ハーフオーガのアリシア98 ― 後期の授業 ―
次にやってきた、太陽の神の日の夜に、アリシアは、お嬢様から四枚の紙を渡された。
「なんですかこれ?」
アリシアがそう聞くと、お嬢様はその紙が、履修登録をした受付票というものだと教えてくれた。
何でも今からお嬢様の護衛としてついていくだけのつもりだった授業を、アリシアも一緒に受けられるようにしてくださったのだとか。
「わたし、かんがえたんだけど、なるべくアリシアとわたしはおなじじゅぎょうをとったほうがいいとおもうの。
そのほうがアリシアのふたんがすくないし」
とおっしゃる。
「……でも、お嬢様の受けるやつは難しすぎて私には分からなそうでした」
「トラーチェともそうだんしたんだけど、ちゆのかんけいのじゅぎょうはいきなりうけてもわけわかんなくてだめだとおもうのね。
でもそうじゃないやつなら、アリシアってよくほんをよむし、だからいけるんじゃないかってことになったわ。
アリシアがうけたいじゅぎょうがあったんだったら、それをうけたらいいんだけど、そうじゃなくて、わたしのごえいのよていのあいてるところで、てきとうにうめたみたいだから、それならわたしのごえいをしながらじゅぎょうもすませられるほうがらくじゃない」
それでつまり、明日の朝から、お嬢様が受けることになっている授業をアリシアも一緒に受けましょうと、それなら楽でいいじゃないかということらしい。
……まあそれはそうかもしれない。
「ちょっとうけてみてダメそうならやめてもいいからね」
と、お嬢様が言ってくださったので、それなら受けてみるかとアリシアも思える。
受けてみてついていけそうなら、どれか一つお嬢様と別に受ける授業を減らして、これに切り替えればいいということらしい。
それでその日の夕食が終わって、お風呂も済ませた後に、皆でお嬢様に買っていただいた鞄(※1)をそれぞれ持ってきて、必要なものを詰める。
まずペン軸にペン先を取り付けたものを三本を、溝を彫って布で内張をしてある筆箱に入れて、それにインク壺は小さな専用の箱に入れて、しっかり蓋をしてから鞄に入れる。
次に明日は授業が二つということだったので、前に紙と紐で作ったノートを二冊いれた。
あと授業で使う、教科書という本があるらしくて、皆のぶんをトラーチェさんが買ってきて用意してくれていた。
本のお金を払おうとすると、お嬢様がもう払ってくれていたらしくて、皆でお嬢様にお礼を言った。
自分は本当に恵まれているなとアリシアは思う。
そうして、これでもう準備は終わりということらしいので、翌日を楽しみにしながら、アリシアはベッドに入ったのだった。
◆
翌日、月の神の日の朝早く。
今日は朝から授業があるということで、少し早く起きて皆であわただしく朝食の準備をする。
根菜にアリシアが精肉しておいた肉でスープにして、あと林檎と菓子パンとお茶の朝食を済ませると、慌てて身づくろいをしてから、屋敷を出た。
今日は近いところに授業の場所があるとのことで、馬車は使わず、お嬢様はアリシアが抱っこしていく。
聴講生とかいうのになって護衛についてくれる、お爺さんのクリーガさんと、あと護衛がてらに一緒に同じ授業を受けるとのことで、コロネさんと、それから行く道の途中に授業を受ける場所があるというトニオ君やミーナちゃんも一緒に送っていくことになった。
それから豚鬼族のアイシャさんは、なんか治癒術系の別の授業を受けるんだとかで、今日は一緒にはいないのでアリシアはちょっと落ち着かない。
まあそのおかげでお嬢様を抱っこできるのだから、良いこともあるのだけれど。
◆
しばらく歩いて、ただの民家みたいなところに着く。
だけど、ここが先生の家で、そこでミーナちゃんとトニオ君の受ける授業があるはずとのことだったので、そこでミーナちゃんとトニオ君と別れる。
それからさらに少し歩くと、石造りの立派な建物が見えてきた。
中に入ると部屋の中央に! やたらと立派で、膝くらいの高さの大きな暖炉らしきものがあって、赤々と火が燃えている。
なんかすごく煙い。
見ると壁や天井も煤で真っ黒に汚れていた。
そうして、その暖炉を囲むように椅子が三十個と少しもあって、放射状に並んでいる。
幸い、椅子の方は人のお尻や背中で拭かれるからか、きれいそうに見えた。
なんじゃこれはとアリシアが思っていると、中に十人くらいいた人のうち何人かが、アリシアと、アリシアが抱っこしているお嬢様に気づいて、寄ってきて挨拶をしてくれる。
「殿下、ご機嫌麗しゅう。
アリシアさんも、ご一統様もおはようございます」
そんな感じでご挨拶とお返事があって、そうしてお嬢様がアリシア用の大きな椅子と机を荷物袋の異能から出してくださって席についた。お嬢様が自分の膝の上なのがアリシアにはちょっと嬉しい。
そしてその左右に、クリーガさんとコロネさんが、それぞれ椅子を引きずってきて、両脇を固めるように座ってくれる。
アリシア用の大きな椅子と机は邪魔になるから、放射状に並んでいる椅子のいちばん外側に置いたのだけれども、だんだんと席が埋まってきて、残り少なくなってきたあたりで、痩せた男の人がひとり、フラフラしながら入ってきた。
そうして、アリシアの座っている椅子の、すぐ近くに置いてあった椅子の、背もたれに手をついて、それからくずおれるように椅子に座りこんで、そのまま屈みこんでしまう。
アリシアが横目で見ていると、同じように見ていたお嬢様が
「ねえちょっと、だいじょうぶなの?」
と声をかけたけれど反応がない。
それでアリシアが、大丈夫ですか、ともう一度声をかけてみると、やっと声をかけられていることに気づいたのか顔を上げた。
「ぐあいがすごくわるそうよ。だいじょうぶ?」
と、お嬢様が改めて声をかけると、その痩せた男の人は
「あ、ああ……大丈夫ですよ。大丈夫。おはようございます」と答える。
「だいじょうぶそうにはとてもみえないわ。かおいろもまっしろだし」
「ああ、いえ、病気とかではないので大丈夫です」
「でもなんかげっそりしてるし、なにかわるいびょうきとかだったらどうするの。
しんりょうじょとかにいったほうがいいわ」
「……お恥ずかしいのですが、昨日の朝から水しか飲んでおりませんで、だから病気とかではないので」
「えぇ……」
「授業料と教科書代やらでお金が尽きてしまいまして……ここは家賃も高い街ですし」
「そうなの?」
「学生がいっぱい集まってくるところですから、この街は家賃高いですよ。
今日から授業ですから教科書も、もう買わないわけにはいきませんし……お金がなくなってしまいました」
「たべものをたべずにべんきょうしようとするのはむりがあるわ」
「おっしゃるとおりで……」
お嬢様は、ふわりと浮かび上がると、ぷにぷにの小さなおててからたぶん土を噴き出して、そうしてたぶん令術で固めて、机のようなものを痩せた男の人の隣に作った。
それからお腹から皿とかを(何度見ても不思議だけれど)いくつか出して、ポットやコップやスプーンも出しておられた。
そして皿の上には今朝食べてきたような菓子パンと、それから深皿には、やっぱり今朝見たような魔獣肉がいっぱい入った根菜のスープがよそわれている。
ポットがふわりと浮くとコップのそばに漂って傾いて、珈琲がコップの中に流れ込んでいい匂いが広がる。
ポットは再び宙を飛んで、部屋の中央にある暖炉の灰の端のほうにそっと着地した。
「たべて」
お嬢様は痩せた男の人に向かってそう言うと、今度は、またどこからか取り出したナイフを小さなおててに握る。
すると、またどこからか出現した林檎が、そのナイフの刃に当たるような位置に、浮かぶように出現してそれから林檎がひとりでに回転しはじめた。
すると、あっという間に皮がむけて、それから林檎がみずからナイフの刃に当たるように何度も動いて、ひとりでに林檎が切られて、そうして空の皿に盛られていく。
林檎の皮や種はお嬢様が荷物袋の異能にしまったのか、どこかに消えてしまった。
そうして最後に、またどこからか出現したフォークが林檎の皿の端に添えられる。
お嬢様のすることは、いつ見ても魔法みたいだ。
痩せた男の人は、自分の横に唐突に出現した机と食事と、宙に浮いているお嬢様を交互に見て、何が起こっているのか分かってないみたいにぼんやりとしていたけれど
「おごりだからたべて」
と、お嬢様にもう一度言われて、それで我に返ったように
「あ、ありがとうございます。それでは遠慮なく……」
と言って、スープから食べ始めた。
「ほかにもたべたいひと!」
と、お嬢様が言って、すると五人くらいが手を挙げたから、同じような机と食事を、またお嬢様が出しておられて、それと食事をもらわなかった人のところには、カップが空中を飛んでいって、皆に配られて、後から珈琲やお茶のポットが漂っていっては、その中身をカップに注いでいる。ひどく奇妙な光景だ。
◆
そんなふうに、皆で食べたり飲んだりしていると、やがて部屋の後ろのドアのところから、中年の男の人がひとり入ってくる。
お嬢様がその人にもカップや、お茶やコーヒーのポットを飛ばして向かわせて、いかがですか、と聞くと、その人は
「おや、これは殿下、おはようございます。では珈琲を頂きましょうか。ありがとうございます」
と言って、そうして珈琲の入ったカップを手に持つと、部屋の真ん中にある暖炉のそばに行って、そこで立って話しはじめる。
「朝の九時からの講義であるにも関わらず履修者三十一名、聴講者一名のうち、二十六名が出席ということで実に率は悪くない。喜ぶべきことです。
そのように勤勉な学生ならびに聴講生の皆様にご挨拶を申し上げる。
この建物は火の神に捧げられた神殿であるので常に火が燃えていて、煙いのですが、言い方を変えれば冬は無料で暖房が使えるとも言えるし、煙い分だけ安いというわけでもあります。
祭礼があるのは火の神の日だけなので、それ以外の日は、例えば月の神の日にも借りられるわけです。
殿下が受講されるのであれば、もうちょっと良いところを借りても良かったとも思うのですが、まあこの部屋は常に火を焚いてあるので、夏前は暑くてかなわん場所ですから、そのころには講義の場所を変えますので、とりあえずそれまではご勘弁を願います。
さて、私はノージック・ブラント、この学院で准教授をやっております。
そしてこの倫理学の講義を担当します。以後よろしくお見知りおきを。
さっそくに講義に入りたいと思いますが、その前に……いま飲食をしている者たちがいるのは、殿下が寛大にも、貧しい学生らに食事を賜ったということでよろしいのでしょうか?」
「たまわった、っていうほどおおげさなものじゃないけど……そうよ」
「それはありがとうございます。私にも珈琲を賜りましたね。
では講義に入りたいと思います。食べている学生諸君は食べながら聞いてください。
すこし講義の内容が前後しますが、良い題材が出現しましたので、これを例題としましょう。
まずは殿下に質問です。これらの腹を空かしている学生たちになぜ食事を賜りましたか?」
「なぜって……あのひとたちが、おなかがすいてるから?」
「そうでしょうとも。でもあれらの食事を普通の人が用意して食べさせるとなると大変なものです。
でも殿下はそうしてくださいましたね」
「わたしにとってはあんまりたいへんじゃないわ」
「そうかもしれません。
つまり殿下にとってあまり大変ではないことで、何人もの学生の空腹を癒すことをされた。
これは専門用語で言うと『増分効用逓減の法則からして、富裕な殿下が貧乏な者を助けることをされた』ということになります。
分かりやすく言いなおせば、例えば先だっての魔獣討伐演習に伴う納税額の発表のときに、私も見物をしておりましたけれども、殿下は確かお一人で金貨を三万何千枚もお稼ぎになり、一万五千枚ほども納税なさったと記憶しております。
つまりお手元には少なくとも金貨が二万枚以上もおありということですな。
金貨二万枚というと桁が多すぎて分からなくなるが、普通の粗末な家に住んでいる一般庶民の家庭なら、金貨が二枚もあればひと月は暮らせます。
そこの食事をさせていただいている学生だって、金貨どころか銀貨一枚ほどの金さえないから飯を食っていなかったのかもしれません。
けれども殿下は非常に富裕なので金貨の一枚くらいならうっかり無くしても気づきさえしないかもしれない。
つまり私がここで言いたいのは、同じ金貨一枚でも人によって価値は違うということです。
金貨を一枚も持っていないし、食事にも事欠くような人間が金貨を一枚貰うと、踊り出したくなるほど嬉しいかもしれない。
嬉しいだけじゃなくて、生活上も非常に大きなメリットがある。
独身貧乏学生の食費だけなら金貨一枚もあれば三か月分だっていけるくらいだ。
けれども殿下の場合は、例えば仮に殿下の財布の中に私が金貨を一枚こっそり入れて足したとしても、殿下はお気づきにさえならないかもしれない。
殿下に限らずお金持ちというのはそういうものです。
いっぱいあるから一枚くらいどうでもいいという傾向はある。
だから増分効用逓減と言うのですね。
つまり増えた分の効用、つまり効果ですが、これは元の資産の額が大きいほどだんだん減っていく。
金貨を一枚も持ってない人には金貨一枚は大きな効用があるが、金貨を二万枚も持っている人には金貨一枚は誤差でしかない。あんまり嬉しくない。
そういうことです。
そうすると、非常に多くの資産を持っている人は、自分にとっての誤差みたいな出費で、多くの貧乏人に踊り出したくなるほど嬉しい思いをさせることができるということです。
つまり先ほど食事を殿下が貧乏学生に賜ったのは、倫理学的に言うとそういう表現になる。
殿下のお金がわずかに減るという誤差みたいな不幸で、非常に大きな幸福を創出できる。
これはつまり全体として幸福の総量が増えているんですな。
全体として幸福の総量が増えるなら素晴らしいことじゃないですか。
じゃあぜひやろう、もっとやろう、という考え方がでてくる。
こういう考え方を功利主義というのです。
ここは試験に出ますからね、考え方も含めてしっかりメモしてくださいよ」
そう言われてアリシアは椅子の脇に置いてあった鞄からノートを取り出して開いて机の上に置く。
次にインク壺の入った箱を開けて慎重にインクのコルクを外して、ペンをその中に漬けて、それからノートに
・功利主義
『お金持ちにとって誤差みたいなお金で、貧しい人はすごく幸せになれるから、もっとそうしよう』
と書きとる。
それから吸い取り紙を鞄から出して、上から字を押さえつけて余分なインクを吸い取った。
先生は珈琲をひとつ啜って、皆がメモし終わるのを待つ。
「さて次は、その素晴らしいように思える功利主義が、本当に素晴らしいのか、正しいのかということを検討しなければなりません。
素晴らしいように思えることと、本当に素晴らしいかどうかは別ですからね。
殿下のような方は特にそうですが、この学園に在籍しておられる方は、今後において社会の中で目立った立場を占めて、実際に社会を動かす立場になられる可能性が高いし、この学園都市においてはすでに実際にそうである。
そうであれば私のような下々のものとしては、統治をなさる方々に、単なる思い付きで動いていただきたくはない。
そのときは良さそうに思えたんだ、では私が実際に困ってしまうかもしれません。
まずは慎重に、素晴らしく思えることが、本当に素晴らしいのか検討です。
ではそこの、殿下のそばで食事をしているあなただが、お名前を教えていただけるでしょうか?」
そう言われた、お嬢様に最初に食事を用意してもらった痩せた男の人は、食事の手を止めて、あわてて立ち上がって返事をする。
「は、はい。マカール・デーヴァといいます」
「ありがとう。ではマカールさんに質問ですが、殿下はこのようにあなたに朝食を賜った。
ではあなたは殿下に、講義のたびに毎回朝食を出していただくように要求しますか?」
「え? いやそんなことはしません」
「それはなぜですか? 殿下は大金持ちなので、貧しい学生のために食事を用意するくらいしてくれてもいいという言い方は成立しませんか?」
「……たとえそうでも、それは殿下がご自分で天竜などの魔獣を狩ってお稼ぎになったものですから、それは殿下のお金であって、他人がそれを私のような貧しい人のために使えなどと言えるものではありません。もう納税はすでになさっておられますし。
今回のことは殿下のご親切でそうしてくださっただけでしょう」
ノージック先生は満足そうにうなずく。
「まったくそのとおりですね。
殿下には、他のすべての人と同じように権利がある。例えば施しでお金をだすことを強要されないという意味であれば、私有財産権ですね。
すでに納税をお済ませになったあとの、殿下のお金は殿下のものであって、誰もそれを取り上げることはすべきではない。
殿下が、自発的なご親切として、貧乏学生に朝食を賜るのであれば、それをありがたくいただけばよいが、たとえ幸福の総量が増えるからといっても、それでも殿下に施しを強要することはできない。すべきでない。
このような考え方を権利主義と言います。
結果が良くなるからといって、誰かの権利を侵害してはいけない、という考え方ですね。
これも試験に出ますからメモしてください」
・権利主義
『みんなの幸せのためでも、誰かのものを勝手に取り上げたりすることはいけない』
と、アリシアはメモをした。
先生が変な質問をして、話がおかしい方向に行きそうだったからアリシアはドキドキしたけれど、ちゃんと正しい方向に戻ったのでアリシアは安心する。
先生が珈琲をまたひと啜り飲んだところで、お嬢様がポットを暖炉から浮かび上がらせて、先生のカップに珈琲を注ぎ足す。
それから先生はお嬢様のほうに体を向けて、お嬢様に言い聞かせるように話し始めた。
「ありがとうございます。
この権利主義については、貰う側から殿下を、すなわちお金持ちなどを見た場合を例に話を進めましたね。
『貧乏な私はお腹が空いているが、かといって殿下に食べ物を要求するのは図々しいからやめておこう』
というような話です。
では今度は与える側から、例えば殿下の側から見た場合に、知っておいてもよいどのような論議があるか考えてみましょう。
これは例えば人格主義というのがあります。
殿下は非常に有能な治癒士であると聞き及んでおります。
下半身が全く粉砕された人物を完全にお治しになったとか、体中のほとんどの臓器を短時間でお造りになることが可能であるとか、驚くべき話が私のところにも聞こえてきます。
もちろん殿下ほどの方はそうめったにはおられないかもしれませんが、高位の治癒士というのがこの学園にも、これまで全くいなかったわけではありません。
そしてそのような方の中には、あまりにも自己犠牲が過ぎる方もおられました。
家にも帰らず診療所に泊まり込み、睡眠時間も少し削り、食事も手早く済ませて、どこかに出かけたりすることもなく、ひたすら治癒ばかりして過ごす、というような具合です。
でもそれが果たして良い生き方なのかというと、肯定できない面がある。
もちろん患者の命を救うためだと思えば、できる限りのことをしたいというのは立派な考え方です。
しかし、それがその治癒者自身の人生を損なうほどになってはいけない。
それはなぜか。
それは誰かを道具や手段として用いることがあってはならないからだ。
治癒を行う治癒者も、その例外ではないのです。
もちろんよく考えたうえで、これが私の人生の目的だと規定して、過度の自己犠牲を行うと全く理性的に心の底から決定したのであればそれは、その人生を妨害できるものではない。
しかし誰かのための手段として、自分の目的としてではなく、自分を道具として使い潰すならそれは良くないことです。
殿下はひとつの人格として、目的として尊重されなければならない。
それは他のすべての人と同じくそうである。あなたは手段ではなく目的である。
わかりますか?」
そう聞かれたお嬢様は
「はい、わかります。それはよくわかっています」
と、言葉を重ねて答えた。
お嬢様ってクリーガさんが天竜に踏みつぶされたときも、まだ赤ちゃんなのに徹夜をしてたし、こないだの冬休みのときも実家で朝から晩まで十九日連続で働いたとか言っていた。
だから、どうも怪しい、とアリシアが疑いの目でお嬢様を見ていると
「ほう、それはどうして?」と先生が突っ込んでくれた。
「なんといえばいいのかわからないのですが……わたしのじっかのりょうちのひとたちは、とくにはなうりのおんなのひとたちにおいてそうですが、かのじょたちは、じぶんじしんのいのちやじんせいよりわたしのほうがだいじだとかんがえているようにみえます。
かのじょたちは、わたしと、わたしのははのためならよろこんでしぬでしょう。
わたしはかのじょたちのもくてきなのです。だからわたしはたしかにもくてきなのです」
「うーむ、それは自分自身を目的として、人格として尊重するというのとは微妙に違う気もしますが……まあ今日のところはいいでしょう。
人格主義というのも試験に出ますからメモしてください」
・人格主義
『たとえみんなの幸せのためでも、誰かを道具扱いせず、目的として大事にする』
と、アリシアはメモをした。
お母さんは、自分の命より私のほうが大事だろう。
でもそれは、私が、自分で自分をちゃんと大事にするということとはちょっと違うような気がする。
だから先生もちょっと違うみたいなことを言ったんだろうけど、何がどう違うのかがよく分からない。
今日みたいにもっと勉強すれば、これもちゃんと言葉で説明できるようになるんだろうか、とアリシアは考える。
「それで話が前後していますが、道徳や倫理というものがある種の規範ないしその規範を個人が内面化したものと定義すると、倫理学というのは、ある規範が正しいかどうか検討したり、あるいはその規範の根拠は何かを探ったりする、そういう学問だと言えます。
これは言葉の定義に類することですからメモしてください」
先生はそう言ったけれども、アリシアには規範という言葉の意味が、ぼんやりと雰囲気でしか分からなくて、綴りも分からなかった。
それで
・倫理学
『正しいことが、なぜ正しいと言えるのか考えること』
と、それっぽく簡単にノートに書くことにした。
自分はまだ持っている言葉の数が足りないなと、アリシアは思う。
先生の言っていることは、お金持ちが自分のお金をちょっとずつ貧乏な人に分けたら喜ぶ人が増えるとか、かといってそういうのを強要しちゃダメとか、そういう言われてみれば当たり前のことしか言っていないと言えばそうなんだけど、でもそういうことをうまく言葉にできるのはすごいことだし、そういう話をアリシアはこれまで聞いたことがなかった。
皆がメモをし終わったくらいのタイミングで、先生が
「では今日の講義はこれまで」
と言ったから、アリシアは、お嬢様を抱き上げて、先生と近くにいる人達にご挨拶をしてから、コロネさんとクリーガさんと一緒に連れ立って部屋を出た。
学園というのはけっこう面白いものだなと、アリシアはそう思ったのだった。
■tips
※1については
ハーフオーガのアリシア41 ― お嬢様は学用品を買ってくださるⅠ ―
(https://ncode.syosetu.com/n2133ga/51)
ハーフオーガのアリシア42 ― お嬢様は学用品を買ってくださるⅡ ―
(https://ncode.syosetu.com/n2133ga/52)
を参照。
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