降る者
キュウリコスの街、外は雨が降っており真っ暗だった。ぼんやりとした暖炉の灯りに照らされた薄暗い室内には男が机と向かい合って原版を彫っている。窓を叩く雨音は木を彫る音と火の粉にかき消されていた。手元には下世話な俗語が並べられた大衆雑誌の原画、植物油を用いた小さな洋灯が一つ、掘り道具一式、洋灯用の油差しがそろえられていた。男は刃先を慎重に走らせ原画の左下に『王室期七百六十三年春末期』と掘った。男は刃を置いて大きく伸びをする。ついでに欠伸も出た。視線を机に落とした男は目の前の下世話な物に眉をひそめていると、
「いかん。集中力が切れてきた。誰か、表で何か買ってきてくれないか。」
同僚の男の声が聞こえてきた。
「表にはパイプしか無いよ。」
別の男が答える。
「それでいいんだよ、それで。」
「中身の無いパイプが咥えられるかよ。」
「そんなの入れるに決まってんだろ。買ってくるんだよそれも。」
騒ぐ男達の手には刃は握られていない。男は立ち上がり暖炉にかけられた薬缶から白湯をカップへ注いで一口あおり言った。
「じゃあ、俺が行ってくるよ。あの火災の後、警邏が増えたろ。お陰で飯屋の出店に有り付ける。おまえらはさっさと掘れ。朝から言っているが、明日には仲介に持って行かないといけないんだからな。」
「ラエトスさんが行かなくとも見習いを二三人向かわせればいいでしょうに。」
「外を歩きたいんだよ。つべこべ言わずにさっさと仕事をしろ。」
ラエストスは工房の扉を開き、玄関へ繋がる渡り廊下へ出た。
「雨が降ってんのか。」
ラエストスは雨が降る中庭を眺めてげんなりした。彼は肩をなでながら玄関口へやって来ると扉手前の用具入れを開ける。ごみごみした用具入れの中から一枚のフードと買い物用の革袋を取り出した彼はフードをかぶり小走りに通りへ出た。通りには雨が溜まっており、その中には煤や砕けた木片が混ざっている。遠くには全焼した家屋が二三、蟻の巣のような高層の安物アパートの間から見える。雲間から覗く月光は汚水のような水たまりに反射して生きているように蠢いていた。
「本当にどうなっちまったのかね。」
顎髭を撫でたラストスの靴は濡れた白黒の版画絵を踏みちぎった。版画絵には『怪物の見分け方、あの舞台俳優も怪物だった?処刑を見に行こう!』と題が打たれ、片目が大きくデフォルメされた満面の笑みを浮かべる子供、彼の傍らには立派な髭の父親と両目を閉じて微笑む母親が立ち、縛り首の台、髪を焼く絵が描かれている。閑散とするが憲兵隊とは時折すれ違いながら白い煙を巻き上げる屋根の付いた屋台へ向かった。香ばしい焼けた肉の匂いと小便の様な臭いがラエストスの鼻にまとわりつき、彼の足は自然と早まった。
「いらっしゃい。」
屋台からは中年の男が顔を覗かせた。ラエストスは屋台の内装を眺める。屋台にはパンとしっかりと焼かれた肉があった。机の傍には炭火焼き用のセットと燃える炭が有った。
「今日の客は憲兵さんしか居ないと思ったよ。今日はそれでも少なかったがね。」
「肉をパンに挟んでくれ。野菜は胡瓜だけ。それを七本。」
ラエストスは商品価格を見ながら銀札を一枚出す。
「ありがとうございます。夜食ですか。」
「これで士気を上げるよ。今日中に終わらせる仕事があるものでね。」
銅貨が五枚、ラエストスへ手渡され、彼は版画絵に包まれた七つの商品を革袋へしまい込んだ。帰り道、向かいの通り、少し離れた場所から腰の曲がった老婆が全焼した屋敷の前で座り込んでいるのが見えた。彼女の背後には物乞いの男が迫っていたがラエストスはきびすを返して工房へ向かう。深いため息をついた彼は心紛らわせようと手元の革袋へ目をやると。真っ黒だった。月光の光は水面から消え、まるで建物日陰に入ったかのようでもあり、日向から雲の影に入るようでもあった。ラエストスは口を開いたが出てきたのは言葉では無く血液と吐瀉物だった。雨水で覆われた位置畳が遠のき、体が引き上げられるか。全身を襲う激しい圧迫感にラエストスは声を上げることが出来なかった。彼の視界は空中ブランコのように浮き上がりアパートの屋根を映し、視界の端から屈強な手足が繰り出されて滑るように移動する。ラエストスは自分の腹へ生暖かい吐息が当るのを感じ、猛烈な痛みと喪失感が彼を襲った。痛みは始め横腹に突き刺さり、それから深く背中の手前まで潜った。次に胸が圧迫され彼は生きが出来なくなり、目玉が飛び出しそうになる。それでも彼は叫ばなかった、叫べなかった。
裸になった老婆は四つ這いに怯え焼け焦げた屋敷の柱へしがみついていた。彼女の目の前には婦人服を漁る物乞い男がしゃがみ込んでいた。男は時折目を老婆へやり、彼女の鼻からは真っ赤な血が垂れ、目は大きく腫れていた。財布を見つけた男は夢中で中身を開けると金貨が一枚見つかった。狂喜乱舞した男はそのまま夜の闇へ駆けていった。裸の彼女は身を震わせて涙を流し泣き声をあげようとすると、ピューと風切り音が鳴り、岩の砕ける音と鈍く何か重いものが叩きつけられたような音が遅れて鳴った。怯える彼女にはそれが何なのか解らなかった。まず解った事は臭いだった。苦いようで酸っぱい臭いの中に糞尿の臭いが混じった悪臭が冷たい風に漂ってくる。怯える彼女の前には何も出来なかった。
翌日、キュウリコスの憲兵隊の詰め所は四階建てで幅広の立派な建物であり。その二階、憲兵隊長の執務室へ真っ直ぐに向かう靴音が二人分鳴っていた。片方は整った黒い髭を蓄えた卵頭の男、もう片方はオイルで髪を固めた壮年の男だった。壮年の男の肩と靴は濡れており、二人の顔には疲労と緊張が走っていた。部屋の前まで来た二人は立ち止まり扉を三度軽く叩き、声を上げた。
「アーランメネス憲兵隊副官、ギリウス憲兵隊軍吏です。先日回収された死体の件で重大な懸念が有ります。」
「入ってくれ。」
二人は部屋へ入る。部屋の中には初老の憲兵隊長ウロスが地図と火災報告書を前に座っていた。ウロスは礼を取る二人の顔を眺め、卵頭の男へ顔を向けて口火を切った。
「おはよう二人とも。アーランメネス憲兵隊副官。手短にお願いしたい、例の死体について何か解ったのか。」
「はい。キュウリコス付き魔術師アストス殿によれば死体の皮膚に付着していた粘液は消化溶液だったそうです。それも、骨を溶かすような物です。」
「本人はどちらに。」
「屋根を伝って歩き回っております。一人でやると言って聞かず。」
眉をひそめたアーランメネスへウロスは窓を指さして言う。
「つまり何処かは解らないが、建物の屋根に何か居ると言うことか。我々も地上を捜索しなくてはな。昨晩から既に同じ死体が四つ見つかっている。それも石畳が砕ける程の力で叩きつけられている。絶対に怪物の仕業だ。」
「連日続いた人体発火事件や穀物庫全焼事件の対応による体調不良者の増加で警邏の人数も足りません。街全体を確認するなど到底出来ず、現在は魔術師殿の調査範囲の地上を調査中です。唯一の目撃者から話を聞くしかないのですが、今は半狂乱でとてもではありませんが。」
ウロスの言葉へギリウスが答えた。
「後手に回るか。何か法則は無いのか。」
「現在は未だ解っておりません。魔術師殿も見当が付かないとおっしゃっております。」
「解った。何とかあの・・女性から聞き出してくれ。」
二人は礼を取り部屋を出て行った。この日も新たな犠牲者が生まれた。
キュウリコスは現在、人体発火事件を受け厳しい検問が敷かれていた。商人達は門で丸一日待たされ、出入り口には街から逃げる若者達で溢れていた。そのため、検問の外にはお手製の天幕が勝手に張られ、憲兵隊はそれを仕方なく黙認していた。
「さっさと押さえ込まんか。棒で叩け。並べない奴は動物だ。」
詰め所から出たギリウスは検問で怒鳴っていた。憲兵達は労働者達を叩き何とか牛のように列を整えさせる。だが、その中で若い男が縮こまる労働者を押しのけて出てギリウスの前へ来た。男は二人の憲兵に取り押さえられる。ギリウスが頬を打とうと拳を振り上げた時、男が言った。
「鬼だ、鬼が森に出た。馬も人もむさぼり食うのが聞こえた。街から出た私達家族は命からがら逃げてきたんだ。入れてくれ頼む。」
ギリウスは目を細めて男を詰め所へ連行するように合図を出す。
「では、お前の証言を聞こう。有用と判断された場合この街へ住む事を許そう。部下の指示に従い、誠実に偽りなく話せ。こちらには魔術師がいる。」
玩具のように首を縦に振る男は憲兵達に抱えられ馬車に乗せられていった。ため息をつくギリウスが検問所へ戻ると、中では街長のキリオンがアーランメネスと会話をしていた。キリオンの額には青筋が浮かび何かを言っているようだった。ギリウスが彼らに近づくと、
「塀の向こうに汚い布が見えた。あれは何だ。」
「あれは街から出て行った若者達ですね。」
「じゃあ入れろ。景観が汚れる。復興作業を手伝わせれば良い。」
「王宮魔術師の調査が終了するまでは火災の復興作業が出来ない決まりです。」
「兎に角何とかしろ。今年中に新しい美術館と劇場の建設を済ませなければならないからな。」
「善処します。」
アーランメネスがキリオンへ返答すると、キリオンはきびすを返して検問所から出て行った。道中キリオンの肩がギリウスの肩へぶつかり、舌打ちをした街長はそのまま馬車へ乗り込んでいった。
「何かありましたか?」
ギリウスは部屋へ入るや否やアーランメネスへ問いかけた。
「何も無い、何時ものお小言だ。街長殿は憲兵隊が信用できないらしい。我々の怠慢を領主様へ報告するつもりだ。」
「陸軍や海軍が兵を出せば良いですが。」
アーランメネスはギリウスのぼやきを鼻で笑う。
「どの街も燃えているだろう。何処も手が足りない。あの功名心が高い街長に見えているのは来年建つ自分の美術館と劇場だけだろうよ。」
ギリウスは片眉を上げてアーランメネスの言葉に同意した。




