03
そんなわけで僕は、おそろしく忙しくなった。飛ばし屋ひとり頭、ざっと一千四百万回の弾き飛ばしというのは膨大な数だ。現在しかないバルクの住人でなければとてもじゃないが請け負える仕事量ではない。幸い、作業は単純労働で、リチャード翁の作ったターゲットリストに従って悪党を指定された三次元宇宙に弾き飛ばすのみ。必要にして充分なターゲット情報が記されており、三島奈津子の時のように考え込む必要もなければ福永の時みたいに拘束される心配もない。外国語がさっぱりな僕に〝案ずるには及ばん〟とリチャード翁が言った意味がよくわかった。巻き添えを出さぬよう、ターゲットがひとりの時を選んで実体化し、そのままひょいと手を伸ばすだけでいい。ひとつ難点を言うなら、それがトイレの個室や寝室になりがちなことだ。いまのところターゲットは男性ばかりなので大事には至ってないが、これが女性なら、僕は変質者扱いされることになるかもしれない。
リチャード翁が「主に」と言ったようにターゲットのすべてが静かなる近代戦争を仕掛けている連中ばかりではない。今回、僕が狙いをつけているのは数百名の女性信者を強姦したカルト――Providenceの韓国人教祖で、霊感商法と合同結婚式で悪名高いカルトTを素行不良で除名された男だった。寝首を掻かれては堪らない――そんな危惧があるのだろう。この男は女性信者を連れ込む寝室にさえボディガードを付き添わせているため、トイレの個室に入るのを待たねばならなかった。僕はいま二畳はある広いトイレで貯水タンクの背後に実体化し、強烈な臭いに耐えていた。
「만세」
孤独はひとの隠れた性癖をあらわにする。このチャンという男は、ひとひりするたび便器を覗き込んでは奇矯な声を上げていた。扉の向こうに立つボディガードもさぞや返す言葉に困ったことだろう。しかし一体、なにを食べたらここまで……、 はっ! 僕はここが韓国であることに思い当たる。本場のキムチ恐るべし――鼻で呼吸しないよう注意して僕は静かに言った。
「회심하십시오(性根を入れ替えて来い)」
驚愕の表情で振り返るチャンの頬が僕の人差し指が触れた瞬間、ヤツは別の三次元宇宙へと弾き飛び、僕はバルクへと戻っていった。
「お疲れ様。あとひとりで三十九枚目のリストも終了ね」
出迎えてくれたコウが言った
「そうだね」
これまで僕は多くの政治家や実業家を弾き飛ばしてきた。だが、ひとつのイメージフォルダに十五ないし十六名の名前が書かれたリストを三十九枚分消化したところで六百名にも満たない。
「千里の道も一歩からよ」
僕の憂鬱を感じ取ったコウはことわざの引用で答える。それは日仏ハーフのフリーアナウンサーを模した外見にそぐわぬ老子出典のものだった。
「わかってますって。次は?」
「大物よ」と言ってコウはリストを僕に向けた。
「Rか……」
銀髪で縁なし眼鏡をかけた痩身の老人は、見るからに強欲そうな顔をしている。長期に渡って下院議員を四期連続、さらに国防長官も二期務めたこの男は、ナインイレブンの際に墜落したアメリカン航空77便で死んでいるはずだっだとリストに注釈が加えられている。
「この男が第二次湾岸戦争を引き起こした張本人なの」
通信事業はともかく、製薬会社のCEOや会長職にありながら、親族に民間軍事会社を経営さすマッチポンプぶりは、かつて〝ホワイトハウスの三悪人〟と呼ばれた面目躍如だ。『手をつけることは手を引くことより簡単である』、『一流の人間は一流を雇う。二流の人間は三流を雇う』などのマイルールを書籍として出版するに至っては、もはや不遜を通り越して吐き気さえもよおす。
「わかった、行ってくるよ。お次は当時の大統領になるのかな」
「どうかしら。あれはただのバカ、弾き飛ばす価値もないってことでリスト漏れしてるんじゃない? でも確か副大統領は載っていたと思うわ」
コウの評価は正しいのだろう。父親も大統領だったフォーティースリーは、往時、ナインイレブンがイラクの独裁者によって引き起こされたものだと本気で信じ込んでいたのだ。
米軍占領下で亡くなった十五万人のイラク人だけではない、大義なき戦争で死んでいった兵士たちのためにもなぜ自分が弾き飛ばされるのかを元国防長官には知って欲しかったが、僕はひとに説教する柄ではない。タミフルでぼろ儲けしている薬品会社の経営最高責任者オフィスに突然実体化した僕に眼を丸くしながらも、彼は僕が差し出す腕に魅入られるよう手を伸ばしてきた。