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雛いちもんめ  作者: 緋川 桐子
3/12

第二章 紅 ①

第二章 紅


      1


 湊屋(ここ)に来る前の生活を、しをんはそこまではっきりとは覚えていない。長く時を経る内に、果たしてそれが現実だったのかすら危うく思えてくるほど、記憶は益々おぼろになった。

 だがはっきり覚えていることが一つあった。それは春の初め、桜未だ咲き初めぬ頃に、桃の花や色とりどりの菓子と共に飾った雛人形である。それもしをんが見たのはよくある紙人形の雛ではなくて、十二単に金の簪をつけた立派な内裏(だいり)(びな)、まるで生きているような美しい白い顔を、雪洞(ぼんぼり)の下でいつまでも眺めていたのは忘れ得ぬ記憶であった。

 この(うち)にも確かに雛祭りはあったが、しかし人形はどこにも無かった。遊女遊客にとっては何かと物入りの紋日であるし、禿達にとっては、ご内所から甘い菓子がもらえるめでたい日というただそれだけであった。それが不思議でならず、年上の禿に思わず聞いてみたことがある。だが彼女は貧しい家の生まれだったと見えて、そんな人形があることすら知らなかった。そこでもっと年のいっている新造に聞いてみたところ、

「あほう、廓がひいななど飾るものか。どこに嫁入りするわけでもあるまいに」

 こう鼻で笑われて終わった。女児の良縁を願って飾る雛人形を、この遊女の里で飾ってみたところで虚しいだけということであろうか。

 しかしここの女達は、まるで雛人形のようだ、というのは、幼いしをんが遊女達に抱いた最初の印象だった。見た目は華やかで美しく飾り立てられていても、身の振り方ひとつ自分の意思では決められぬ。張見世の(まがき)の中で一様に並べられた姿など、遠い昔に見に行った人形市と大差はなかった。お歯黒溝で囲まれたこの異界は、男雛のいない女雛ばかりが三千とひしめくひいな家、ただ一つ違うところといえば、この女雛の中には自らの才覚で、紙ひいなよりも貧しい境遇から、内裏雛のように綺羅な雛壇に登り詰める者も居るということであったろうか。

 湊屋のお職・若藤は、そうした類稀な女雛の一人であった。教養や美貌こそ浮舟には及ばねど、浮舟全盛の当時から持ち前の華と気風(きっぷ)の良さで人気を誇り、番付では必ず上位に入っていた。そしてこの春には、馴染みの上客であった船問屋の若旦那に身請けされ、晴れて夫婦になるのだと言う。この身請けには思わぬ裏話があり、実は若藤にはもう一人、身請けの話を持ちかけていた馴染み客がいたのだが、その客というのが何の因果か若旦那の船問屋にとっても上得意中の上得意である、江戸で一と言って二と下らぬ材木問屋の大旦那、そのため今回の身請けの件で商売がこじれて身上危うく傾くかという騒ぎであったのだという。だがこの大旦那にとっては身請けしたところで若藤はお囲い者止まり、対する若旦那はご内儀にして必ず幸せにしますから、どうかどうか私に譲って下さいと当家に出向いて直談判したとかしないとか、とにかく若藤を請け出す若旦那というのはどうして乳母(おんば)日傘で育った坊ちゃんにしてはなかなか骨がある、若藤は吉原きっての幸せ者だというのが、もっぱら世間の風評であった。

 事実この年明けより身辺の整理をし始め、自分の禿や新造などの行末を朋輩や女将に頼んで回る若藤は、忙しくともどこか楽しげで、勝気そうな瞳はいつにも増して生き生きして見えた。

「若藤姐さんのためにも、今年はひいなを飾りたいのう」

 若藤から薫へと預けられ、今は朋輩となったわかばにしをんは事ある毎にこう呼びかけていたが、わかばはただ笑顔で首を傾げるだけで、一向に手ごたえある返事が返ってこないのだった。彼女は愛想はやたらに良いがお(つむ)がちと鈍いと、新造達から陰口叩かれている少女であった。

 仕方なくしをんは、文机に薫が書き損じた草紙の皺を伸ばしては、折り紙のようにして紙ひいなを黙々と折ってはみるのだが、それは昔に見た内裏雛の美々しさからはあまりに遠い出来栄えで、しをんは幾つもそれを並べてみてはふっと溜息を吐いた。

「何じゃしをん、そりゃ紙ひいなかい」

 しをんの溜息で見栄えの悪いひいなの一個が飛んだ時、後ろから声をかけてきたのは若藤であった。湯から帰って来たばかりなのだろう、ほかほかと湯気の立ち上る肌は桜色に上気し、何とも言えず健康そうだ。同じ女の肌でも、薫の青白いまでに透き通った肌とは対照的だ。しをんは紙ひいなを起こしもせずに、襟からこぼれる若藤の豊かな胸元をぽかんと見上げていた。

「そんなに退屈なら将棋でも指すかい、今日はお使いも無いのだろう」

 しをんの返事も聞かずに、若藤はさっさと一階へと降りていった。若藤は自分の部屋に籠もるより、朋輩達が集って飯を食ったり世間話をしたりする一階の広間で過ごすのが好きであった。自室で書物を読んだり、書き物をしたりする方が好きな薫とは、これも不思議と反対だった。まるで光と影のようだ、と、しをんは幼いながらに考えたものである。

 一階の広間では、火鉢の周りに自然と人が集まる。陽だまり溢れる縁側では、足の爪を切っている遊女が一人と、どこから入り込んだか、丸くなって昼寝する三毛猫。重い将棋盤をようようの思いで運びながら、しをんは危うく猫の尻尾を踏みそうになった。しをんは薫が手習いをしたり琴を爪弾いたりする様を静かに眺めているのも好きだったが、若藤とこうやって将棋を指したり、女達の輪の中で皆を沸かせる若藤の話術の巧みさに聞き惚れるのも同じくらい好きであった。若藤は将棋、囲碁、花札など、勝負事にかけては滅法強く、朋輩はおろか馴染みの旦那衆ですら容易に相手には出来なかったのであるが、しをんの飲み込みの速さと粘り強さを気に入り、こうしてよく教えながらも相手をしてくれることがあった。全盛の花魁と、まだいとけない禿が将棋盤挟んで対等に睨み合っている様は何とも滑稽で、竜吉などは通りかかる度に忍び笑いを抑えられなかった。

 実際、しをんは不思議な子供だった。この湊屋に来て一年半あまり、彼女を怒鳴る者の姿を見たことが無い。小言を食らうとか叱る程度のことはあったかもしれないが、少なくとも行灯部屋の梁にぶる下げられての折檻などは、まだされたことはないのではなかろうか。それは彼女がそつ無く何でもこなす賢い子であったこともあったが、だったらばそれに嫉妬し執拗にいじめるような姉女郎や朋輩が居てもおかしくないのだが、それもない。どころか、皆がなぜか彼女をかまいたがった。同じ年頃の禿達は、年に似合わぬ落ち着きと何ともいえぬ威圧感を気味悪がって特に仲良くはしていなかったが、これが幾つか上の新造にでもなると、途端に目をかけていた。姉女郎である薫はその最たるもので、彼女を厳しく細やかに色々と躾けて教えていたが、その様子は傍から見るとなぜか「ひいな遊び」のように見えた。この場合、ひいなはしをんの役目であるが、しかし薫も目鼻立ちのよく整った硬質な美貌を湛えているためか、物も言わずじっと座っていると、これも美しい人形のように見えたから、ひいな同士のままごと遊びのように見えることもあった。ままごと遊びの証拠に、薫はよくある妹いじめのような、打擲(ちょうちゃく)だの煙管を押し付けたりだのをすることは一切無かった。もっとも薫は、誰に対してもそのようなことはしなかったが。

 薫とは好敵手であり、気質もことごとく正反対の若藤とて、しをんの前では同じであった。彼女の中には、人の愛玩欲を刺激する何かがあるのだろうか。竜吉は再び、あの日女将が山崎屋の隠居に言っていた、先々が楽しみな云々の台詞を思い出していた。

「しをん」ぱちりと、駒が盤の上で鳴く。「紙ひいななんぞ作ってどうするつもりなんだい」

 若藤の尖った指が手持ちの駒を弄ぶ。しをんは盤の前にじっと正座したまま、しばらく返事をしなかった。爪を切っていた遊女も、いつの間にか横で二人の将棋を眺めている。

「おいらんが」駒を小さな手で動かしながら、しをんはやっと口を開く。「嫁入りするお祝いでおす。」

「お祝い?」ふっと、若藤の涙ぼくろが揺れた。「あれはわっちのためなのかい」

「あい、芸者衆も旦那方も口を揃えて、おいらんは玉の輿じゃ、廓内(なか)一番の果報者じゃと言うておす。そんなにめでたいのに、ひいなが無いのは寂しくはありんせんか」

 若藤はそれを聞いて、更に目を細めた。しをんの健気な行動に思わずこぼした微笑だったが、どこかその中に憂いを含むように見えたのは、日差しの加減なのだろうか。

「おや、やってるね」

 若藤が何か言いたげに身を少し起こしたちょうどその時、縁側の向こうの庭から甲高い声で呼びかけてきたのは見世番の久蔵だった。尻ッぱしょりに腕まくりというお馴染みの格好で独楽鼠のようにくるくる働く男であったが、将棋だけには目が無くて、いつも誰かが指しているのを目ざとく見つけては、岡目八目を決め込むのが癖であった。腕前の方も湊屋で若藤と唯一互角に勝負出来るというくらい大したものであったが、一旦指し始めると仕事も何もかもを忘れて熱中してしまうのが玉に瑕であった。それでしくじり、女将に大目玉食らったことも数知れない。

「おう、お相手はおめぇかちびすけ。こいつ、なかなか筋がいいんだ」

 月代(さかやき)にかかる汗を拭いながら、しをんを指差す。

「そりゃわっちの方がよく知ってる。おまえ、こないだしをんに負けたてぇじゃないか。情けないねぇ」

「あんときゃ二日酔いだったのさ。飛車がほんとに踊ってやがったからね」

 若藤を筆頭に、一座が笑いに包まれる。そうこうする内にちゃっかり久蔵は座敷に上がりこんだ。

「ちょいと久さん、天水桶を放り出したまんまじゃないのかい。また番頭から小言食うよ」

 そう言いながら若藤も周りの朋輩達も、既に彼が座る位置を空けている。青々とした月代を掻きながら、久蔵は嬉しげに盤を覗き込んだ。

「なんだい花魁情けないねぇ、押されてるじゃないか。こりゃ廓に居残って修行だな。俺が鍛え直してやるよ」

「冗談じゃない、おまえに鍛えられるほどの腕ならとうにこの子に負けてるよ」

 口調はきつくても顔は笑っている。花魁と若い者、将棋を通じて親しんだ彼らの間には、余人には計り知れぬ絆があるのだろう。

 若藤が懐から煙管を取り出すと、久蔵はすかさず煙草盆を引き寄せ、傍に置いてやる。こなれた動作であった。若藤は礼を言うでもなくちらと久蔵を見、徐に煙管に火をつける。銀の雁首に藤の彫り物が入った長い煙管は、この春晴れて夫となるその人から贈られたもので、吸い口の所には比翼紋が彫り込まれてある。それで煙草を()む若藤の姿は実に絵になり、事実浮世絵にはよくその姿が描かれた。いかにも江戸っ子好みの花魁がそこにいた。しをんは煙管の煙が苦手であったが――というのも薫は遊女には珍しく煙管を吸わず、小道具として煙草盆を前に置きはしても決して火を点けることはしなかった。そのため薫は他の花魁とは違った独特の体香を湛えており、その仕掛には何かしらの香をいつも焚きしめていた。だからだろうか、しをんの鼻も自然と煙管の匂いを厭うようになったのだが、しかしそれでも悠々と煙草を喫む若藤の麗姿には、思わず目を奪われずにいられなかった。

「さびしくなるな、おめぇがいなくなると…」

 この時、久蔵がぽつりと呟いた言葉を、周りの女達は聞き取れたのだろうか。久蔵のすぐ右手にいたしをんの耳にははっきりとそれが聞こえ、若藤がその声に反応するように盤の方に目を伏せたのも見ていた。それは長い年月好敵手であった相手がいなくなるということは、たといめでたい門出であろうとも寂しいという意味だったのだろうか。だがしをんは、二人の間に流れた空気にそれ以上の何か、まるでしこりのようなものを感じたが、それが何なのかはわからなかった。

 将棋は結局若藤があっという間に挽回してしをんの惨敗であった。紙ひいなは懐の熱でいつの間にかふにゃふにゃにふやけていた。


 若藤が見世を出る日の前日は、暮れに逆戻りしたかのような騒々しさで、禿達は総動員で若藤の部屋の整理をさせられていた。そこに遣り手やら女将やら野次馬な朋輩達が混ざってくるのだからややこしさは倍増である。お職の花魁ともなると着物や簪などの装身具、化粧道具に硯箱、茶道具に至るまで持ち物はふんだんにあるので、長持がいくらあっても足りないほどだった。急いでやらなければいけなくとも、調度一つ一つがべらぼうに高価なものなので、うっかり傷もつけられない。慎重さと手際の悪さが相まって、荷造りは一向に進まなかった。

 しをんは壊れ物を包んで仕舞う仕事を任されていたが、包んだそばから違うものが持ち込まれてくるのでまるきり賽の河原であった。ふと横を見るとみんなの慌しい様相にかえって自分の仕事を見つけられず、ぽつんと突っ立っているわかばが居た。しをんは見兼ねて、瀬戸物を包むのに使う古草紙を、見世中の屑籠から集めてくるように指示した。ほどなく彼女は嬉しそうに自分の身体くらいある大きな竹の屑入れを持ってきて、

「これ、風呂番の芳どんが、みんな使っていいって」

 焚き付け用の屑を貰ったのだろう。紙だけでなくところどころに蜜柑の皮や髪の毛なぞ混ざっているので、そのままわかばには使えそうな紙を選り分けさせることにした。

 わかばが積み上げていく草紙の山の中には、手紙の書き損じが多く、明日からご内儀になろうという人の荷物に遊女達がしたためた文など混ぜるのもどうかと思ったが、この際背に腹は変えられぬ、見て見ぬふりをしようとはしたが、字が読める障りでつい目が文を読んでしまう。わかばは手習いはしているはずだがまだ充分に文が読めないと見えて、気にも留めずに作業に没頭している。

――ふと、見慣れた筆跡()を見たような気がしてしをんは手を止めた。もう一度よく見ると、それはやはり若藤の字であった。走り書きなのか大分乱れてはいたが、当人の気質を表したような太く伸びやかな字を見違えるはずはなかった。しかし目で文面を追う内に、しをんは身の内に冷たいものが走るのを覚え、次の瞬間にはその草紙を懐に仕舞い込んで立ち上がっていた。

「ちょいと、はばかりへ」

 目を丸くして見上げるわかばにそう言い捨てて、しをんは足早に部屋を後にした。裏梯子を降りて、裏庭の方へ素足のまま飛び出す。足の裏に大地の冷たさが沁みたが、そんなことは一向に気にしなかった。辺りに人気は全く無く、早咲きの木瓜が赤い花を揺らしているだけだった。裏庭には、よく折檻を受けた女達が縛り付けられる樹や水攻めに使う井戸端があるので、禿達はおろか新造達ですら気味悪がって誰も近づかないのである。それでも用心し、茂みの陰にしゃがみこむ。懐から、さっきくすねた文を取り出した。草紙に自らの温みが移っていた。

〝――久さん、もしおまえさえ――〟

 勢いのあまり乱れた筆跡は、それでも丁寧に目でなぞれば読み取ることが出来た。

〝――久さん、もしおまえさえよければ、わっちはおまえと一緒にいたい。おまえと二人、将棋ばかりをさして暮らしていけたら、どんなにいいだろう。それはおまえも同じ心のはず、なぜおまえはわっちに逃げようと――〟

 文はそこで墨の勢いのままに途切れ、滲んで汚れていた。草紙の上には、破ろうとしてやめたようなためらい傷がある。その滲み跡を指でなぞった時、しをんは胸の中で冷たいような熱いような、何とも言えない切ないものが湧き出てくるのを抑えられなかった。この文が、久蔵に送られたとはとても思えない。これは若藤が自らの胸の内を、ただ激情の為すままに書き綴り、その後屑入れに丸めて放ったのだろう。でも破り捨てることは出来なかった。なぜならこの文は、彼女の心そのものだったから。

(わっちはおいらんにひどいことを言ってしまった)

 胸の中の切ないものは、自然涙になってしをんの瞳から溢れてきた。寒さも助けて、しをんはきつく自分の膝を抱きしめる。

(おいらんは果報者なんかであるものか。おいらんはここを出たら、二度と久どんと将棋がさせなくなってしまう。久どんも、おいらんと二度と将棋が出来なくなってしまう)

 紙ひいなを作っている理由を伝えた時の、若藤の笑みを思い出した。真昼の日差しのように、華やかで翳り一つ無い彼女の笑顔に、どこか曇ったものがあるように思えたのは、あれはきっと見間違いではなかった。若藤はあの銀の煙管より、縁側の古ぼけた将棋盤の方が好きだったのだ。それだけが、しをんが屑籠の底から見つけた真であった。

 泣き顔のまま部屋には戻れなくて、しをんは随分長い間そこにうずくまっていた。


 三月三日、その日は昨夜から居続けの若旦那の計らいで、楼内全て惣仕舞いでの大宴会。朝からお膳には鯛の尾頭付きに蛤のお吸い物、赤い(まんま)に紅白饅頭なんていう大層なご馳走が並んだものだから、食べ盛りの新造や禿どもははしゃぐあまり若藤へ挨拶することも忘れかけ、遣り手のひと睨みでようやっと思い出すという有様だった。金屏風を背に緋毛氈の敷かれた上座には、花魁時代の(なり)をすっかり改め、丸髷に結って真新しい足袋を履き、紫綸子の小袖に黒繻子の帯を締めた若藤が、普段の翳り無い笑みを浮かべて座っている。横には花浅葱の結城紬を着こなした人の良さそうな若旦那が、破顔一笑という様で盃を注されるままに傾けている。実に絵になる二人、まさに一対のお雛様のようだ、皆そう口々に褒め称えたが、しをんだけは素直に喜ぶことが出来ず、ご馳走も遠慮がちにつまみながら、時折若藤の方をちらと見やった。

(たしかにおいらんはひいなじゃった)

 遊女はどこまで出世してもひいな、そのさだめだけは変えられぬ。雛壇の上へ上へと登り詰めれば、より華やかに幸せに、人の目には映るかも知れぬ。しかし所詮それも雛壇の上、そこから降りようとすれば、後は無間の闇が続くばかり。若藤はだから、書き綴った草紙を屑籠に放るしかなかった。お職の花魁として名声を恣にし、最後は玉の輿に載って大門を出て行く、それはこの里の女なら誰しもが憧れ羨む至上の幸福。だが美しく飾り立てられた雛の中に生きる人の心に、気付く者は殆どいない。

「女将さん、長い間お世話になりました」

 いよいよ出立の時となり、大門の入口では若藤が女将に最後の挨拶を告げる。気丈な女将も、この時ばかりは目にうっすらと涙を浮かべる。次に挨拶するのは、自分の次席にある薫。次に湊屋を背負って立つ彼女に、若藤は頼むとか宜しくなどとは、決して言わなかった。お職になることの重みは誰よりも骨身に沁みている。黙って薫の細い肩を抱き、そっと耳元に囁く。

「しをんを大事にしておやり。浮姐さんの供養と思って」

 薫は相変わらず、目を伏せただけで返事はしなかった。

「さようなら若藤さん」

「どうぞお達者で」

 やっかみも妬みもあるに違いないが、朋輩達は揃って彼女にこう呼びかけた。わかばやその他、彼女が妹女郎として世話していた禿達は、これに堪らずとうとう泣き出す。新造もつられて袖を濡らした。若旦那に手を引かれ、真新しい四ツ手駕篭の垂れが上がる。いよいよ乗り込もうと若藤が身をかがめた時、

「おいらん」しをんは大人達の合間を縫って駆け寄った。「これを」

 素早く若藤の手の中に押し込んだのは、あの破れかけた草紙で折った紙ひいなである。受け取る若藤は、すぐにそれとわかったのだろう、一瞬表情を硬くしたがすぐににこりと笑って

「しをん、久さんに将棋を教えてもらいなよ」

 呟くようにしをんに言い置いた言葉に、さすがにじんわりと目尻が熱くなった。遣り手が後ろで何か騒ぎ立てるので、しをんは急いで朋輩達の間に戻る。

 既に駕篭に乗り込んでいた若旦那は中から首を伸ばし

「何だい」

 と問うたが、若藤は寸分変わらぬ笑みのまま駕篭に乗り込み

「何でもありんせん」ひいなを懐に仕舞い込み「ただの紙ひいなでおす」

 垂れが下がり、しをんの視界から若藤の姿が消えた。駕篭を中心にした一行は春のうららかな日差しを照り返しながら、しずしずと去っていった。

「月に帰るかぐや姫みたいじゃ」

 しをんの隣でわかばがこう呟いた。彼女の目には、あの一行がさぞかし神々しく映っているのだろう。そうこうする内にも、駕篭は天界に昇っていくが如く衣紋坂を登り、やがて日本堤の向こうに見えなくなった。

――しをん、九歳の春。この後、花見の時分には薫が山﨑屋の後ろ盾で盛大な披露目をし、晴れて湊屋の松の位についた。内証花見の時には、薫と揃いの花見衣装に花簪で着飾るしをんの姿も、遊客達の話題に昇ったという。

……そして思えばこの頃が、しをんにとっては最も幸せな時期だったのかもしれない。


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