ハーフオーガのアリシア77 ― 教室の掃除 ―
商工会というところでお茶会があって、そこでお嬢様が小麦をいっぱい買った、その翌日。
朝ご飯を終えて、アリシアが屋敷の前庭の掃除をしていると、馬に乗った男の人が門の前までやってきたから、応対に出る。
その人の話を聞くと、診療部の副部長さんのローラさんからの使いということだった。
あの金髪をくるくる巻いたゴージャスな感じの人だ。
用件は、今日の昼過ぎから屋敷に来ていいかということだったので、いったん屋敷の中へ戻って、居間のソファーでくつろいでいた、お嬢様とトラーチェさんにお伺いをたてる。
すると、別に構わないとのことだったから、庭のほうに駆け戻って、使いの人にそのように伝えた。
返事を聞いた伝令の人が、馬に乗って帰っていく。
それから昼になって、皆で昼ご飯を食べてから、アリシアがまた屋敷の前庭で掃除をしたり、武器の練習をしたりしながら来客を見張っていると、今度は、前になんか見たことがあるような、二頭立ての黒っぽい大きめの馬車がやってきて、あれは確かローラさんのところの馬車じゃなかったかなとアリシアにも分かった。
それに、その馬車の御者台には、いつものように、診療部の部長さんの、眼鏡で長い黒髪がきれいなランナさんが座っている。
前庭を回り込んで、屋敷の入り口の前まで馬車を寄せたランナさんは、いつものようにズボン姿で、軽快に御者台から飛び降りると
「やあ、アリシア君ともしばらくぶりだね。元気だったかい?」
などとご挨拶をしてくれる。
ランナさんはそう言いながら、馬車の片方の扉を開けて、そこから出てきたローラさんの手を取ったので、アリシアも
「はい、おかげさまで元気です」
と返事をしながら、馬車の逆側に回って、そっちの扉を開けてみると、そこにはアリシアが予想したとおりに、金髪でおかっぱのウビカちゃんが、やっぱりいたのだった。
ウビカちゃんを抱き上げて、馬車から降ろして立たせてから、アリシアも馬の轡をとって、いったん馬車と馬を屋敷の裏に回してもらう。
それから診療部の皆さんを屋敷の中に案内した。
玄関ホールのあたりで、メイドのミーナちゃんが、皆さんのマントやらコートやらを預かったところで、皆が出迎えに、奥のほうからやってくるのが見える。
先頭にはお嬢様がふわふわと飛んでいた。
お嬢様は飛んできた勢いのままに、ローラさんのほうに漂っていって抱っこされる。
するとアリシアと手をつないで、それを見ていたウビカちゃんが、ぴょんと跳んで、アリシアの腕に巻き付くように抱きついてくる。
アリシアがウビカちゃんを抱き上げている間に、トラーチェさんが挨拶の口上を言って、そのまま応接間のほうに案内して、ソファーに座ってもらう。
「きょうはどうしたの?」
ローラさんがソファーに座っても抱っこされたままのお嬢様が、ローラさんの腕の中から聞いた。
「今日はね、ちょっとこのお屋敷について聞きたくてやってきたの。
というのはね、アリスタちゃんに後期で特別講座をやってもらう話になってたと思うんだけど、その開設の申請書を、そちらのトラーチェさんが作ってくれて、それを私が教授たちのほうに出しに行ったのよね。
まあ、まだ講座と言っても授業内容もまだ十分固まってないし、まあ講座の概要くらい書いて、講師のところにアリスタちゃんの名前を入れて、講義場所もまだ未定にしてたのよ。
そしたらね、教授たちのうちの一人が、その申請書を見て
『講義場所は未定になっているが、ファルブロール君のところでやらないのか?』
って言うわけよ。
そりゃこのお屋敷も広そうだから、ここでやってやれないことはないでしょうけど、アリスタちゃんも魔獣討伐演習で有名になっちゃったし、だから
『かなり人も集まりそうだし、ちょっとどこか講堂でも借りる予定です』
って答えたの。
そしたら、申請書のなかに講師について書く欄で、アリスタちゃんの自宅住所を書くところがあるんだけど、その教授が、この屋敷の住所のところを指差しながら
『この屋敷だったら立派な教室があるはずだぞ。
私は若いころにそこで講義を受けたことがあるから間違いない』
って言うのよ。
そうなんですか? って聞いたら『立派な階段教室があったはずだ』っておっしゃったわ。
それでまあ、今日は本当にその階段教室があるのか確かめに来たってわけ」
階段の教室ってなんだ? とアリシアが考えていると、お嬢様が、トラーチェさんのほうを見て
「ここってきょうしつがあるの?」とお聞きになった。
「私も存じませんが……教室があるとすれば、私たちがまだ足を踏み入れてない棟ですから、屋敷を正面から見て左側の棟ということになりますわね」
とトラーチェさんが考えながら返事をする。
この屋敷はやたらと広くて、まず正門を入って正面奥に横長の三階建てくらいの石造りの立派な本棟がある。
その本棟の前面にちょっとした庭があって、その庭の左右に、敷地を囲む左右の壁に沿うように、同じくそれぞれ三階建ての石造りの立派な建物があり、敷地の正門のすぐ脇から左右にも、手前側の壁に沿うようにして建物がある。
この手前側の建物だけは、二階建てで木造になっている。
本棟の裏には、馬の入っている厩舎とか、馬車の入っている車庫とか、畑とか倉庫がある。
屋敷の全体像はだいたいそんな感じだけど、こんなにいっぱい大きな建物があるのに、住んでるのは、お嬢様に、アリシアたち寄子が七人、それにメイドのミーナちゃんと従僕のトニオくんだから、全部で十人しかいない。
それで奥側の本棟に、お爺さんのクリーガさんを除く皆で住んでいて、クリーガさんの部屋は、本棟から見て左側の棟にあって、そこにたった一人で寝起きしている。(寝るとき以外は本棟のほうにやってくる)
あとは厩舎と馬車の車庫以外は全然使ってもない。
それで、本棟から見て右側(屋敷を正面から見たら左側)の棟には足を踏み入れたことすらなかった。
それでローラさんと、トラーチェさんの言うことを合わせると、本棟から見て右側の棟に、その階段の教室とやらがあるらしいので、皆で見に行こうということになる。
◆
「ここはね、元は巨人族の賢者と言われた、ワイザリーズ卿のお屋敷だったとか聞いてきたわ。
専門は倫理学に哲学と数学だったんだって。
自宅のこの屋敷で講座を開講してて、そのための教室があったそうよ」
まだお嬢様を手放さず、抱っこしたままのローラさんが、そんなふうに教えてくれる。
大鬼族とは別に巨人族ってのもいるのか! というアリシアにとってはわりと重要な情報に驚きを感じながら、皆と一緒に建物の中を見て回る。
ていうか、数学というのは計算の難しいやつだと分かるけれども、倫理学とか哲学ってなんだ。
本棟から見て右側の棟は、別棟とは言っても、本棟と同じくらい大きいから、部屋もいっぱいあるように見える。
まずは一階から探検を始めて、端まで行って、それらしい部屋がなかったので、いったん廊下を少し戻って、そこにある階段をあがったすぐのところに、その階段教室というものがあった。
廊下の突き当りに、やたらでっかくて立派な扉が、広く間隔を空けて二つあったから、ひょっとしてこれかなと思ってアリシアが開けてみると、中は本当に部屋が階段になっていた。
なんだこれはと思ってアリシアは部屋の中を眺める。
部屋の手前側の両端に、たった今入ってきた扉がひとつずつあって、その扉に挟まれるようにして、演台があり、演台の後ろ側の壁に黒っぽいとても大きな長方形の板が貼ってあった。
そうして手前側が下で、奥側に向かって上っていく階段に据え付けるようにして、机と椅子がたくさん並んでいる。
つまり部屋の手前側の演台で、先生が授業をして、話を聞く人が、あの階段の上に据え付けられたような机と椅子を使うんだろうか。
かわった造りに思えるけれど、階段の上に椅子や机が据えられているようになっているので、奥へ行けば行くほど机や椅子は高く、手前側に来れば来るほど机や椅子は低くなるようになっているから、前の人の頭が邪魔で授業が見えないってことがないんだろう。
見た目は変な部屋だけど、これはこれで使いやすいのかもしれない。
「あら、きれいな教室じゃあないの」
と、ローラさんが言っているけれど、アリシアもそう思う。
古びていて、埃も溜まっているけど、壊れているようなところは特になさそうで、掃除をすれば普通に使えそうだ。
「じゃあ掃除をしましょう! 掃除道具があったら持ってきて」
ローラさんはとても嬉しそうにそう言った。
それでメイドのミーナちゃんと、従僕のトニオくんが走っていって、箒とか塵取りとか、拭き掃除用の要らないぼろ布とかをいっぱい持ってきてくれた。
「アリシア様もどうぞ」とミーナちゃんがアリシアにも布をくれる。
それで皆でまずは机と椅子の埃を布で拭きはじめる。
ローラさんやランナさんやウビカちゃんまで掃除を手伝ってくれようとしたから
「あの、それはちょっとあまりにも……」
と言ってトラーチェさんが止めようとしたけれど
「アリスタちゃんだってやってるじゃない」
とローラさんは言って、掃除はやめてくれなかった。
考えてみると、アリシアはただの猟師の娘だけれど、他のみんなは話を聞くかぎりじゃけっこう良いところの人だったはずで、お嬢様は確か伯爵家のお嬢様だし、ローラさんは侯爵家のお嬢様とか聞いた気がする。
それにメイドのミーナちゃんと従僕のトニオくんはコロネさんが連れてきた子たちだし、ということは、コロネさんのところも、家に使用人が居るような大きな家ということになる。
アリシアの故郷の村で偉い人といえば村長さんで、そこのお嬢様は、べつに高慢ちきってわけじゃないけど、掃除とか料理とかは絶対しないような子だった。
もちろん村長さんの家には使用人が何人かいて、掃除やなんかはその使用人の人がやっていたはずだ。
伯爵様や侯爵様がどれくらい偉いのかっていうのは、アリシアにはよくわからないけれど、少なくとも村長さんより偉くないなんてことはたぶんないはずで、そうだとすると変な話とも思う。
うちのアリスタお嬢様も手ずから料理とかしたりするし(桃の皮を剥いたり、コロッケを揚げたり、お粥を作ったりしたのをアリシアは見たことがある)今も令術で布を操って机を拭いている。
ローラさんもけっこう手慣れた様子で床を箒で掃いていて動きも速い。
村長さんのところの家族は自分たちで掃除や料理はしないのに、こういうもっと雲の上にいるような偉い人たちが、逆に自分たちで料理や掃除をするんだから不思議なものだ。
それで「けっこう手慣れてるんですね」とアリシアがローラさんに話を振ってみると
「そりゃ貴族なんだから、身の回りのことはひと通りできるようになってるわよ。アリシアさんだってそうでしょ?」
という返事が返ってきた。
自分もそうっていうのは、どういう意味だろうとアリシアが考えていると、診療部の部長さんのランナさんが
「貴族っていうのはね、色々な意味がある言葉だけど、その基本の意味は魔獣と戦う人のことだからね。
この間は魔獣討伐の演習があってアリシア君も参加してくれたけれど、ああいう場所は魔獣がいっぱいいて危険だから使用人は連れていけないだろう?
ということは、魔獣と戦う人は基本的には自分で自分のことはできなきゃいけないわけだよ。
アリシア君も、演習で魔獣と戦いに行ったし、身の回りのことは自分でできるだろう?」
と、そんなふうに説明を入れてくれた。
「だからアリシアさんは、まだ爵位とか領地は持ってないけど、基本的には貴族なのよ」
ローラさんがランナさんに続けて、驚くようなことを言い出す。
「……えっ? いや、私はただの猟師の家の子です」
「それでもよ。貴族って言葉には色々な意味があるけど、いちばん大きな意味としては魔獣と戦う人のことなの。
アリシアさんはこの学園に来るまでも、狩人として魔獣を狩ってきたんだろうし、演習では天竜すら狩ったわよね。だから貴族なのよ」
「いやあれは、隊長さんのローテリゼさんとか、エルゴルさんとかといっしょにやったことで……」
とか、なぜか言い訳しながら、自分が貴族とかそんなことってある? とアリシアが混乱していると
「さっきから見てると、メイドのミーナちゃんや、従僕のトニオ君や、あとトラーチェさんもそうだけど、アリシアさんのことを『アリシア様』って呼ぶわよね。それはアリシアさんが実際強くて戦う人で、貴族だと思ってるからそう呼ぶんだと思うわよ」
そうなの!? と、そんなことを今はじめて知ったアリシアは驚いてしまう。
「私も子爵家公女ということで貴族令嬢をやらせてもらっているけど、そんな私よりアリシア君のほうがずっと強いからね。それは本当にそうなんだよ」
部長さんのランナさんまでそんなことを言ってくる。
ミーナちゃんやトラーチェさんが、なんで自分のことを様付けで呼ぶのか疑問だったけれど、そんな理由があったと分かって、アリシアは自分でもちょっとびっくりするくらいに寂しさを感じた。
アリシアの実家があった山の麓の村では、子供たちはみんなで一緒に遊んでいたし、アリシアにとってもいい友達だったけれど、それでもやっぱりみんなは普通の人間で、自分は大鬼族で……そうして今度は貴族になってしまったらしい。
そういうんじゃなくてみんなと一緒がよかったな、と思ったら、不意に涙がこぼれて、涙を拭こうとしたけれど、持っている布が汚かったので拭けなくて、それで泣いてしまったらよけいに悲しくなって、アリシアは俯いてしまう。
ふわりと顔に柔らかい感触があって、前が見えなくなった。
顔が微かに暖かくて、ふわりと赤ちゃんの匂いがする。
「アリシアにはわたしがいるじゃない」
そんな声がして、顔の前にある暖かいものをそっと抱き留めると、それはやっぱりお嬢様で
「わたしはアリシアのママなのよ」
お嬢様はちょっと不満そうな顔でそんなふうに仰ったのだった。
それからミーナちゃんが寄ってきて、アリシアの右手を握り
「アリシア様はアリシア様だけど、私はアリシア様のこと好きですよ!」と言ってくれる。
左腕には無言でウビカちゃんが巻き付いてきてくれた。
とつぜん泣いてしまったのに、まるで自分が何を思っていたか分かるみたいに、お嬢様もミーナちゃんも声をかけてくれたから、アリシアはびっくりしてしまう。
ちゃんと分かってくれる、そういうところが女の子って感じで、とてもうれしくて、ちょっとこわい。
お嬢様がどこからかハンカチを取り出して、涙を拭いてくださって、それから掃除を再開した。
◆
それで、そのうち掃除が終わって、皆で応接間に引き揚げて、お茶の時間になる。
お嬢様が荷物袋の異能からチョコレートのテリーヌを人数分出してくださった。
添えられているホイップクリームをつけて食べて、それからアイシャさんとミーナちゃんが淹れてくれた熱いコーヒーを飲むと、本当においしい。
アリシアが悲しい気分を少し忘れて、そうやってお菓子を楽しんでいると、アリシアが座っているソファーの斜め前にあるソファーに座っていたローラさんが、ふと黙りこみ、それから躊躇うように口を開いてアリシアに
「私たち貴族は、他の普通の子とは違うから、寂しい思いをすることもある。
私もそういうことはあったわ。
でもね、貴族であるということは、普通の人より色々なことができるということだし、他の人にもいろいろなことをしてあげられるということよ。だからそんなに悲しまないで。
演習のときにはあなたが魔獣から皆を庇ってくれたから、助けられた人も多かった。ありがとうね」
と言ってくれた。
ありがとうございます、とアリシアは返事をしたけれど、ローラさんみたいなきれいな人に言われてもな、という気もしないでもない。
「この学園は変わった人も含めて色々な人たちが集まっているからね。
そこで友達を作って楽しくやれば寂しいことなんてないさ。
私たちはアリシア君を歓迎するよ」
そんなふうにランナさんも声をかけてくれる。
ランナさんにも、ありがとうございます、とお礼を言って、ふと見ると、馬人族のウィッカさんが床に座っているのが見えた。
厚手の絨毯のようなきれいな布の上に、きっちりと脚をたたんで腹這いになるようにして座り、左手でソーサーを持ち、右手でカップを持って珈琲を飲んでいる。
そういえば、下半身に馬の首から下が付いているってどういう感じなんだろう。
ウィッカさんはいつも楽しそうにしているようには見えるけれど、何か苦労とかあったんだろうか。
それによく考えてみれば、お嬢様も本当は十三歳なのに赤ちゃんみたいに見える。
お嬢様はそのことをどう思っているんだろうか。
コージャさんだってこのあたりじゃ珍しい黒森族だし、アイシャさんも豚鬼族だから、それほど珍しくはない種族だけど、それでもやっぱり普通の只人ではない。
アリシアは、そんなふうに考えると、確かにここでは、実家にいた頃みたいに、周りがみんな普通で、自分だけが変わっているってわけじゃないんだろう、と素直に思うことができたのだった。
◆
お茶会がお開きになって、診療部の皆さんを、皆で屋敷の玄関の前までお見送りに出る。
屋敷の裏からトニオくんが回してきてくれた馬車に、ローラさんはランナさんの手を取って乗り込む。
アリシアはウビカちゃんを、左腕の上に座らせるようにして抱き上げ、右手で馬車の反対側のドアを開けて、そこから座席に座らせた。
座席に座ったウビカちゃんが体をひねって、両腕を広げて差し出してきたので、何かと思ってアリシアが、馬車のほうを覗き込むように身を屈めると、ウビカちゃんはアリシアを抱きしめて、アリシアの頬にひとつキスを落とすと
「ありがとう。また遊んでね」と言ってくれた。
アリシアもウビカちゃんの頭にキスを返して「うん、またね」と返事をしたけれど、その時に、ああ、確かに自分は幸せだなと、アリシアはそう感じられたのだった。




