外伝1 永遠なる平和のために
「勇敢なるネーヤの騎士諸君。
われわれは一昨日より今日まで、三日三晩、一度の休息さえ取ることなく戦いつづけてきた。
諸君は血も汗も惜しまず、クラウディアを解放し、世界にその名を恐れられるネーヤ魔呪大習院をも、皇帝陛下の御手に取り戻した。
その忠節、その武勇に、私は深く感謝している。
だが今、私は迷っている。
果たして諸君を、この戦いに巻き込んでよかったのか。
故郷に家族を残し、領地を離れ、名も知らぬ地で血を流させたことが、本当に正しかったのか。
あるいは、私の決断は、諸君にあまりにも多くを求めすぎたのではないか」
イライザーはそこで言葉を切った。
若き竜の長の首を刎ねた長剣を構えたまま、サウザンドドラゴンを象った兜の奥から、騎士たちを静かに見渡す。
その姿には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。
だが次の瞬間、その口から高笑いが迸った。
長を失ったワイバーンたちの混乱を、さらに掻き立てるような笑いだった。
「――だが、その迷いも、今日で終わる」
そして、惨い言葉がつづいた。
「諸君の武勇は、偉大なるネーヤの歴史とともに、永久に語り継がれるであろう。
われらは今日、ワイバーンの居留地を滅ぼす。
一匹残らずだ。
完全なる勝利を得たとき、世界は再び、ネーヤの力に慄くことになる」
元帥は、足元に転がる竜の長の亡骸を見下ろした。
「下賤なる亜人どもよ。心ゆくまで戦うがいい。
滅びゆくおまえたちへの、せめてもの餞別だ」
真竜の牙を名乗った若き長の身体が地に崩れ落ちるまで、戦場には、ほんの束の間の静寂があった。
あまりにも突然の出来事だった。
ワイバーンも、ネーヤの騎士たちも、蒼光神の司祭団も動けなかった。
戦闘を避けるために従軍してきたヨハンでさえ、目の前で起きたことを理解できずにいた。
その一瞬を、老獪な元帥は逃さなかった。
正確には、この瞬間を待ちつづけていたと言うべきだろう。
十年。
実に十年ものあいだ、イライザーは待ちつづけてきた。
ラインの死体を見ても、千年竜の骨滓を手にしても、心は満たされなかった。
そこに喜びはなかった。
命じられたことを、ただ機械のように遂行しただけである。
だが、今は違う。
心の底から殺したいと願う相手を、誰にも咎められることなく、心ゆくまで虐殺できる。
至高の喜び。
至福の時であった。
歓喜が血潮を搔き立てる。
イライザーは刃に十年越しの憎悪を重ね、長剣を高々と振り上げた。
「おおおおおおおおおおおお――ッ!!」
魔人の呪いを宿した刃は、思いのほか鋭かった。
振り下ろされた上段斬りは、崩れ落ちる竜の長の身体に追いつき、その亡骸を再び両断した。
今度は、もう何の変化も起こらなかった。
刃は頭頂から股下までを真っ直ぐに走り、死体を左右に割っただけだった。
◆
「この出征に賛同しない者が大勢いることは、私も知っている」
居並ぶ騎士たちを前に、イライザーは静かに語りはじめた。
「この聖帝大騎士団の中にも、やむを得ず剣を取った者は少なくないだろう。
今さら、貴族の義務や領主の責任を説くつもりはない。
戦いたくない者は、今すぐ剣を捨てて帰るがいい。
領地に戻り、安楽で退廃した暮らしをつづけ、遠く安全な場所から軍部を批判するがいい」
低く抑えられていた声が、次第に熱を帯びていく。
「だが、その間にも、ここに残った志ある者たちは、国の栄えのために戦う。
命をなげうって教団を守り、民衆を守り、おまえたちの領民を守る。
腐りきった執政部と元老院が、議論のための議論をつづけている間、ネーヤの民に安寧はあったか。
おまえたちの領民は、本当に守られていたか。
剣なくして、平和は得られたか。
武力なくして、奪われた土地が戻ったか」
イライザーは声を荒らげ、手にした長剣を騎士たちへ突き出した。
「われらは貴族である。
領主である。
そして、皇帝陛下に仕える騎士である!」
深蒼の鎧が鳴る。
「騎士の務めとは何だ。
答えは簡単だ。
常に戦に備え、戦うべき時が来たならば、敵を殺すことだ!」
元帥の怒声が、戦場を震わせた。
「臆病者は去れ!
腰抜けどもは、領地へ帰って震えているがいい!
だが、仮にもネーヤの聖騎士を名乗るならば、今一度、皇帝陛下に血を、剣を、そして魂の力を捧げよ!」
騎士たちの表情から、迷いが消えていく。
「帝国の真なる平和のために!
永遠なる平和のために!
正義のために命をなげうった先帝の御許へ召される、その日まで!
この私とともに戦え!」
騎士たちは、雄叫びで応えた。
幾百もの剣が、一斉に天へと突き上げられる。
イライザーは長剣を鞘へ収めた。
代わりに、深蒼の籠手に覆われた拳を高々と掲げる。
「ワイバーンを殺せ!」
すかさず騎士たちが応じた。
「ワイバーンを殺せ!」
「一匹残らず殺せ!」
「皇帝陛下に勝利を!」
殺意に満ちた喊声が、血と炎に染まる空へ響きわたった。
その日、ネーヤ帝国を救うために集められた軍勢は、救国の騎士団ではなくなった。
少女皇帝の名を掲げた、ひとつの巨大な殺戮者へと変わっていた。
◆
殺意に満ちた喊声が、血と炎に染まる空へ響きわたった。
その声を、クラウディア侯アリア、のちの少女皇帝も聞いていた。
丘の上に設けられた天幕の前で、彼女はただ一人の近衛・リーフェルを従えて、騎士たちの掲げる剣を見つめていた。
止めることはできた。
元帥の命令を取り消し、軍を退かせることもできた。
だが、アリアは目線を贈るだけにとどまった。
やがて最初の火が放たれた。
悲鳴が上がった。
神聖ネーヤ帝国摂政王・クラウディア侯アリアは、目を背けなかった。
この日、集められた軍勢は、救国の騎士団ではなくなった。
皇帝の名を掲げた、ひとつの巨大な殺戮者へと変わったのである。
後世、ネーヤ帝国の正史は、この戦いを「竜巣平定」と記した。
帝国の威信を回復し、北方の脅威を除いた、少女皇帝最初の大勝利であると。
だが、ワイバーンの側に残された口承は、別の名を伝えている。
――深蒼の虐殺。
その夜、いくつの命が失われたのかを、正確に記した者はいない。
ただ一つ、確かなことがある。
少女皇帝クラウディアの治世は、この日、勝利によって始まった。
そして同じ日に、その玉座の下へ、拭い去ることのできない最初の血が流れ込んだ。




