幸せだった頃
更新です。
『師匠は、幸せですか?』
一日の修練の課程を完了し、疲労に鈍重となった体を引きずりながら、自分に背を向けて歩いていた師に質問する。彼は一度振り向くと、少しだけ眉を顰めた。何故そんな事を問う?とでも言いたそうな顔で、少年の真意を視線で探る。
ユウタにとって不思議だったのは、彼の傍に妻となる人物の影がない。師が旅をしていて頃の話を聞くと、いつも温かいエピソードには、必ず家族の、そして夫婦による愛が語られる。それが人の幸せと説く彼には、家族と呼べる存在がユウタしかいない。その現状が、果たして師の胸を満たしているのか。──自分は、彼の枷になっていないか、それが気掛かりであった。
師は少し禿げた白髪の頭を掻き、ユウタを担ぎ上げた。体が宙に浮き、一瞬だけ慌てた少年だったが、彼の目線の高さまで移動した時、見える景色の違いに感嘆する。ぴたり、と止んだ様子に老人は小さく笑って、家路をゆっくりと辿る。いつもは徒歩五分も掛からぬ道のりを、一時間にでも延長するような、緩慢な歩調で。
『わしはな、幸せになったらいかん人種なんだよ。だから、今は誰かの為に尽力する未来を選んでおる』
「辛くないですか?」
頭を振らなかった。眉根を寄せて苦しそうに、でも口元から優しい笑みだけを絶やさない。その曖昧な表情が、ユウタの網膜に焼き付く。
『それは辛い時がある。過去、他人を傷付けた己の所業に対する悔恨。それでわし自身を殺したくなってしまう。誰かを救う度に、そう思うのだ。あの時だって、今のように人を助けられたのでは、とな。
幸福は許されぬと自戒しておきながら、お前と居られる幸せに没頭しとる。果たして、わしはこのままで良いのか。そう自問自答するばかりなのだ』
『僕は師匠に、沢山の幸せを頂いていますよ!』
ユウタが無邪気に言うと、師は顔を向けずに後ろ手で少年の頭を撫でると、そこから何も話さなかった。彼が犯した過去の所業、それが何なのか。
最期の最後まで、ユウタが知る事はなかった。
× × ×
タイゾウを川へ突き落とした。
その手応えが、未だ掌に貼り付いて離れない。
「ユウタ、眠ってないと駄目」
自宅の床から、上体を起こそうとしてハナエに押さえられる。彼女は確かに力強いが、何もユウタを取り押さえられるほど腕力はない。だが、いまの彼はハナエよりも弱々しかった。
あの豪雨の中での決戦の後、ユウタは高熱を出して倒れた。原因としては、一夜漬けで行った氣巧法の修練とタイゾウの決闘。どちらも過酷なものであった故に、氣による回復の促進も調子が悪く、ハナエによる看病が続いている。
四日目。現状はまだ回復していない。それなのに、見捨てず通い詰めて来るハナエの献身的な行動に、ユウタは複雑な心境だった。あの後、ゴウセンの墓には彼女一人で行ったらしく、その場に立ち会えなかったユウタとしては、約束を半分ほど反故にしたも同然である。
床に伏せながらハナエに、あの三人に何かされなかったか、それだけを質問したが、心配するような事はなく、寧ろ倍返しのように彼女による手厚い看病を加速させるだけだった。
「ホント、こっちの身にもなってよね」
「僕はハナエが無事だった、それだけで生きていけるよ」
「そうね、生きて貰わなくちゃ困るから」
ユウタの額から乾いた布を取り、傍に置いた桶の水に浸す。
「村の人達、ユウタの事嫌ってた」
「仕方ないだろ」
「安心しなさい。わたしだけはずっと傍に居るから」
ユウタは苦笑して、天井を見上げる。
いま、師と自分しか居なかった家。もう長らく彼が不在であるこの場所に、彼女が居る。素直に幸せだと言いたいが、先日の事件があると、口にしてしまえば儚く消えてしまうと怖くなってしまう。未だ体に染み付いているのは、自分とは違う氣術師たちの氣巧法に刻まれた戦慄。人生でだって、もう絶対に体験したくない。
瞼を閉じても、鮮明に蘇る映像に苦悶した。フジタの遺体や、流血の上で眠るゴウセン。自分が死なせてしまったあの二人から学んだのは、氣術で救えるのは自分一人。その守りは一つに定められるからこそ、その力を発揮する。ハナエを守る為なら、彼女を戦場に近しい人間──つまり自分から遠ざけなくてはならない。守護者のように、外界からの交わりを断つ存在が相応しいのだ。
ユウタは師の傍に、その妻の影が無かった事を思い出す。彼も誰かを守れなかった、だからこの森でユウタを育てることだけに余生を費やしたのかもしれない。あれが、正しい選択なのだろうか。彼は幸せだったが、ユウタはどうなのだろう。
ユウタは、自分の思考が迷宮へと成り果てる前に打ち切り、眠ることにした。今はともかく、ハナエに少しでも甘えておこう。
× × ×
体調不良から完全に復帰したユウタは、手始めに体を馴らすため、修練を始める。鈍った感覚を取り戻すのはさほど時間を要することはなかったが、体の連動が遅い。衰えた体力を復調させるまでにも、一週間をかけた。
タイゾウ戦の状態にまで回復させた体力を持て余していた彼は、久々に釣竿を片手に川辺へと急ぐ。また今日も家を訪ねてくるハナエに対し、何も用意がないのは気が引ける。
森の中を走る。周囲に獣がいないか、己の探針を敏感にさせた。脇に抱える桶には魚が入っていないが、もし今日の釣果が優れたものなら、奪われた時の苦痛は計り知れない。以前にも同じ被害に何度も遭っているユウタは、正しくこの時だけ自然を敵視していた。
しかし、ユウタにとって気配を感じ取れるだけ、獣も甘いと思えたのである。あの氣術師達は、意図も容易く気配感知をすり抜けて見せた。ユウタとしては初めてであり、今となれば恐怖の対象だ。
「あれ?」
過ぎていく森林の影に、人影が見えた。ユウタの気配感知の射程圏外。しかし、我が家にそう遠くない距離で人を見咎めた。ハナエかと思い、木陰に身を潜める。ユウタは顔を覗かせた。
木の幹に背を付けているのは、金髪の女性。これは、やはりハナエであった。そんな彼女を固定するように、その肩に置かれた力強い手。無骨な指が細い肩に絡められて、ユウタには強く握られているように思えた。
彼は既に、地面を蹴っていた。藪を颯爽と切り分け、風のように二人へと肉薄すると、ハナエに触れる人物の背後へと躍り出た。釣竿の針を小さく指先に忍ばせ、その首筋に襲い掛かる。音もなく馳せた少年の存在は、手を置く男を間に挟んで正面に居るハナエには見えていた。
「ゆ、ユウタ、やめて!!」
その叫び声に静止したユウタは、慌てて攻撃の軌道を逸らし、横から男を押し退ける。ハナエの傍に立った。
どうやら村人らしく、縁談の相手として紹介された相手。ハナエが友人の家を訪ねる為に村を出ると言うと、それに同行したいと申請し、現在に至る。事情を簡潔的に説明されたユウタは、彼女が詰め寄られた事に対して苦言を呈さないことが釈然としないものの、男に謝罪した。
縁談相手は、ユウタの右腕を見て途端に顔を蒼白にする。二人も男の視線を追って、理由を察した。
タイゾウ戦から、包帯を施すことを失念していた。最後の氣術による衝突で、前腕の中心で今までより大きく成長した刻印は、その畏怖の眼差しにさらされている。
猛獣から逃げ惑うように、村へとハナエを置いて走り去る後ろ姿を眺望した二人は、そのあと川辺に直行した。
× × ×
釣糸を垂らしながら、ユウタは嘆息をつく。
それをハナエは可笑しそうに見詰めていることが、なおさら彼の傷心に塩を塗るようだった。顔に渋面を作って、棹先に神経を集中させつつ、隣に座る彼女を横目で盗み見た。
「ハナエ、良いの?縁談の相手、帰っちゃったけど」
「あの人も嫌」
「我が儘だなぁ」
「口先だけ。わたしの理想はね、わたしの為なら命を懸けてくれるような、優しくて強い人が良い」
「あ、それなら僕が申し込んだりしたら、結婚できたり?」
村から既に忌避されるユウタが、村長の娘と結ばれる筈もない。冗談に呟いてみると、ハナエは暫く呆然としていたが、なにかに気付いたように顔を赤面させて、少年を蹴り飛ばした。器用に釣竿を残して隣の岩に着地する彼を、呆れ半ばに笑っている。
しかし、再び頬を紅潮させた。
「そうだね。でも、ユウタと結婚するなら、駆け落ちとか、そうじゃないと駄目なのかもしれない。それだとまず生計とかどう」
「あの、ハナエさん?冗談だよ?」
第二撃。
今度は鉄拳がユウタの腹部にクリーンヒットする。
その時、痛みに痺れる腹部に気を取られ、棹先の振動に気付くことはなかった。
また、この平和な日常が戻ってきた。以前よりも狭くなってしまったが、少年には良き理解者であるハナエが居る。彼女さえあれば、もう何も問題ではない。
その願いも、数ヵ月後には火に巻かれて消え行くのだった。
× × ×
ユウタは目を覚ました。
夢に映し出された春先の思い出に、彼は名残惜しさに、もう一度瞼を閉じようとする。だが、一度覚醒した意識がそれを許さなかった。空を見れば、ほんの一瞬だったのだろう。最後に確認した時から、日の高さは変わっていない。
それでも休憩を取れた彼は、渋々木陰から腰を上げ、背嚢を背負い上げる。草履の爪先で砂を掃きながら、移動を開始する。
右腕の包帯の結び目をきつく引き締める。これが呪いなのか判らない。いつか、タイゾウの仲間達と遭遇する事もあるだろう。その時、問い質してみればいい。
遠い先に、次の町の姿が見えた。
前日譚「呪印」完結です。
第二章も精進しますので、今後とも宜しくお願いします。




