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ドアの前、ネームプレートを確認して大きく息を吐く。
(緊張してんのか)
自分を嘲笑うように口角を上げ、扉に手をかけた。
ノックに反応はない。
やけに大きく響く鼓動に、ここまで来て何を躊躇っているのかと自嘲する。
静かに扉を開けると、どうしても頭から離れなかった横顔が目に入った。
――いた。
その一瞬で、胸の奥が大きく揺れる。
やっと見つけた。
そう思ったのに、
同時に――またいなくなるんじゃないかと、喉の奥がひりついた。
先程までの躊躇いなど忘れたかのように、足は勝手に進む。
気づけば、吸い寄せられるようにその側に立っていた。
距離を測る余裕なんて、もうなかった。
管の繋がれた腕。
赤く染まる頬。
眉間に寄せられた皺。
小さく開いた口。
上下に波打つ胸。
思わず頬に手を差し出すと、
熱を持ったその頬が、
心地よさを求めるように、わずかに擦り寄った。
縋るような、無意識の反応に、胸が強く締めつけられる。
どうしてこんなことに?
何があった?
何を聞きたいのかすら、分からない。
混乱する胸の内を吐き出すように、大きく息を吐いた。
ここにいる。
やっと、見つけた。
何よりもまず、その事実に安堵する。
存在を確かめるように、無防備に伸ばされたその手を握りしめた。
「熱、測れる?」
巡回に来た看護師の声に、かすかに頷く。
「まだ苦しそうだね。あんまり我慢しないで」
手際よく作業を進めながらかけられる言葉を、重い頭で受け止める。
その奥で、夢に見た懐かしい温もりを思い出していた。
重荷になりたくなくて手放した。
――ううん、本当は逃げ出した。
だけど、彼が大切にしているもの。
夢中になっている姿も、必死に戦っている姿も。
すぐそばで見てきたからこそ、わかってしまう。
自分の存在が、きっと障壁になることを。
彼の隣に立つ勇気を、持てなかったことを。
忘れると誓ったのに。
忘れてほしいと願ったのに。
瞳を閉じれば浮かんでくるのは、
少年のようなまっすぐな瞳と、くしゃくしゃに寄る目尻の皺。
人懐っこいその笑顔は、誰もを魅了する。
――会いたい。
こぼれそうになった言葉を飲み込むように、大きく息を吐いた。
「食事、少しでもいいから摂ってね。水分は絶対」
言い聞かせるような声のあと、
「じゃあね」と去ろうとする気配。
――そのとき。
私の向こう側に、軽く会釈をする仕草に、わずかな違和感を覚える。
重い身体をどうにか動かして、そちらへ顔を向けると――
そこにいたのは、
怒っているような、心配しているような、
複雑な表情を浮かべた彼だった…
彼の顔が、はっきりと視界に入る。
――見つかった。
そう理解した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
「……詩ちゃん」
絞り出すような声。
「おいおいおい」
間の抜けた、けれどどこか優しい声音が重なる。
「それで隠れたつもりかいな。逃げられるわけないやろ」
布団の上から苦笑する気配に、懐かしさが一気に押し寄せる。
その声だけで、もうだめだった。
涙が、あふれた。
「顔、出してや……」
そっと持ち上げられた布団の隙間から、新鮮な空気が流れ込む。
その向こうに、目尻を下げた情けない顔が覗いた。
「怒ってんねんで、俺」
頬を伝う涙を拭いながら、少しだけ拗ねたような顔。
けれどその瞳は、変わらず心配そうにこちらを覗き込んでいる。
こんな距離で彼を見るのは、いつぶりだろうと、ぼんやり思う。
「……ごめんなさい」
思っていたよりも素直にこぼれた言葉に、
自分でも少しだけ安堵する。
「難しい話は今度にしよ。
とにかく、大丈夫か?」
間を置かずに続く言葉。
「なんか口に入れる?
それとも水分か?」
落ち着かない様子で、あれこれと動き出すその姿に、思わず笑みがこぼれる。
それに気づいた彼が、目を細めた。
「余裕やんな、自分」
少しだけ意地の悪い口調なのに、どこかほっとした響き。
「元気になったら、おぼえとけよ」
その言葉に、また小さく笑ってしまう。
ふっと、空気がふと緩んだその瞬間、距離が縮まる。
そのまま触れてしまいそうなくらいの近さ。
ほんの一瞬だけ、その距離のままでいたいと思ってしまう。
でも。
――これ以上、近づいたらだめだ。
そう思ったのは、自分の方だった。
「……ほんまに」
彼が何か言いかけるのを遮るように、視線をそらす。
――言いたいことも聞きたいことも、あるはずなのに。
なにが正解なのか、正解があるのかすら分からずに、下げた顔の先、見えた自分の指先もピクリともしない。
ただわずかに動いた唇も、それきり止まった。
それを見ていたのかどうか、彼は何も言わない。
ただ、少しだけ視線が柔らかくなる。
彼の気配だけがやけに近く感じた。
布団の上にあった手が、そっとこちらに伸びる。
触れる直前で一瞬だけ止まって、それでも今度は引っ込まなかった。
指先が、手の甲に触れる。
たったそれだけなのに、息が止まる。
「……よかった」
掠れた声が落ちる。
安心したような、力が抜けたような、そのどちらにも寄りすぎない声だった。
「まじ頼むわ……」
離さないまま、確かめるみたいにそっと包む手に、ほんのわずかな震えが混じる。
その手の温度が、やけに現実的で、逃げ場を奪う。
――こんなふうに触れられてしまったら。
一瞬だけ、そう思う。
けれど次の瞬間には、別の考えがそれを押し返す。
――それでも、だめだ。
ここにいてはいけない理由だけは、ちゃんと残っているのに。
手の中のぬくもりだけが、それを曖昧にしていく。
ただ、どちらにも行けないまま、指先だけがわずかに動かなかった。
近いのに、不器用で、どうしようもなく優しい距離だった。
それだけが、どうしようもなく残ったまま。




