風の行方②
美咲は席に戻ると、手元のノートパソコンを開きながら、ふと視線を宙に泳がせた。
――風力発電か。まさか、こんな形で自分の道がつながっていくなんて。
高校時代、文系コースに進んでいた美咲が、地学を選択したのは、進学のために必要な理科の単位を確保するためにすぎなかった。ところが、その授業を担当していた理科教師が、想像以上に熱意のある人物だった。
「このまま二酸化炭素排出が続けば、地球の平均気温は今世紀末までに四度以上上がるかもしれない――でも、そこで終わりじゃない。だからこそ、再生可能エネルギーが未来を変える鍵になる」
その教師の言葉が、美咲の中に強く残った。授業の合間に語られる風力発電の可能性、太陽光発電の効率、炭素税の議論、国際交渉の進展といった話は、文系の枠を超えて彼女の知的好奇心を揺さぶった。
――環境問題に関わる仕事がしたい。
そう思うようになり、進学先は経済学部を選んだ。環境政策の分析や、環境と経済の両立に関心が移ったからだ。在学中は、気象予報士試験にも挑戦したが、合格は簡単ではなかった。大学の課題、ゼミ活動、アルバイトの合間を縫っての勉強。だが、試験のたびに悔し涙をのんだ。
結局、大学在学中には合格できず、卒業後は総合商社の一般職として就職した。けれど、夢を諦めることはなかった。日中は仕事、夜は通信講座で学び続け、四度目の挑戦でようやく合格したとき、美咲は声を上げて泣いた。あの夜の安堵と歓喜は、今でも思い出すと胸が熱くなる。
合格後、晴れてアトモス気象研究所に転職。最初に任されたのは、報道番組『イブニング・スカイ』の気象キャスターだった。現場の厳しさ、伝える責任の重さ、視聴者の反応の鋭さ――すべてが初めての経験だったが、当時のキャスター藤堂玲奈に厳しくも温かく指導され、次第に伝える力を身につけていった。
けれど、数年後、過労とストレスが積み重なったのか、突然の腹痛に襲われ病院へ行くと、十二指腸潰瘍と診断された。
――せっかくここまで頑張ってきたのに、どうして。
ベッドの上で、自分の無力さを噛み締めながら、天井を見つめていたある日、玲奈が病室に現れた。そして、おもむろに口にした。
「『ウイークエンド・アース』のキャスター、あなたにやってほしいの。環境を本気で伝えたい人に任せたいのよ」
涙があふれそうになるのを堪えながら、首を縦に振った。
それからの道は、美咲にとってまさに天職だった。環境政策、再生可能エネルギー、気象災害、地域課題。難解なトピックを、わかりやすく、科学的に、けれど人の心に届くように語る。視聴率がすべてではない、社会に意味を届ける仕事。いつしか「環境を語れる気象キャスター」として社内外に評価されるようになった。
――あの時の地学の先生が、今の私を見たら、なんて言うだろう。
今回のプロジェクトは、そんな美咲にとって初めての「実地」での環境政策への関与になる。専門知識、社会性、交渉力、そのすべてが問われる仕事だ。
美咲はパソコンに手を伸ばしながら、小さく笑った。
「……やるしかないわね」
再び画面に目を戻すと、彼女の眼差しはすでに、九州の洋上へと向いていた。
翌月、美咲は福岡空港に降り立った。少し蒸し暑い春の風が、彼女のスーツの裾を揺らす。
翌朝、九州中央大学の会議室にて、美咲は教授の田嶋隆、九州電力の新規事業部長・吉川栄治、そして地元自治体・唐津市役所の産業振興課長・川端守と対面した。
「今回の洋上風力発電プロジェクトは、国の再エネ導入拡大政策とも連動しています」と田嶋教授が口火を切る。「我々大学側は、環境影響評価と地域合意形成に向けた社会調査を担当。電力会社は系統接続と設備設計、そしてアトモス気象研究所さんには、風況データ解析と気象リスク評価をお願いしたい」
「はい、承知しております」と美咲が頷く。「事前に気象庁や当研究所の観測データベースから、過去十年分の年間平均風速・風向を取得済みです。特に十一月から二月にかけて、北西風が安定して吹く海域を中心に検討しました」
吉川が口を挟んだ。「潮流も重要です。浮体式であれ着床式であれ、基礎や係留に潮の干満や流速が影響します。現地を視察し、流況も確認しておきたい」
洋上風力発電には、大きく分けて二つのモデルがある。
ひとつは着床式。これは海底に基礎を固定し、その上にタワーをたとぇる方式であり、水深が比較的浅い沿岸部での設置に適している。構造が安定しており、メンテナンスも比較的容易だが、海底工事の影響や景観への懸念も出やすい。
もうひとつは浮体式。こちらは海底に固定せず、浮かせた基礎の上に風車を設置する方式で、水深の深い沖合でも設置が可能だ。着床式よりも予算や電力の安定供給、技術的に難易度は高いが、近年はこの浮体式に注目が集まっている。
今回のプロジェクトでは、予算や地盤の問題もあり、まだこのどちらを採用するかは決定していなかった。
「それでは午後から、予定通り漁船で海域を回りましょう」と川端がまとめた。
その日の午後、四人は防波堤を出て、風力発電候補海域へと船で向かった。風速計を携えた美咲は、波の高さ、風向、風速、そしてGPSをもとに位置情報を逐次記録。視界には、岸から約三キロ離れた水深二十メートル前後の浅瀬が広がっていた。
「ここなら着床式のタワー設置も可能ですね。砂質の海底ですが、圧密沈下のリスクは小さいと思われます」と美咲。
「ただ、漁場との重複には注意が必要だ」と田嶋が指摘する。「この辺りはワカメとタイの養殖棚があるから」
一同は頷き、港に戻った。
しかし翌朝。
美咲が再び大学構内を歩いていると、掲示板の一角に目が留まった。赤字で強調されたビラが、大学構内に貼られていたのだ。
「海を壊すな!洋上風力発電反対!」
続く文面には、「海洋生態系への影響が不明」「漁業者の生活を脅かすな」「地域住民の合意なき再エネ推進に反対する」といった言葉が並び、さらに反対派による意見交換会が三日後に大学構内で開催される旨が書かれていた。
「これは……」と美咲は言葉を失った。
急いで関係者が滞在する大学内の会議室へ戻り、ビラの写真を皆に見せた。
「現地合意形成が想定以上に難航しそうですね」と吉川が眉をひそめる。
「今すぐ公式な対話の場を設けた方が良いと思います」と美咲が提案する。「住民と直接意見を交わし、気象的な安全性や環境への影響、対策について正しく理解していただかないと、誤解が膨らんでしまいます」
田嶋教授は腕を組みながら頷いた。「確かに。我々は科学者として、透明性のある議論をすべきです。三日後の集会前に、こちら側としても説明会を準備しましょう」
「地元の漁協とも連絡を取りましょう」と川端も続いた。「唐津市としても、地域と共に進めたい意向です」
こうして、美咲の提案により、プロジェクトチームは急きょ「洋上風力発電に関する地域住民向け説明会」の開催に向けて動き出すこととなった。
福岡市内のホテルに戻った美咲は、さっそく資料の山に取り掛かった。午前中、大学内に貼られていた反対ビラを撮影し、さらに川端課長を通じて地元住民や自治体職員から聞き取りも行っていた。反対理由は多岐にわたる。
「まず、海洋生物への影響。工事による海底の掘削やアンカー設置で、海藻類の群生域や貝類の産卵場が損なわれる可能性がある……」
そう呟きながら、美咲は自らが解析した海底地形のデータを開いた。今回選定された候補地は、底質が比較的安定しており、海洋保護区からも離れている。環境アセスメントの初期調査結果も手元に揃えてある。
「次に、バードストライク……渡り鳥の飛行ルートと重なるか。これは気象レーダーと環境省のルートマップから外れていた。風車の設計も、最新型の低速回転ブレードを採用予定だし……」
美咲はその場で、最新の低衝突型ナセル構造と赤外線鳥検知システムに関する論文の要点を、簡潔にパワーポイントにまとめ始めた。反対意見には、科学的な裏付けと明確なリスク評価で応じるのが彼女のやり方だった。
「低周波音の影響……この地域は陸から十分距離をとってる。現行の国内基準も満たしている。念のため、音響シミュレーションのグラフも入れておこう」
「この地域は年間平均風速が六・五メートル以上あり、風配図からも北西から北東にかけての風向が安定している。浮体式基礎との整合性は取れているはず……」
そこへ、川端が顔をのぞかせた。ファイルを抱え、やや硬い表情をしている。
「沢村さん……地元の集会、相当本格的になりそうです。ジャーナリストの藤崎圭一さん、参加するようです。あと、九州海洋環境研究所の立花教授も」
美咲は画面から目を上げた。眉は少し上がったが、目にはむしろ光が宿っていた。
「立花教授……以前、風力の環境影響で論文を書かれていましたよね。なら、なおさら丁寧な議論ができます。ビラに書かれていた懸念事項は、ほとんど事前に想定していました」
彼女はファイルを一つ手に取り、川端に微笑みかけた。
「私は、気象の専門家としてだけでなく、社会と科学の橋渡しをする立場です。話し合いは、正面から、誠意をもって。番組スポンサーと何度も調整してきましたから、説明の場にも自信があります」
部屋の空気が少し緩む。川端は小さく頷いた。
「じゃあ、明日の事前説明会、よろしくお願いします。僕も行政側としてできるだけ支援します」
美咲は再び画面に向き直った。プレゼン資料のタイトルを『洋上風力発電と地域環境—科学的根拠に基づく説明』と打ち込む。
「未来のために、向き合う価値がある仕事ですから」
(……でも、本当に充分だろうか、何か別の角度からの反対はないかしら…)と、一瞬だけ不安がよぎる。けれど、美咲はその思いを飲み込み、画面に視線を戻した。




