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12 周『彼方へ』

――ここは?

揺蕩う意識の中辛うじて見えたのは水面だった。妙に体が冷えている。

背中が底についた。

あれ? 息。


「ごぼぉ……ぷはっ!」


溺れそうになりながら水面から顔を出す。水が鼻に入って喉の奥がピリピリする感覚がした。


「生きてる」


よくある頬をつねるではないが痛みがあると言うことは少なくとも僕は死んでいない。…と思う。

僕は辺りを見渡した。

どこまでも続く真っ白な部屋。

こういうのは大概、病院とかで目を覚ますのではないだろうか。

半身は水に浸かっている。いや、水のように見えるが僕は一切濡れていなかった。


「ここはどこなんだ?」


僕はここに来るまでの一番最新の記憶を辿る。

確か、近藤がなかなか学校に来なくて焦ってたら気分転換だと言って彼方さんに屋上に連れられて。落ちた。


「そうだ、彼方さん」


もう一度僕は辺りを見渡す。


「周くん?」


僕の背後からか細い声がした。

聞き覚えのあるその声に僕は振り返るとそこには彼方さんがいた。

彼方さんは僕の様子を少し離れた所から伺うように見ていた。


「彼方さん!」


僕が身動きのとりずらい足を前に出す度に波紋が広がった。


「周くん、大丈夫?」

「わからない。だけど、多分僕達は生きてる」


その時キィンと甲高い音が辺りに響いた。

僕と彼方さんは上を向く、そこには淡い青色のガラス玉が無数に浮かんでいた。


「ねぇ、周くん見た?」

「何を?」

「記憶。皆の記憶。私は歩さんと近藤くんと私、そして周くんの記憶を見た。私と周くんは随分昔に一度会ってたみたいだね。全然、気が付かなかったや」


彼方さんが笑った。その顔を見て、僕も見たあの時の夏祭りが廻った。


「周くん、私ここに来るの初めてじゃないの。前にも一度だけ来たことがあって、あの時よりも水位が上がってるけど、多分」


彼方さんはちゃぷちゃぷと水を両手ですくう。


「どうして、周くんがここにるのかは私にはわからない。ごめんなさい」

「謝らなくても良いよ」


僕と彼方さんの間に甲高い音が流れていく。


「ねぇ、周くん」

「ん?」

「どうして、私を助けようとしてくれたの?」

「どうしてって、なんとなく」

「嘘。私は知ってるから。君は本当は誰よりもお人好しだって、近藤くんの記憶を見たから知ってる」


優しく微笑むその表情が、あの時の少女と重なった。

彼方さんは宙に浮いているガラス玉を見上げた。その横顔は吹いてしまえば消えそうな蝋燭の火みたいに儚く揺れているように見えた。


「ねぇ、周くん。私って生きてても良いのかな」

「良いと思うよ。というか、僕は君に死なないで欲しい」

「そうだよね、周くんはお人好しだから――」

「違う」

「え?」

「まだ、テストの点数決着ついてないから」


僕と彼方さんは意表をつかれたようで、目を見開いていた。


「ぷっ、あはは。なにそれ」


そして、弾けた。

その笑い声はこの空間にこだましていた。


「そっか、そうだよね。テストの点数。まだ、決着ついてないもんね」

「うん」

「じゃあ、まだ死ねないね」

「そうだよ」


無数のガラス玉はぶつかり合い、甲高い音を未だ鳴らしている。


「周くん、ありがとう」

「別に、僕はなにもしてないよ」

「ううん、そんなこと無い。私にとって君の言葉はとても、とても嬉しかった」


彼方さんは僕の手を取った。


「だから、待ってて」

「……」

「いつか、また絶対に帰るから。その時は迎えに来てね」


なんとなく気が付いていた。落ちた時、僕は間に合わなかった。

彼方さんは僕の手を離して、見つめた。

僕はその瞳を真っ直ぐに見つめた。


「絶対に迎えにいくよ」

「うん」


僕は彼方さんに背を向けて歩き出す。

大丈夫だ。きっと、また会える。


「周くん!」


"名字"を呼ばれ振り返る。


「そう言えばさ! 名前、教えてよ!」


名前。だいぶ昔に呼ばれたきり、最近だと呼ばれた覚えもない。

彼方さんは僕の声を待っている。

君がどれだけ遠くにいても、遥か彼方にいても僕は――


すすむ、周 進」


彼方さんは僕の名前を聞くと、大きくはにかんだ。


「またね、進くん!」


水面が揺れて甲高い音が響く。その中に紛れて確かに彼女の声で、僕の名前が聞こえた。


          ※


暗闇から光が差し込み、ぼやけた白い天井が漸くハッキリと見え始めた頃。

隣から驚いたような声が聞こえたような気がした。まだ、鮮明に聞こえないその声の主は僕の隣から椅子を倒して走り去っていた。

ああ、今度こそこの天井は病院なのだろう。

全身に力が入るようになって、音もよく聞こえる。

ガラガラと病室の扉が開いた音がして、白衣を着た男の人も二人の看護師そして、僕の父と母と近藤。

皆違った表情を浮かべて僕を見ている。


「おはよう」


始めに喋り始めたのはやはり医者だった。

意識は鮮明だが、上手く声が出ない。


「無理に喋らなくてもいいよ。幾つか質問をするから、はいかいいえで答えられる簡単なものだよ。はいの場合は私の指を軽く握ってくれないか。いいえの場合は握らなくていい」


僕の掌に乗せられた皺を寄せた指を軽く握る。


「なんで、ここにいるのか覚えているかい」


僕は軽く指を握る。

医者はそれを隣にいた看護師に伝えて、看護師はそれを紙にメモをした。


「それじゃあ、自分が誰か解るかい」


僕はまた指を握った。

僕は医者から簡単な質問を幾つか受け終えた。医者は両親と近藤に僕に別状が無い旨を伝え、医者が病室から出ていくと近藤が僕の手を取った。


「無事で良かった」


全然無事では無いけどなと、いつものように言ってみたが上手く声にならなかった。

でもまあ、生きている。それだけでも十分か。


翌日起床してすぐに僕はベッドから立ち上がった。眩暈がして、足元はおぼつかない。それでも、僕には行かなければいけない所があった。

病室を出ると近藤が病室の前に立っていた。


「近藤…」

「え、周!?」


近藤は動揺で持っていたコンビニの袋を落とした。


「ちょっ、周大丈夫なのか?」

「うん、少しだけふらつくけど歩けないことはないし」

「…それは、大丈夫なのか? で、どこまで行くんだよ」

「それを聞くために、今からエントランスまで行こうと…」

「もしかして、一ノ瀬さんの病室か?」

「なんで解ったの」

「俺を誰だと思ってるんだ? 周の考えていることなんざ、お見通しよぉ!」


近藤は僕の背中を支えながら一ノ瀬さんの病室まで案内してやると言って落とした袋を僕のベッドに置いて歩き出した。


「近藤」

「ん? どした?」

「ありがとう。近藤は知ってたんだろ、あの日に僕が落ちるの」

「え!? なんで、知ってんの? まさか、家に盗聴機とか小型カメラとか置いてる?」

「置いてねぇよ…」


近藤がいつものようにチャラけるのでさっきまでの緊張感はすっかり抜け落ちていた。


「僕が言いたかったのは――ありがとうってこと。助けるために色々してくれてたんだろ?」

「止めろよ、照れ臭い。まあ、周は俺に約束してくれたからな。それに、あの日俺周の言う通り分かってたんだ。だから、自転車めっちゃ飛ばして学校に朝早くに向かってたんだけど…その……」


近藤は言い淀む。


「なんだ?」

「いや、その、友達のピンチに焦りすぎて軽く事故ってしまって」

「事故…」

「ああ、田んぼに突っ込んだ」


え、そんなことで僕あんなに不安になってたの? いや、別に田んぼに突っ込んだって大事なんだけどね。だけどね!


「近藤、今度ジュース奢れよ」

「え? なんで!?」

「僕の気持ちを弄んだ罪で」

「俺いつの間にか周をその気にさせてたの!? だとしたらごめん俺年上巨乳が好みだから!」


病院でなんつー会話をしているのだろう。


「話だいぶ逸れたけど、こっちの方がありがとうって言いたいくらいだからこの事に関してはこれ以上言及は無し! ほれ、着いたぞ」


近藤が病室の扉を開いた。左側の一番奥。そこに彼方さんは寝ていた。


「ほいじゃま、俺は飲み物買ってくるから。あ、寝てる彼方さんに変なことするなよぉ~」

「馬鹿かお前は」

「はいはい、馬鹿ですよ」


近藤はニヤニヤしながら病室の扉を閉めた。

僕は彼方さんの側にあった椅子に座った。

彼方さんの頭には包帯が巻かれており、人工呼吸機も装着していた。


「彼方さん…」


僕は彼方さんの手を取った。


「僕は待ってるから、いつ帰ってきてもいいように君の場所を作っておくよ」


握り返されることはない掌を僕はそっと握って、僕も前に進まないとなと窓の外に差し込む夏の日差しを浴びる緑を見て思った。

それから暫く僕は彼方さんに話をした。これからのことやこれまでのこと全部。


「おっ、もういいのか?」


病室から出ると近藤が僕を待っていた。

近藤の両手には何も無い。


「近藤、飲み物買うんじゃなかったのかよ」

「それは聞かないお約束だろぉ」

「…どこから聞いてたんだよ」


解っているが一応確認。


「…怒んない?」

「まあ、なんとなく解ってるし」

「………最初から全部」

「お前なぁ」

「あー! 怒んないって言ったのに!」


こうして、近藤と話しているとなんだかホッとする。

それから僕は入院生活を過ごした。

入院生活と聞くとベッドでボーッと本を読んだりSNSを漁ったりとそんな平穏なイメージがあったのだが、近藤がいたせいと言うかお陰と言うかそんな平穏は僕にはなかった。

僕は落ちた時に比較的軽傷だったこともあり(一般的に見たら重傷の類いだけど)後遺症もなかったので、近藤に近場を連れまわされた。散歩と言う名目でゲームセンターにも連れていかれた。

そんな感じで時は過ぎ。僕は、無事に退院することが出来た。退院の日には近藤は学校で来れなかった。

退院する前に彼方さんに向けて日記を書くことにした。メモ帳に退院する今日の日付と一文を書いて彼方さんの枕の左側の窓側にある引き出しの中にそれを入れた。

病院から家までは多少距離があり、迎えは父が来てくれた。

久々に乗った車は懐かしい匂いがした。

車は走り出した時から速度を変えないで、田舎町をゆっくりと走っていく。

病院の周辺は僕が住んでいるところよりも色々有ったが、少し離れるとすぐに何も無い所になった。


「進」


父が唐突に僕に話しかけた。

信号機の色は赤で車は速度を落として止まった。


「帰ったら父さんと母さんから話がある」


父の顔は前に比べて皺が増え、髪には白髪がちらほら見える。


「わかった」


決めたんだ彼方さんが帰ってきた時に胸を張って君にお帰りと言うために。

父は僕の言葉を聞いて、少し安心したようだった。

家について靴を仕舞い、リビングへと一直線に向かう。廊下とリビングを隔てる扉を開くと普段はソファーの上にいる母が今日は俯いたまま、椅子に座っていた。


「進は適当に座ってくれ」


父にそう言われ母の向かい側に座った。

母は依然何も言わない。

父は母の隣に座った。


「…そうだな。このままじゃお葬式みたいだからもう少し明るく行こう」


父は僕と母の緊張が見て取れたのか手をパンと叩いてそう言った。

沈黙。


「と、言ってもそんな風にはなれないよな」


父は苦笑いでチラチラと僕と母を交互に見ていた。

バレてないと思っているんだろうか。

僕は深く息を吸う。


「父さん、僕は父さんに感謝してるんだ。いつも僕を気にかけてくれてありがとう。僕が中学受験失敗した時も責めないで慰めてくれる父さんには感謝してもしきれない。そんな優しい父さんが僕は好きだよ。母さん、僕は母さんのことが嫌いになれなかった。僕が中学受験に失敗して母さんは僕のことが嫌いになったかもしれないけど、僕は母さんのことが大好きだった。だから、必死に勉強をした。中学受験は失敗したけど、高校は頑張って偏差値の高いとこに行ったんだ。勉強は止められなかったなんて、言い訳みたいに言い聞かせてきたけど全部母さんにもう一度笑ってほしくてここまで頑張ったんだ。だからさ、泣かないでよ。そんなに暗い顔をしないで、僕はもう一度母さんと父さんと笑いたいんだ」


これが、僕の全部。僕は最後まで家族の事が嫌いになれなかった。いっそ、嫌いになれば楽だったんだろうけどそんなこと出来なかった。

誰かは言うだろう。なんで、こんな両親を好きなんだと。こんな両親は親失格だと。

でも、誰に何と言われようと僕の親はこの二人だから。


「ごめん、なさい」


母は小さくそう呟いた。その言葉を皮切りに母は僕に抱きついた。


「ごめんなさい、私、私…進が病院に搬送されたって聞いた時、進が居なくなっちゃうような気がして、それで怖くなった。このまま、別れてしまうのが私は怖かった」

「うん」

「ごめんなさい」

「母さん、僕頑張ったんだ。だから、褒めてよ」


母はそっと僕の頭に震える手をまわして、僕の存在を確かめるように撫でた。


「よく、頑張ったね」

「うん」

「よぉーし、今日はご馳走にしよう! お父さん頑張っちゃうぞ!」


そう言って父は台所に立った。


「母さん、これからもよろしくね」


僕は母の手を取り破顔した。


          ※


春。頭の痛くなるような夏の日差しは遠くに消えて、まだ少し肌寒い風を全身に浴びながら自転車を漕ぐ。

いつもと変わらない通学路にいつもと変わらない重たい鞄、いつもと変わらない少し空気の抜けた自転車のタイヤ。そして――


「よお、周!」

「近藤、お前もいつも通りだな」

「えぇ!? 周、気が付かないのか?」

「え、何か違うのかよ」

「マジで解んない?」

「マジで解んない」

「よく見ろって!」


近藤を上から下までじっくり眺める。撫でたら気持ち良さそうな坊主頭にヨレヨレの制服。浅黒い肌に不釣り合いな真っ白な歯。

これと言って変わった所は無いように見える。


「わからん」

「えー」

「正解を教えろよ」

「いいぜ! 正解は男前に磨きがかかっている、でした! っておい! なんで、何も言わないでどっか行くんだよ!」


本当に何も変わらない。変わった事と言えば、卒業した真島先輩から何故か大学での先輩の恋の話を頻繁に聞かされるようになった。

真島先輩に何でそんなことを聞くのかと尋ねると、自分はレズだと教えてくれた。

つまるところ、真島先輩は女の子が好きなのだ。でも、僕は教室で女子と話したことなんて片手で数えられるくらいしかないから女の子のノリをあまり知らないのでいつも返答には少し困る。気になっている人にそれとなく聞けば良いのでは? と言ってみたが、緊張するので聞くなら周くんが聞いてくれとの事だった。

全く先輩は、初対面の年上の女の人と僕がまともに話せるとでも思っているのだろうか。

そもそも、先輩がどうしてここまで僕を頼るのか良く分からない。一度聞いてみたが、君は私には出せなかった答えを持っているからと、良く分からないことを言っていた。

と、まあ、こんな感じで僕は毎日を生きている。

僕は平穏な日常の回想を終えて、病室の扉を開いた。

その、病室の左側の一番奥。

僕はそのベッドで寝ている彼女の隣に座って、僕はいつものように語り出す。


「今日はさ、始業式だったんだけどまた近藤と同じクラスになったんだ。三年間同じクラスってそろそろ飽きるわって近藤に言ったらいじけて僕の弁当の唐揚げを全部食われた」


今日あった事を話す。それがあの日からの僕の習慣になっていた。


「あっ、そうだ」


僕は窓側にある引き出しを開けて、メモ帳を取り出す。


『今日は始業式だった。また、近藤と同じクラスで腐れ縁だなと感じたよ』


短い文章をメモ帳に書いて、もとあった場所に戻した。

この一言日記ももうすぐでメモ帳が切れるので新しく買わないとな。

僕は持ってきていた花を花瓶に差し替えて、そとを見る。桜の花弁が風に煽られて宙に舞う。

遥か彼方にいる君に追い付いて言うんだ。

おかえりと。

宙に舞った桜の花弁が開いていた窓からヒラリと入り彼方さんのベッドに乗った。

僕はそれをつまみ窓を開けてフッと吹いた。

桜はもう一度宙に舞い、空高く僕の手の届かない場所まで飛んでいった。


「彼方さん、またね」


僕は病室の窓を閉めて、最後に彼方さんの手を取る。僕は未来を変えることが出来たのだろうか。

握り返されることはない掌を離そうとした時。

彼方さんの掌が僕の手を握り返したような気がした。

きっと、変わっている。

あの日、僕と彼方さんが屋上から落ちた日。いや、もっと前からかもしれない。

君のいる場所は僕の思ってるより遠い所かもしれない。

僕はもう一度彼方さんの手を握り返し、そして誓う。

それでも、君に必ず追い付いてみせると。

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