を見てしをんは怖気が立ち、堪らず部屋を飛び出した。
普段煙草を喫まぬ薫が、凛三郎のためには巷の遊女がするように吸いつけ煙草を平気でしてやる。それはしをんにとって衝撃だったが、何より耐え難かったのは、薫が咥えた煙管を、凛三郎がさも当然のように自分の唇で包んだこと。その瞬間しをんは、薫の唇の紅を、そして凛三郎の唇の感触を、まるで自分が煙管になったかのようにはっきりと感じてしまった。――湊屋に来た日、薫から受けた接吻を思い出す。あの時の薫は紅を引いていなかったが、柔らかな唇の感触は今でもはっきり自らの唇に焼き付いている。その貴い感触が、凛三郎によってずたずたに穢されてしまったのだ。
だからしをんは、箸が唇につく度に、薫が凛三郎にしてやる一挙手一投足を思い出し、どうしようもない吐き気に見舞われていた。
「あの侍、今朝方ようやっと帰ったのかい」
箸を持ったまま動きが止まるしをんの後ろで、口さがない女達が噂話に花を咲かせる。
「当たり前だよ、今日で三日の居続けだ。そろそろ身がもたなくなるってなもんだ」
「あの色の白さじゃ、そうそう甚助というわけでもなさそうだしね」
一同、客の前では決して見せぬような、歯を見せての大笑い。
「薫花魁も身銭切っての身揚がりだろ、さすがはお職だね」
「ところがそうは問屋が卸さない、さっきご内所に呼ばれたみたいだよ。あれは女将も相当とさかに来てるね」
凛三郎が帰ったことは知っていたが、それ以降薫の部屋に顔を出していないので、しをんには初耳だった。思わず箸を置いて聞き耳を立てる。
「こりゃ、例のあれかもしれんね」
年かさの遊女がもったいぶったふうで言う。茶漬けをかきこみながら若い遊女が
「あれって?」
「あれさ」ここでそっと声をひそめ、「つきだしを食うのさ。もうあの侍と会うための身揚がりは許されない、どころか密会してるとこがばれたら折檻さ」
「お職だなんだと言ったって、所詮は女郎、ご内所には逆らえないってのかい。したがあれだけ惚れてるものを、生木を裂くたぁむごいもんだね」
「薫さんもまちっと上手くやれないもんかねぇ。あれ、番付もとうとう下から二番目だろ。今までは三本までには入っていたのに」
「廓育ちの禿立ちじゃ、かえってそこへんの融通は利かぬやも知れないねぇ」
話を聞く内に、しをんの身の内が震えてくるのを感じた。ご内所が、女将が、薫に意見してくれる。そうしたら、薫はあの侍と切れるかもしれない。あの女将の言うことだもの、薫だって聞かないわけにはいかない。そうすれば、二度とあの侍は薫とは会えない。しをんの目の前がぱぁっと明るくなった。未だ恋を知らぬ幼いしをんには、薫の一途さがどれほどのものか計り知るより、女将の鶴の一声を頼みとする思いの方がよほど強かった。きっとこれで、全て元通りになるに違いない。そう思うと急に吐き気が治まって、しをんは目の前の飯に佃煮を載せ、渋茶をぶっかけてかき込んだ。