SS①
①僕は異常者の君と手を繋ぐ
②神の兵器の夢想録
【上から2番目の引き出しには鍵がかかっている】
初夏の季節。梅雨は終わり、少しずつ日差しが強くなってきた。そうなると、着る服にも困るものがある。うんうんと悩んでいると、当然のように、待ち合わせより二時間早くチャイムが鳴った。
「来ちゃった……♡」
「そんな気はしてた」
「以心伝心だね、はーくん!」
嬉しそうに叫ぶ結さんに、僕は苦笑する。夏物の服が欲しい、デートがしたい! と直球に伝えてきたのは彼女で、その隠さない言い方はどうなの、とちょっと思いつつ、僕は了承した。
とりあえず中に入って欲しい、と言ったのが三十分前。
そして今、部屋中を探し回っているのは、財布だった。
「あれ、どこやったっけ?! 無い!」
「もぉ、どうしたの、はーくん」
箪笥、机、洗面所……あちこち目をやる僕に、結さんも手伝ってくれる。
「あれ?」
「あった! ごめん、結さん……ん?」
彼女は、キョトン、とした表情で、一つの引き出しを見詰めていた。それから、コテリ、と首を傾げる。
「ねぇはーくん、この引き出し、どうして二番目だけ開かないの?」
鍵穴はついていた。でもそれは、四段ある小物入れのうち、全てにだ。一方で、残りの三つは開いている。どうしてここだけ鍵がかかっているのだろう。
「といっても……鍵は無いんだよな」
「無いの?」
元々それは、両親のどちらかが使っていた引き出し棚だ。この家にはそういうものが割と多い。とはいえ、少なくとも、僕は鍵の類を知らない。
うーん、と二人で考え込んでいると、後ろから、もう一人が顔を覗かせた。
「何見てんの、ふたりして」
「杏くん、この引き出しだけ開かないの」
赤いペンキを頭に零したような、紅色の髪をガシガシと掻いて、ふぅん、と杏は頷いた。その髪を黒いゴムで一つに括り、首の後ろで纏めると、手を伸ばしてくる。
「開ける?」
「力づくはやめろよ……えっ、開けれるの?」
「あっはっは、やめてよ凡人君、俺を誰だと思ってるの……まぁ、ちょっとね、こうすれば」
……開いた。開いてしまった。どこから取り出したのか、細長い道具を使って。
呆れる僕と対照的に、結さんは小さく拍手をしている。
「おおっ! これできょーくんも立派な犯罪者だね!」
「あっはっは、俺、それだと死刑なんだけど」
「お前、【殺人鬼】じゃなくて【窃盗犯】とかに改名すべきなんじゃないか」
「真顔で言うねぇ、凡人君?」
こちらも見ずに、杏が手をパーにして僕の額を打つ。当たり前に避けられない。痛い。
……でも手加減してくれているのだろう。僕は以前、彼が不良どもに絡まれた時、裏拳でノックアウトさせていたのを見たことがある。
ゴロゴロと絨毯の上でもがき苦しむ僕をよそに、杏は引き出しをかすかに引いた。
待って、と結さんが止める。
「はーくん、はーくん!」
「何だい、結さん……」
「大好き」
「脈絡がない」
「あっ、そうじゃなくて」
まったく話が嚙み合わない。ヒリヒリする痛みに顔を顰めつつ、体を起こせば、彼女は笑顔で言った。
「これははーくんが一番最初に見るべきだと思うの」
「……いや、どうせ大したもん入ってないよ……」
はぁ、と嘆息しながら、手を掛ける。……少しだけ緊張している。掌に汗がにじみ出るのが分かった。どうしてこんなに体が強張るのだろう。
ただ、この引き出しを引くだけだ。
「……なんだこれ」
意を決して見たそこには。
一枚の、写真があった。
古い、もう色が変わってしまっている。保管状態も悪かったのだろう。今時、データではなく現像されている。
「赤ん坊……一枚だけ?」
産まれたばかりなのだろうか。白い布に包まれた赤ん坊の写真だ。
手に取ってみると、表面はザラザラしていた。後ろには、産まれた日付らしいものが記入されている。
「こんなものがあったんだ」
思わずつぶやいていた。
家にはアルバムが無い。両親はそういうものをする人では無かった。不思議な感覚だった。
結さんが僕を呼ぶ。
彼女は穏やかな瞳を、写真に向けていた。
「大事にとっておいた方が、良いよ」
単純に処分しそこなったのかもしれない。真相は分からない。けれど僕は、もう、自分が両親から愛されていた事を知っている。
これはその、一つの延長戦にあるものだ。
だから凪ぐような心境で見詰められる。
この写真が愛の一部だと、理解出来る。
「よぉし、財布も見つかったし、そろそろ行こうよ、はーくん!」
「デートに?」
「そう、デー……やだもう! 恥ずかしい! 何でそういう事いうのかなぁ! もう!」
最初に言い出したのは結さんだろう。
結さんは、バシバシと杏の肩を叩く。迷惑そうだった。
「ほらほら、杏くんも準備だよ!」
「いやー、俺はデートに巻き込まれたくな……」
「お前はこのハイテンションの結さんと二人で買い物に行けっていうのか」
「はーくん? 俺はね、お前たちの緩衝材じゃ無いんだぜ、知ってた?」
やれやれ、と満更でもない表情で杏は息を吐く。どのみち、僕も結さんも彼を放って買い物に行くつもりはないのだ。分かっていた事だろうに。
写真を棚にもどす。引き出しに鍵をかける事は出来ないが、何度でも、思い出した時に、そこにある確かな愛の形を見られるように。
「良い天気だね、はーくん!」
青空に目を細める。その下で満面の笑顔を浮かべる結さんに、頷く。
この、今見えている愛を大事にしていくのだ。
【唇に優しい嘘を】
ちゅう、と小さなリップ音が響いた。それは一度で終わらずに、額、頬、髪と、まるで母親が子供にするみたいに、落ちていく。
それを甘んじて受け止めながらも、小さく呻いた。
「ふふ、どうしたの、リグ」
「別に……アリスは今日も可愛いな、と」
「勿論、我はいつでも可愛いよ」
叩きつけるような雨が降っている。広すぎる部屋に、巨大なベッド。外は夜闇に包まれているが、室内は煌々と明かりが灯されている。
俺は、手持ち無沙汰に彼女の銀色の髪をクルリと弄ぶ。彼女は上機嫌だが、部屋に入ってそうそう、寝て、と言われて、これだ。
ううん、とまた、小さく息を吐いた。
「何も考えなくて良いよ」
ピシャリ、とアリスの声が飛ぶ。聡明で大きな双眸が、真っ直ぐに俺を捉えている。
彼女の髪に触れていない方の左手に、アリスは自分の指先を絡めて、甘く囁いた。
「リグは何も気にしなくて、いいから」
「……雨が、酷いな」
「うん、何もかも流してくれるね」
雷が落ちた。明かりがついた部屋を、更に強く照らす。
ゴウゴウと嵐が猛る。なのに、この部屋の中では、火種さえも燻る事はない。
アリスは、俺の頬をゆるりと撫でて、微笑む。
「あと少ししたら、レットーリアが戻ってくるよ。そうしたら、この逢瀬もおしまいだし。……ちょっと口煩いと思うよ、我」
「彼女の説教は長いから、反抗はオススメしないが」
不満げに唇を尖らせたアリスが、跨っていた俺の上に倒れてくる。寝室に入るので、装飾の類を外して良かった。もしその角で、彼女の柔い頬が少しでも傷ついていたらと思うと恐ろしい。世界の損失だった。彼女は全てが美しいのだ。
全体重を乗せられても、未成熟な体はほとんど重さを感じない。
そして、とても、冷たかった。
「もういいのか」
「どうせ邪魔されるもの」
「……俺は気にしないけれど」
「駄目駄目!」
アリスは、ガバリ、と体を起こす。
美しい彼女は、幼い外見と対照的な、艶やかな笑みを浮かべた。
「我の愛しい夫に触れて良いのは、我だけだよ。当然でしょう」
困った事を言う。けれど嬉しいと思う。相反した感情には、まだ少しだけ慣れない。
どうやら、雨は小降りになってきたようだ。
外は、別の音が混ざりだす。
「なぁ、アリス。俺はそんなことをされなくても、お前が望むならそばに居るよ」
「うーん、けれど、ほら。リグってば、平気で無理をするでしょう」
「勿論、アリスの為ならば」
「ほらね、そういうところだよ」
まったく、と彼女は腕を組んだ。
その、シルクで出来た上品なワンピースの裾が、ズルリ、と蠢く。
わずかに捲れる裾をペチンと叩いて、彼女は言った。
「我もね、リグのそういう所は好きだとも。愛しているよ。けれど、ソレはリグだけの特権じゃないのだし」
部屋を覆う、花のお香に、生臭い匂いが混ざる。鉄錆の臭いだ。
それから、高いハイヒールが床を突く音が近づいている。どうやら彼女は文句を言っているようだった。こんな夜中に働かせるなんて、と。明日はちょっと良いケーキでも焼いてあげよう。
――いつだって、王、というものは、良からぬ物に狙われる。形あるもの、形なきもの。呪いなんて当然だ。そこへ、私怨が混ざれば暴動となる。
夜闇に乗じて蠢く者たちには、相応の罰を。
チラリ、と俺は机の上に視線を向けた。部屋に入り、まず、彼女は剣を置けと言った。
「……アリスは俺を甘やかしすぎだ」
「ふふふ、仕方ないよ。愛してるからね。だから騙されていて。悪いものなんて見なくて良いよ。そんなもの、お前が見るまでもないからね」
ついばむような口付けを落とされる。
仕方ないな、と嘆息した。
彼女が注ぐ、優しさと嘘を甘んじて受け入れよう。
体を起こして、アリスを抱き締めると、もう、血の臭いはしなかった。