file6:5年ぶりの海
実家では、千博の母親が待っていた。どうやら、離婚して別々に住んでいるらしく、目の前で交わされる親子の会話もどこかぎこちのないものだった。自分を羨まないで欲しいと言う千博に、貫太郎は気の利いた言葉を返した。いつの間にか、ふたりはお互いを労われるようになっていた。
遊泳者も疎らな、ひと気のない静かな砂浜。穏やかな波が透き通るように綺麗な水面を揺らしていた。単調に続く控えめな音は最後の記憶に残るものとだいぶ異なっていた。傷付いた心を優しく癒してくれるようだった。
「うーん、夏だぁ!」
Tシャツとキャロットスカートを脱ぎ、水着姿になった鈴原は元気一杯に一年ぶりの海へと走った。
「ほら石井も早く!」
「ちょ、ちょっと待って。まだ心の準備が」
それでもいざ目の前にすると、やはり僕の心には不安が再燃していた。タロウを失った海とは違う。あの頃とは違い、僕もいくらかは泳げるようになっている。そう言い聞かせても、まるで別の人格が乗り移ったかのように足が震え、思うように動かなかった。
波が迫ると触れる間際で後ろに飛び退き、なかなか入ろうとしない僕に鈴原は少し苛立った様子で言った。
「そんなんじゃ一生入れないよ」
「そんなこと言ったって……あっ!」
鈴原は駆け寄り、反論をしようとした僕の腕を掴んで引き込んだ。
海水が五年ぶりに僕の足へあたった。掻き消されて衝突音は聞こえなかった。心臓が止まりそうな時間は一瞬で過ぎ去り、くすぐったい感覚が土踏まずに残った。
「どう?」
鈴原が心配そうな顔で僕に尋ねた。
「うん、大丈夫……みたいだ」
意思をもって人を殺めることは決してない。海は魔物でも怪獣でもなく、ただ自然のひとつとしてそこにあった。
くるぶしからヒザ、ヒザからモモへと、腰のひけていた僕は少しずつ前に進み、海の感覚を取り戻そうとした。
「こんなとき、ドラマだと溺れたヒロインを助けようとして吹っ切れるんだよね」
僕の様子に安心した鈴原はオチャラけて言った。そして何を考えていたのか、少し無口になったりもしていた。しかし、その一方でこちらはそうならないで欲しいと願っていた。まだクロールが不完全なのだ。救出するにもバタ足では格好悪すぎる。
「屈んで肩まで浸かってみたら」
「ああ……うん」
波が唇にあたったついでに目を閉じて顔を浸けてみた。太陽に熱せられた顔の肌が冷やされて、ところどころがヒリヒリと感じた。
「泳げるようになったらさ。いいトコに連れてってあげる」
鈴原はそう約束して、検定で行なう背泳ぎの練習を始めた。僕がどこかと訊いても秘密と言って教えてくれなかった。
決してドラマや映画のようなショック療法ではなく、僕はかつてタロウを奪った海にゆっくりと慣れていった。それは他人からみれば気の遠くなるような時間だったかもしれない。しかし鈴原は何も言わず僕の行為を見守っていた。それがとても申し訳なく、それでいて素直に『ありがとう』と言えない自分がもどかしかった。
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