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聖人の称号を返しに行ったら、なぜかもう一枚積まれた件  作者: けものへんにまし
第二章 「仕事じゃないけど人生がかかってる」
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黒鉛と秘密と居候

 館の前でユーグの馬車を預かることになった使用人たちの顔から、一気に血の気が引くのをアルノーは目撃した。

 ざわ、と空気が冷たく震える。

 執行人の、赤い剣の紋章というのは、それほどのものらしい。

 まあ、車体は真っ黒で、彫刻なんかも入っていて、分厚いカーテンで中も隠されていて。そこに真っ赤な剣の紋章だ。かっこいいけど威圧感あるよね、とアルノーも心の中で頷く。

 当のユーグ本人はどこ吹く風で、館の造りを物珍しそうに見回しながら、アルノーの隣を軽快な足取りで歩き始めた。

「こじんまりとしていいですね」

「そうでしょう」

 アルノーは頷いた。ユーグの「こじんまり」は悪口ではないとわかったので、素直に同意できる。

 街中の工房までの道中、ユーグの口は止まらなかった。

 石畳の目地の美しさを愛でたかと思えば、屋根の勾配から冬の積雪量を推測し、道幅の広さに感心する。観察眼がどこへ向いても止まらない質らしかった。

 後ろを歩くジルとジュリアンだけが、無の境地に至った顔つきでその背中を追っていた。


   * * *


「ガスパールさん、アルノーです」

 ユーグを連れてガスパールの工房に踏み入れると、奥の方で何やらゴソゴソと這い回るような音が聞こえるものの、人の姿が見当たらない。

「……あれ? どなたかいらっしゃいませんか」

 声をかけて一歩奥に踏み出すと、突如奥から影が現れ、アルノーは思わず声を上げて後ずさった。

「……うわっ! ……って、ガスパールさん!」

 現れたのはガスパールだったが、明らかに異様な風体になっていた。

 屈強な鍛冶屋の顔が、鼻の頭から顎先まで、べったりと黒い粉で汚れていたのだ。服も手も、まるで炭鉱から戻ってきたばかりのように黒い。

「……次男坊か。それと、見慣れない連れだな」

 アルノーは一瞬迷ってから、来た目的を果たすことから始めることにした。

「あ、こちらはユーグさんです。バルテルミさんの息子さん」

「ユーグです。お邪魔します」

「なるほど、似てるな」

 ユーグの丁寧な挨拶にも、ガスパールは黒い手で首を掻くだけだった。

「ユーグさん、こちらがガスパールさん。例の鋼を作った職人さんなんですが……」

 言葉を切り、アルノーがジルにちらりと視線を投げると、ジルは心得たように頷いてユーグのそばに移動した。

「機密事項を話し合いますので、少しだけ離れたところにいてください。話が終わり次第、声をおかけします」

 ユーグは意外にも素直に頷き、監視のジルを気にする様子もなく、工房の中に飾られた見本の棚を熱心に眺め始めた。

 それを確認したアルノーは、改めてガスパールに向き合った。

「ガスパールさん、例のハサミの件ですが、昨日も手紙でお知らせしましたように、父から待ったがかかりました。売り出しは一旦ストップです。でも、ぜひ取り扱いたい、高く売れるって言ってくれた商人がいたので、許可が下りたら売りましょう。高位貴族がこぞって求める品質だ、って言ってもらえました」

 せっかく新技術を形にした職人に、活動休止を告げるのは心苦しい。だが、ガスパールは意外にも、汚れた顔でふんと鼻を鳴らしただけだった。

「……だろうな。あんな化け物みたいな鋼、勝手に売り歩いたら命がいくつあっても足りん。領主様の判断は正解だ」

「そう言ってもらえると助かります。……それで、その……顔の汚れは一体……?」

 アルノーが本日顔を合わせた瞬間から聞きたくてたまらなかったことについて切り出すと、ガスパールは腕で顔を拭う仕草をした。拭こうとしたのだろうが、黒が広がるだけに終わっている。

「ああ、これか。鋼を溶かす器を試作してたんだが……。肝心の黒鉛がなかなか集まらなくてな。いや、決して珍しいもんじゃないはずなんだが、質がいいのが見つからないんだ。これじゃ歩留まりが悪くて仕方がない」

「なるほど……。夏になったらあの工房を稼働させるのは厳しいでしょうし、器の試作の時期にするといいかもしれませんね。材料については、こちらでも心に留めておきます」

 真っ黒になる粉。……粉なのか、ちょっと自信はないが、あれだけガスパールにべったりとまぶされているなら粉状になるものだろう。アルノーは雑に頭の中にメモをした。

 ついでに、ヤンが連れてくる職人たちの受け入れ準備についても手短に打ち合わせる。

 一通り話し終えたところで、アルノーは棚を眺めていたユーグに声をかけた。

「お待たせしました。ガスパールさんとお話をされますか?」

 待ってましたとばかりに、ユーグが小さな鋼のサンプルを手に身を乗り出した。

「ガスパールさん。この鋼で、メスを作っていただけませんか。……今の医術が抱える最大の問題を、この『フォンデュ鋼』なら解決できるかもしれない」

 ユーグの眼差しは真剣そのものだった。ガスパールも、その言葉の重みを感じ取ったのか、じろりとアルノーを振り返る。

「……許可は、どこから取る」

 二人の視線がアルノーに集中した。

「試作も製造も、今は許可できません。ですが、医術という限定的な用途であれば、検討を進める分には構わない、と領主代理には言われています。……ただし、絶対に秘密は守ってくださいね?」

 アルノーの言葉に、職人と専門家は「心得た」と言わんばかりに頷くと、熱く盛り上がり始めた。


   * * *


「ジル、ジュリアン。ちょっといいかな」

 盛り上がる二人を背に、アルノーは護衛の二人に声をかけた。

「父上に、二人には俺の考えたこと、抱えた仕事をちゃんと共有しておけって言われたんだ。……とはいえ、ハサミは売り出すのは止められてるし、ユーグさんはもう来ちゃってるし、検討中になったのは今見てた通り。あとはヤンさんが連れてきてくれる職人の受け入れくらいなんだけど」

 あとなにかあったかな、とアルノーは天井を見つめた。

 ガスパールさんが真っ黒になっていた粉は今はどうしようもないし……護衛にどうにかしてもらう問題でもないと思う。

「……うん、たぶんそれだけかな。二人はずっとついててくれるから、誰と連絡をとっていたとか知ってるだろ?そういうの、心に留めておいてほしいんだ。よろしくね」

「承知しました」

 声を揃えて返答する二人の護衛は、今日も優秀である。


「あ」

 そこで一つ思い出したことがあった。

「仕事じゃないけど、旅に出る必要があるかもしれない」

「は??」

 またも護衛の声が重なったが、アルノーの意識はすでに別の方を向いていた。

 そうだ、本物の聖人探しだ。

 アルノーは、仕事じゃないけど、人生がかかった問題があることを思い出したのだった。

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