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そのまま。  作者: こまこま
8章
52/52

8-1

「…妻が」


あの日以来、決して

触れることのなかった話題に

会場は一気にざわついた。



秋の気配を感じ始めた頃

ペナントレースは終盤に差し掛かり

優勝への戦いに変わって来る



それは同時にあの約束が

視界に入ってくる事でもあって。


“うた、準備しとけよ”


息詰まる日々の中

そう笑う姿は


頼もしくも懐かしくもあり

でも

ほんの少しだけ

遠く感じた



家の中の空気が

少しだけ変わる


ひりつくとは違う

ただ近づいてくるその日を

じっと待ち構えているようで


そんな彼は

いつもと同じなようで

やっぱり

少しだけ遠かった






「うたー」

声をかければ

パタパタと音が聞こえる


続いて見えた姿に

顔が引き攣った


“その格好で行くん?”

そう言いたいのを飲み込んで

「行けるか?」

一言。

“うん”と頷いた顔は明るくて

それ以上なにも言えなかったけど



病院の前。

「一緒に行けなくてごめんな」

降りる彼女に声を掛けて

見送る背中


少しだけ強張ったその背中に

漏れる不満


リハビリなのに

1人なのに

そばにいないのに


「それはあかんやろ…」


すれ違う人が

振り返る

立ち止まる

彼女の姿だけを見ているような

そんな気がして


「俺のなのに…」

「あんな格好するからやん」

ぶちぶちと止まらない愚痴


幼稚だって思うけど

少しずつ手を離れていくような

そんな寂しさもあったりして


ちょっと自分を持て余す

そんな時間





“声、出るようになりますか”


小さく畳んで

握りしめていた紙は

見てもらうにはちょっと

不恰好で。


でも思い切って広げたそれを

見た人は

いつも通り微笑んでいた


「言いたい事ができたの?」


少し考えるように視線が動く

唇をきゅっと真一文字にして

戻ってきたのは

力強い瞳だった


“うん”


頷く彼女


「それは、昴汰くんにも話してある?」


その言葉に

情けなく下がっていく眉

こちらの口角は上がる


「驚かせたい?」

“でもね”

「彼は知っておくべきじゃないのかな」


諭すように

ゆっくりと


でも彼女は分かっている


自分に向き合う覚悟ができた時

1人では

とても耐えられないだろうって事を


それでも

1人で立ち向かおうとする強さは

悪くはないけれど


「傷ついたのは昴汰くんも、だよね」


「声をね、出したいと思ったのはとてもいいと思うよ」

「だから、もう一度考えてみたらどうかな」

「僕の希望は2人で来てくれる事かな」



納得したような

そうでもないような彼女を

見送った


やっとここまで来たのかと

安堵する


同時に

2人にとって

この先の痛みが

少しでも小さければいいと願ってしまう






「病院どうやった?」

届いたメールを見つめる


“昴汰さん”


“あのね”


書き出しては消し

書き出しては消し

を繰り返しているうちに

時間だけが過ぎていく


「彼は知っておくべきじゃないのかな」


無視出来ない指摘だった


でも今は

巻き込めない


同じ所をぐるぐると回っている気がした



「うた?おる?」

勢いよく開けられるドア

足早に入ってくる


「…なんや、おるやん」

慌てたように向かって来て

立ち上がる間もなくたどり着いた


「大丈夫か、なんかあったん?」

確かめるように全身を

確認する視線、大きな手


なにをそんなに不安がっているのか

わからなくて


「メール、返事せえへんやん」

ちょっと不満そうな声


あー…


“ごめんね”


なんて言えばいいかわからなかった、

とは言えず


「病院、大丈夫やった?」

「先生なんか言ってた?」

「変な奴おらんかった?」


矢継ぎ早にくる質問に

なんだか笑えて来て


“大丈夫、いつも通りだよ”


そう答えた。


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