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雛いちもんめ  作者: 緋川 桐子
2/12

第一章 影

この作品は舞台を江戸時代の吉原遊郭としていますが、実在の人物や出来事をモデルにしたものではありません。

時代考証などに多少の矛盾が生じている場合がありますがご了承ください。


相当に長い作品となりますので、気楽にお読みいただけますと幸いです。

第一章 影


      1


「見た」

「なにを」

「見たんじゃ」

 遊女たちがさざめく様に、ざわついていたのもちょうど長月、雲一片ない秋晴れの日のことだった。

「だから(うき)姐さんじゃ。あれは間違いない」

「あほう、浮姐さんがいるわけがなかろう」

「したらあれは誰じゃ」

「湯にあたってのぼせたんだろ」

 昼見世に備えて鏡台の前にひしめき、めいめいに化粧を凝らす彼女たちは、白粉や紅の華やかさとは裏腹に言葉は粗野なままだ。竜吉は庭掃除をしながら、それを何とはなしに見ていた。彼はこうして、未だ夜の顔になる前の女達を眺めるのが好きであった。

「ねぇ竜さん、菊ちゃんが馬鹿なことばかり言うんだよ」

 女達の一人が、竹箒持つ彼に話しかける。男に向き合うと、彼女らは急に優しげな声になった。

「さっき庭先で、浮姐さんを見たって言うんだ」

「浮姐さんってぇと、浮舟花魁のことかい? あの浮舟燈篭の」

 竜吉は、切れ長の目を更に細めながら応えた。

「そうだよ、もう今年で七回忌だってのに、何を今更。よしんば幽霊だったとして、随分のんびりしたものだよねぇ」

 紅筆を持った女達がどっと笑った。白粉が陽だまりの中に散る。

「だから怖いんだ」馬鹿にされ通しの菊乃が尚も反論する。「もうすぐ命日だろ? 浮姐さん、なにか思うところがあって、あたしらの前に出て来たに違いないよ」

 なにか思うところ、と、声を上げた途端、一同がしんと静まった。

「何かあったか」

 竜吉だけが、事情を知らなかった。

昨夜(ゆんべ)、若藤さんが」自らが作った静寂にたまりかね、菊乃がおずおずと口火を切る。「山崎屋のご隠居と喧嘩したんだ」

「喧嘩? 女将が今朝花魁を叱ってたのはそういうわけかい」

「そう…でもご隠居も悪いんだ。そりゃ昔は、浮姐さんは吉原一の花魁だったかもしれないよ。だけど今は若藤さんがこの湊屋のお職だ。それなのにあのじじいときたら」

 興奮してつい声を高くした菊乃の脇を、隣の朋輩がつついた。

「何をしても浮舟が一番、浮舟はもっとよくやった、と、そればかり。若藤さんも最初は笑っていたけど、その内さすがに頭に来て、こうさ」

 菊乃が啖呵を切る仕草をしてみせた。

「なるほどな。あの花魁も張りがあるのはいいが、ちと血の気が多すぎるようだ」

「けれどあれは見ていて胸がすっとした。あのじいさん、粋人だか何だか知らないが、もう何年も昔に死んじまった人と比べられたんじゃ、花魁が可哀想だ」

「そうだよ、しかも浮姐さんが死んでからは、ここ何年も湊屋はお見限りだったと言うじゃないか。今更やって来て古馴染みぶったところで、こちとら花紙一枚お世話になっちゃいないよ」

 女達の愚痴は尽きない。七年前といえば、彼女達のほとんどはまだ廓に身を沈める前だろう。その時代、全盛を誇った花魁と言われても、ただの昔語りにしか聞こえないのも無理は無かった。竜吉とて件の浮舟を見たのは、まだ身を持ち崩す前、旦那衆に連れられ登楼した時に見た道中が、最初で最後であった。その時の記憶とて、今となってはあまりに煌びやかで、かえって絵草子の中のことのように現実味が沸かなかった。だがここで女達に同意して客を詰るようでは、妓夫(ぎゅう)としての務めを投げることになる。

「なるほどな、だがそのご隠居、そうして品定めをしているのかもしれん」

 雀のようにせわしなく動いていた女達の唇が、一斉に引き結ばれた。

「となれば、若藤花魁もあのご隠居には役不足だったにちがいない。さて、」竹箒を手の中でくるりと回して、竜吉は女達に背を向けた。「もう四つ半過ぎだ。化粧を仕上げねぇと遣り手に小言食らうぜ」

 女達の返答を待たず、竜吉は庭の奥へ進んでいった。


 山崎屋の隠居はかつて浮舟の上客だった人で、身請けまで噂されていたほど花魁に入れ込んでいたという。「喪に服す」とかいって、七年も見世はおろか吉原そのものに足を踏み入れなかったというのだから、その思いの深さはおのずと思い知ることが出来る。しかし時代は移ろい、浮舟を知らぬ遊女達も増えてきている。かつて吉原一の名妓であった者とて、残せるのは名前だけしかないのである。

(幽霊になって、出てみたくなる気持ちもわからなくはない)

 中庭の方に進みながら、竜吉は一人考えていた。足元では秋草に混ざって、赤い彼岸花が今を盛りと咲き誇っている。ここの彼岸花は年々その数を増やす。それはひとえに、誰も彼岸花を手折ろうとしないからで、それは昔からこの見世には「女郎一人が死ぬ毎に、曼珠沙華が一つ咲く」という言い伝えがあって、何とはなしに皆気味悪がって手を触れないからである。確かにその赤色は、遊女達の血を染めたようにあまりに鮮やかだった。

 だが竜吉が背筋を凍らせたのは、群れて咲く彼岸花の赤さゆえではなかった。

 その彼岸花をあろうことか手折る人影――その人の影は白砂の地面に短く伸び、確かにこの世の人であることを証明していた。しかしそれでも竜吉は、その人を見て立ちすくまざるを得なかった。

 まだ彼が十代の頃であったろう、道中で見た浮舟花魁の、絵から抜け出たような端々(きらきら)しい顔立ちが、脳裏にはっきりと甦ってきた。そしてその面立ちは、目の前の人とぴったりと重なった。

(菊乃が言っていたことは本当だったのか)

 乾いていく目を必死に凝らし、まだこちらに気づかないその人間の横顔を見つめる。

(だが待て、あれは、子供だ)

 そこでやっと、胸が鎮まった。彼岸花を手折っていたのは、確かに浮舟によく似ていたが、まだ幼い少女であった。それもこの廓の少女ではない。花簪に彩られた稚児髷も、秋草をふんだんに縫い取った縮緬の小袖も、禿達のそれとはあまりにも異なっていた。しかし堅気の少女とも、どこかその雰囲気を異にしていた。

 やがて少女がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。佇む竜吉にふとくれた視線は、子供らしい愛らしさより、傾城の面影を写して妖艶ですらあった。

「おい、おまえ」思わず熱くなった胸を押さえながら、竜吉はわざとぞんざいに呼びかける。「そんなものを折っちゃいけねぇ」

 声をかけられた少女は別段驚くふうもなく、手に持った二輪の彼岸花を掲げて見せた。

「…なぜ?こんなにきれいなのに」

「なぜでもだめだ。この花を折ると、」

 幽霊が出るぞ、と口にしようとして彼は言葉を飲み込んだ。大概の子供はそれで震え上がって二度と近づかないものだったが、この少女にそんな脅しはまったく無駄であるように思えた。

「…とにかくだめなんだ。おめぇがもっと大きくなったらわかる。」

 少女は黒目がちな目を瞬かせながら、是とも否とも応えずただ彼岸花を見つめていた。竜吉は構わず、少女の目の前でしゃがんでみせた。

「おめぇ、名前は?」

 名前が意味を成さない里で、なぜそんなことを聞いたのか、竜吉は今でもわからなかった。ここにいる子供がどういう運命を辿るか、いやというほど見てきたというのに。

「……(ひいな)。」

「――え?」

「あーっ、いーけないんだ、いけないんだっ」

「彼岸花折ったらお化けが出るぞ、折檻より怖ーい化け物が」

 竜吉の問いにかぶせるように、霰のように降ってきたのは子供達の囃し声であった。見るとどこから沸いて出たものか、少女と同じか少し上くらいの禿(かむろ)が五、六人、縁側の方から走り出してきていた。

 禿達はめいめいの囃し文句で彼岸花折った少女を非難しながら、やがてその対象を、彼女の華美な身なりや頭に挿した花簪に向けていった。

「なんじゃおまえはお(ひい)さまか」

「いきなり引込みにでもなるつもりか」

「その格好でせっちん掃除もするつもりか」

 最初面白半分だった囃し方も、その内やっかみも助けてか、憎しみへと色を変えていくのがわかった。少女を囲む輪は一層縮まり、そうこうする内に少女の髪から簪をもぎ取ろうとする者が出てきたので、竜吉は慌てて止めに入った。

「おい、やめねぇかおまえたち」

「なんじゃ竜吉っつぁんは、このお姫さまの槍持ちにでもなったのか」

「わっちらがけんかしようが取っ組み合おうが、いつもはほうっておくくせに」

 今度は矛先が竜吉に向けられた。確かに廓内の朋輩いじめなど日常茶飯事だったし、よしんば目の前で起ころうが止めに入ることはなかった。折檻も陰口も、ほうっておくのが慣わしなのだ。だがこの少女はひょっとしたら客人の子供なのかもしれない。売られてきた娘にはどうしても見えなかった。――いや、それよりも何よりも、少女を彼らの牙にかけたくなかっただけかもしれない。

「そうじゃねぇ。人のものをとっちゃいけねぇと言ってるんだ」

 苦しい言い訳をしてもそこは廓の子供、容易に聞き入れてくれなどしない。その内騒ぎを聞きつけて、化粧を終えた女達が遠巻きに野次馬を決め込み始めたが、薄笑いを浮かべているだけでやはり誰一人止めに入ろうとはしなかった。

「この野郎、いい加減にしねぇと――」

 竜吉がついに堪りかねて手を上げそうになった時、ふと一陣の風が起こって彼の拳を止めた。子供たちも一斉に静まる。否、それは風ではなかった。白檀か沈香か、しかとはわかりかねる馨しい芳香であった。振り向くと、野次馬女達の間にすっと裂け目が出来て、そこから音も無く滑り出てきた女――というよりはまだ少女と言ってもいいような、あどけなさを残した女がいた。すっかり化粧を整え、派手な襦袢に身を包んだ女達の中で、女は未だ湯上り化粧前といった風情であるにも関わらず、それでもその容貌(かたち)は群を抜いており、思わず知らず目が吸い寄せられた。素肌に羽織った浴衣には紫苑(しおん)の花が蒼く浮かび、その胸元からは湯気と共に、例の香が立ち上っていた。

「花魁…」

 竜吉の声に、女は応えず、その代わり子供らの輪の中心にいた少女にまっすぐ歩み寄って行った。叱られるとでも思ったのか、女が近づくにつれ禿達は蜘蛛の子を散らすように駆け出し、野次馬の女達の中に逃げ込んでいった。

 女の目が、彼岸花持つ少女の目と合い、二人は微動だにせず向き合った。そうしてみると、まるで一対の人形のように、ぴたりと様になった。

(かおる)、その子だよ」

 しばし一対の人形を中心に広がっていた沈黙を、破ったのは張りのある低い声であった。これも野次馬女達の間から、進み出てきた長身の女、白髪交じりの丸髷に、黒繻子の帯を締めたその姿は他を圧し、一目でこの女達の中の誰よりも上であることがわかった。

女将(おかみ)さん、あいすみません。忙しい時分に、こんな騒ぎを」

 咄嗟に竜吉は頭を下げた。事も無げに、女将はにんまりと鉄漿(おはぐろ)を見せて笑う。

「いいんだよ、あたしが目を離した隙に勝手にいなくなっちまうんだから、この子は」草履を返し、少女へと向き直る。「さあおまえ、この目の前の方をごらん。おまえがこれからお世話になる薫花魁だ。よっくご挨拶申し上げるんだよ」

 その声に静寂が一瞬揺らいだ。やはりこの子は廓に入る娘であった。しかし解せないのはあの身なり、ここに身を沈めるのは金がらみでないわけがなかろうに。竜吉は下げた頭を少し傾けた。

「花魁や、おまえさんももう昼三だ。禿を抱えてもいい頃だよ。色々と身入りだろうけど、これも花魁の務めの内だ、しっかり面倒見ておくれな」

 そう言われて薫は長い睫毛を伏せた。これが彼女特有の是認の返事であった。

「…名前は?」目を伏せながら、薫が眠たげな声で聞いた。「名無しの権兵衛では呼びづろうてかないんせん」

 女達が先ほどの緊張を忘れてどっと笑う。だが女将一人はそう言われて思案顔で、

「名前…そうだねぇ」ふと、薫の浴衣を見て「名は…しをん。」

 そう一言呟いただけで、少女の名前は決まってしまった。

「しをん…」薫は口の中でその名をしばし転がし、「おいで」

 たった今名づけられたばかりの少女の手を取り、自らの部屋へと去った。

「相変わらず何を考えているのかよくわからない()だこと」

 女将はそう言ってため息しながらも、どこか楽しげだった。

「それにしても花魁にあの禿、実に絵になりますね。女同士だが一対の雛人形のように」

 竜吉は思わずそう口にした。

「そうだろう」女将の笑んだ口元が、再び黒く光る。「薫にはぴったりだろう。あの妓の生まれからしてみたって」

 それ以上の言葉は、再び戻った昼見世前の喧騒に掻き消されたのか、竜吉は聞き取ることが出来なかった。


 青々とした畳に、少し傾いた日の光が降り注ぐ。部屋は二間、決して豪奢ではないがそれぞれに蒔絵や螺鈿などが細かく施された調度の数々に、過ごす人の趣味の良さが伺える。床の間には桔梗が生けられ、違い棚に置かれた青磁の香炉は、嗅ぎ覚えのある香りを絶えず燻らせていた。薫は彼岸花を持ったままのしをんを招き入れると、文机の前に静かに座った。

「お座り」

 襖を閉めた所から動こうとしなかったしをんは、ここで初めて一畳ほどの間を空けてぺたりと座った。

「その花」文机に肘をかけたまま、目だけで彼岸花を指した。「生けてごらん」

 彼岸花はずっと少女の手に握られていたせいか些か生気を失ってはいたが、その緋色はまったく色褪せていなかった。

「どうした? 花の心得はあると聞いているが」

 薫の声には、か細くとも有無言わせぬものがあった。しをんは頷くと、すっと立ち上がり、床の間の花活けを手に取った。薫に貰った大きな油紙の上に、順々に桔梗と諸々の秋草を置いていく。その手つきは慣れたものであった。そうして一通り花を取捨選択し、彼岸花をどうにか生け終わった時には、部屋には不気味ながらも佳麗な、季節外れの花火が咲いていた。素人目に見れば、薫が生けたものと遜色無いように思われた。

「なるほど小器用だね」香を漂わせながら、薫は文机から身を起こした。「茶は立てられるかい」

 しをんは少しためらった後、こくっとうなずいた。

「碁は」

 今度は首を振る。

「手習いは」

 またうなずく。

「素読は」

 再びうなずく。

「手間が省けること」ここで初めて、薫の顔に表情が浮かんだ。「したが肝心なものがひとつある」

 徐に立ち上がると、薫はしをんの目の前にぴたりと座った。思わずしをんは身を堅くする。

「まず笑え」自分の言葉に従うように、薫が微笑む。「そしてあいと返事すること」

 しをんは頷き、そして慌てて小さく「あい」と言った。

「そしてもうひとつ」

 ふいに薫はその小さな肩を引き寄せると、まだ紅引かぬ唇を、しをんの唇に重ねていた。

「これがここでは一番肝心じゃ」

 ここで大きくにっと笑うと、薫は立ち上がって次の間へと消えた。しをんは惚けたまま、未だ漂い続ける香の中に残されていた。


       2


 薫は物静かではあったが決して無愛想ではなかった。表情を消していることがほとんどなので、お高くすましているように最初は見えるが、笑う時はめっぽう華やいで、馴染みの客などは時たま見られる薫のその笑みがいいのだという。

 しかしそれでも薫はちと物足りない、やはり大輪の花火のように艶やかな、若藤の方が上だというのが世間の専らの評価であった。確かに美人で勝気な彼女は、派手好みな江戸町人の憧れそのものの張りのある花魁であり、巷では彼女の浮世絵が飛ぶように売れていた。

 対する薫は気質こそ大人しいが教養は高く、そのために庶民よりも武士の客などに人気であった。薫自身も実は武家の出で、落ちぶれた浪人であった父親が涙ながらに彼女を売ったのだ、という話があったがいずれも吉原雀の噂話、どこまでが真かは知れない。だが事実、薫は大概の遊女が「浅黄(あさぎ)(うら)」と呼んで(はな)も引っ掛けないような山出しの侍でさえ厭わず相手をし、しかもそれが行き届いているので、噂が噂を呼び今ではお国者がこぞってつめかけるようにまでなっていた。その中には当然、大名・殿様の類もいたのであり、彼女が突出しから一年あまりしか経っていないにも関わらず昼三にまで上り詰めたのは、ひとえに馴染みに上つ方の御歴々が名を連ねていたからである。

 暮六つ、夜見世の始めの合図である清掻(すががき)の音と共に、張見世に登場するのは薫である。呼出である若藤は元よりここには出ず、今頃は道中で群集の目を惹いていることだろう。灯に群がる虫のように格子にへばりついた男共が一斉に息を呑む。薫はそんな素見(ひやかし)には目もくれず、滑るように一の上座につく。その後からも、美粧した遊女達がそれぞれの格の順に次々と降りてくる。辺りに白粉のむせ返るような香気が満ち、螺鈿笄にびらびら簪、金糸銀糸彩錦、各々贅を尽くした意匠の輝きが行灯の下、女達の動きに合わせて揺らめく様は壮観であった。

 女達の仕掛けはいずれも当世風に絢爛豪華、極彩色に花鳥文様の刺繍が施されたものなどがほとんどであったが、しかしこの中に意外なほど質素な装いの女が一人、それがこの中で最も番付が上で、金回りも良いはずの薫であった。通りすがりの急ぎの客などは、客引きの妓夫にそれと示されなければ見落としてしまうところだろう。というのも、彼女の仕掛けといえばどうかすると黒にも見えそうな(ふた)(あい)に、銀糸の菊花が裾の辺りに刺繍されているだけ、前結びの帯には何やら山上で酒を酌み交わす人が墨で描かれているのだが、遠目からでは青鈍色のうすぼんやりした帯にしか見えない。そのおよそ全盛の花魁らしからぬ出で立ちに、薫さんも表向きはいざ知らず、何しろ馴染みが浅黄裏ばかり、内情は随分苦しいのだろうと朋輩達は陰口を叩いたが、ご内所からは何も言われなかった。女将は、その帯が先だってあるお大名から贈られた、何の何某という水墨画の名手が染めた贅沢な代物であることを知っていたし、仕掛けは薫自身が姉女郎・浮舟の形見分けで貰った、菊見の衣装であったことも知っていた。だがその粋がわかる者が見世の内にも外にもそう居ないこともまた事実で、その頭抜けた趣味の良さが、薫の美点でもあれば欠点でもあった。このご時勢、趣味人にしか通じない高級な意匠では、かえって茶を挽きかねないことを知らぬ女将でもなかろうに。客引きの傍らで竜吉は、何人もの客が薫をちらと見てすぐ別の遊女に目移りしていく様を目撃し、ご内所の胸中を察しかねていた。

(ひと)り、異鄕に在りて」

 その時竜吉は自らの背後で、喧騒の中で呟くように、だが一際よく通る声を聴いた。思わず愛想笑いも忘れて振り返る。声の主は朗々とした声とは裏腹に見栄えのしない初老の小男であった。

「獨り異鄕に在りて異客と爲り、」男は詠いながら、格子の前に行き「佳節に逢ふ毎に(ますま)(しん)を思ふ。」

 ちょうど薫の前で歩みを止めた。薫はそこで初めて男に視線を向け、

「遙かに知る兄弟の高き(ところ)に登り、(あまね)茱萸(しゅゆ)()して人を()くを。」

 三味の音にかき消されそうな細い声で、だがはっきりとした口調で応えた。周りの朋輩達はこのやり取りを唖然と見守っていたが、格子越しの男はその返答ににやりと笑った。

「なるほど、お主も一人、儂も一人か。ならば共に菊酒を酌み交わそうかの」

 この言葉に竜吉ははっと気付いて、慌てて男のそばに走りよった。

「どうもこれは山崎屋のご隠居、先だってはとんだ不調法を」

 山﨑屋、という言葉に格子の中の女達は一斉に色めき立った。これがつい数日前、お職の若藤を激怒させた噂の老爺か。しかしじじいと言われていたわりにはまだ頭にはいくらか黒い毛も残り、足腰もしゃんとしているようである。何より一同を驚かせたのは、ご大家の隠居ともあろう人が駕籠も使わず徒歩(かち)で、しかも茶屋も通さずにいきなり張見世に現れたことである。竜吉の声で遣り手や女将らがいっぺんに入口に走り出てきて、口々に先日の詫びを隠居に申し出たが、当人はそれを煩わしげに振り払いながら、

「ああ、そんなことは気にしてやせん。儂もあの時は随分酔うていたし、おあいこだ。それより、籬の、」

 ここで初めて、女将の顔をきっと見つめてこくりと頷くと、女将は全て心得たと「かしこまりました」と言い、未だ何もわかっていないふうの遣り手に何かを耳打ちした。

「やはり、ここは良い見世だの。儂もまだまだ死ねん」

 一二本欠けた歯を見せてからから笑いながら、隠居は女将と遣り手、そして竜吉にさっと祝儀を切ると、自分からずんずんと大階段を登っていった。


 山﨑屋の隠居と薫が、解らぬ人間にはさっぱり解らぬ漢籍のやり取りをした後、再び顔を合わせたのはこの半刻も後、月影差す引付座敷であった。馴染みを一通り回ってからの遅い到来に文句も垂れず、隠居は一人月を眺めながら、ぽかりと煙管を吹かしていた。座敷の華は遊女の誇りだが、先日の若藤の一件のせいか、はたまた隠居自身が追っ払ったのか、座敷には芸者はおろか若い者一人とて姿を見せていなかった。

「なんじゃ、すはうか」

 紫煙を燻らせつつ、隠居は振り向きもせずにこう呼びかけた。「すはう」とは薫の禿時代の名前である。蘇芳色になぞらえたその名で彼女が呼ばれたのは、もう五年も前までのことである。

「あい、今は薫と申しいす」

 薫にとっては初会である。本来ならほとんど口も利かぬものなのに、薫は座に着くなり、丁寧にお辞儀をした。

「おなつかしゅうございます、旦那」

 そう言って薫が頭を上げた瞬間、座敷には隠居の哄笑が満ち満ちた。

「上座から辞儀とは恐れ入ったわ」煙草盆に煙管の端をぽんと落として「ほんにおぬしには厭味も冗談も通じない」

 愉快そうに二服目を吸い始めた。

「今はこの儂も倅に店を譲って楽隠居よ。お互い出世したものだな、花魁」

 今度は薫も声を発さず、目を伏せるだけだった。

「菊の節句じゃの。もう何年になるか」隠居の口から輪になった煙が吐き出される。「廓内に惣仕舞いで菊見に出掛けたのが昨日のようじゃ」

 若藤が嫌がった昔語りも、薫の表情を動かしはしなかった。

「その時に浮舟に贈った仕掛けが、それ、おぬしがいま着ておる」煙管の頭が薫の輪郭をなぞる。「二藍の色が少しも褪せず、むしろ深い、良い色になっておる。形見分けで貰ったのか知らんが、おまえさんも良い趣味をしているな」

 隠居の言葉に呼応するように、仕掛けに縫い取られた菊花が、月光に照らされて座敷の薄闇に白く浮かび上がる。

「ご隠居…」しばしの沈黙の後、薫は口を開く。「煙草をやめてくんなまし」

 例の、有無言わせぬ凛とした口調であった。ぴくりと、隠居の瞼が動く。自分の厭味に、厭味で対抗するような女ではないことは先刻承知であった。ここで腹を立てては負けになると言わんばかりに、素直に煙草盆に火種をぽいと落とすと、吸い口の中をふっと吹いてみせた。

 それを見計らい、薫は徐にぽんとひとつ手を叩く。一瞬の間の後、襖をすっと開けたのはしをん、芥子坊主の剃り上げ後がまだ風にひりひり痛むといった風情であった。その顔を見て、一瞬隠居の顔は曇ったが、そこは通人の余裕で声も上げず、むしろその関心はしをんの手になる香炉に移っていった。

「ご隠居、初めてわっちが持った禿のしをんと申しいす。しをん、ご隠居にご挨拶おし」

 客の前に出るのさえ初めてのしをんは、香炉を支える手もおぼつかず、頭の天辺から花簪を滑り落としそうになりながらようようにお辞儀をし、

「しをんでおす。以後よろしゅう」

 紡ぎだす廓言葉も未だ舌足らずであった。薫はそんなことに気も留めず、香炉を隠居と自分の座の合間に置くように指示した。

「菊酒じゃのうて香を聞くとは、変わった趣向じゃの。こりゃお武家好みのおまえさんの趣味かい」

 隠居はさすがに戸惑いがちの顔をして、しをんが香炉をぎこちなく置く様を見つめていたが、やがて煙草に慣れた鼻が香炉から立ち昇る香気を捉えた時、その表情は一変した。

「薫…おぬし…」

 そう呟いて、再び香気の中に埋没した。座敷は、およそ引け前とは思えぬほどに静まり返った。

「ご隠居…」幾つもの間を隔てて、薫がようやく口を開く。「わっちが姐さんからもらったのは、この仕掛けだけじゃありんせん。この香炉は、中でもいっち気に入ったものでおす」

 隠居は、薫の方を見やった後、ふうっと大きな溜息を吐き、障子窓から覗く月の面を見上げた。

「もう、随分と欠けてしもうたな」

 月は満月から幾日かを経て、わずかに歪んだ光輪を夜空に晒していた。

「あれには…浮舟にはすまないことをしてしまったのじゃ」月から目を離さぬまま、隠居は語り始める。「片見月は遊女の恥、したが儂は後見の月に登楼出来なんだ。商いに穴が空き、どうしても江戸を離れなきゃならんでなぁ。旅先からその仕掛けを贈ったが、とうとうこの世で詫びを言うことがかなわんかった。儂はあの世であれに会わす顔が無いんじゃ」

 仲秋の名月の八月十五日、登楼した客は必ず後見の月の九月十三日も登楼するのが慣わしだった。そうでなくば片見月となり、遊女にとっては甚だ縁起が悪いことになる。隠居が言っていたのは浮舟が死ぬ前の年のことだろう。この翌年の春には浮舟は病で湊屋から去っており、後見の月の時分には世を去っていたのだから。

「ご隠居」薫は、月に憚るようにそっと呼びかける。「この香が何かわかりんすか」

蘭麝(らんじゃ)かの。あれがよう焚きしめておった」

「そう、ご隠居が来る日は特に念入りに、懐に匂い袋を納めてまで。後見の月の日も、同じようにして」

 ここで初めて、隠居は薫に向き直った。

「わっちはまだ子供でしたがよう覚えておす。姐さんはこの仕掛けを着て、こう嬉しそうに、月を眺めておりんした。後にも先にも、姐さんがあんな顔をしていたのを、わっちは覚えておりんせん」

 しをんはこの二人のやり取りを見つめながら、薫の表情の動きを注視していた。無表情に見えて、どうして薫の表情にはなかなか動きがあった。最初、相手の機嫌を伺う時はわざと表情を無くし、相手の話を聞く時は真剣そうな眼差しを、そして相手の気を惹く言葉を吐く時は、花を咲かすようにぱっと笑みを閃かせる。その鮮やかな移り変わりは、ここの女達がしばしば見せるとってつけたようなしなやあからさまな秋波よりも、幾倍にも人を魅了した。それは、子供のしをんとて同じであった。

 隠居はというと、薫の言葉を一度胸に仕舞い込むようにうつむいた後、再び顔を上げて、

「そうか、儂は長い間それだけが心にかかり、ここに足を運びかねていた。杞憂だったということじゃな」

 その目の下に一瞬光るものを見たように、しをんは思ったが、次の瞬間にはその気配も微塵も見せずに強かな笑顔を見せた。

「茶屋の勧めで先だっては若藤とやらに逢ったが、あれはなかなかからかい甲斐はあってもせかせかしておっていかんな。おぬしは逆におっとりし過ぎておる。商人(あきんど)なんかには物足りんかも知れんな」

 素直に褒めず、嫌なことをずばずばという。ここが若藤などには気に障ったのであろうが、その裏には優しいだけの言葉とは異なる温みがあった。

「だが二本差しばかり相手にしてはいろいろと辛かろう。武士は食わねど高楊枝、だがおぬしらはそうはいかん。特に、そんな小さな禿を抱えたとあってはな」

 隠居は火のつかぬ煙管を、しをんの方に向けた。

「これが雛菓子でも欲しいと言うた時は、儂に文をよこすといい」

 手持ち無沙汰なのか、煙管を指の中でくるくると回すと、雁首で膝をぽんと打った。薫はこの言葉に、再びそっと会釈をした。


 薫との奇妙な初会を終え、隠居は中引け前には湊屋を後にした。初会客は長居せぬのが通の遊びである。帰り際、女将や若い者に丁重に見送られながら、隠居がこっそりと女将に耳打ちした言葉を、竜吉の地獄耳は決して聞き逃さなかった。

「あれは確かにいい()だな」

「それはそれは、ありがとうございます」

「良すぎる、といってもいい。あれほど人が良くては、後が怖いぞ」

「怖い、と申されますか」

「ああ怖い。もともと世間知らずの禿立ち、ましてやああいう手合いは悪い情夫(まぶ)でも出来てみたら、見る影もなく変っちまうもんじゃ。女将、よぅく気ぃつけてやってくれ」

「心得ました」

 さすがこの里で遊び慣らした粋人、初会で薫の光も陰も見破ったかと、竜吉はそ知らぬ顔で感心した。

「時に女将」ここで一層声が低くなる。「あの禿…しをんとか言ったか」

「ええ、なんぞ粗相でもしましたかえ」

「いや…」ここでふと歩みを止め、「あれの生まれは箕輪(みのわ)ではないかね」

 女将は、耳元のその声に一瞬だけ表情が凍ったが、すぐに元の愛想笑いに戻り、

「あれも先々が楽しみな妓でして」

 ただそれだけ、鉄漿(おはぐろ)を口元からこぼしながら応えた。隠居は、それ以上は何も追及せずに、静かに見世を後にした。

 このやり取りを聞きながら、竜吉は自分の疑念が確信に変わるのを感じていた。〝箕輪〟とは、病を得たり、子を孕んだ花魁が、療養に出される寮がある場所である。しをんの出生については誰も口にしなかったが、自分も含め、湊屋の誰もが薄々は感づいていたことだろう。色里において不慮の懐妊など珍しいことではない。それは全盛の花魁だとて同じことだ。客だとて、しをんのあの姿を見て気付かぬはずはない。名妓・浮舟は、流行り病などで死んだのではない、本当は――

 ここまで考えて、竜吉は自分の思考が意味を持たぬことを思い出し、止めた。この里の女達にとっては、親も、故郷も、過去も、意味のないことであった。あるのは今、目の前にある行灯の明かりだけ。その刹那の華やかさが切り結ぶ世界で、しをんが誰の子で、どこで生まれたかなど、問い詰めても誰が得するわけではない。だがそれでも、竜吉はあの少女の、およそ少女には見えない瞳が脳裏から焼きついて離れなかった。――おそらくは、親譲りであろう、あの黒い瞳の。

〝あれも先々が楽しみな妓でして〟

 女将が隠居に向けた最後の一言が、竜吉の胸中でぽつりと甦った。

――この時しをん、七歳。世には稀なる通人・山﨑屋善衛門が、薫の馴染みとして再び湊屋を訪れるようになった秋であった。



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