二人 -ヒトリ-3
その日から私は流華に付きっきりになった。健に勉強を教えてあげられなくなることは心苦しかったけど仕方がない。そもそも流華をほったらかしにしていた今までがおかしかったのだ。何よりも流華を優先させなければ、私がここにいる意味などないのだから。
殆ど一日中付きっきりの日々が始まって一週間ほど経った頃、学校から帰宅し、いつも通り制服を着替え、郵便物を確認してから流華の部屋へ行った。
いつもならリビングのソファで寝転んでいるところだけどそこに流華の姿はなく明らかに放り投げられた鞄がだらしなく置いてあるだけ。
まだ着替えてるのかな。寝室の扉を見ながらソファに座り、何をするでもなく考えるでもなくぼんやりと時間を過ごす。
だけど三分ほど待っても流華は出てこない。それどころか物音一つしない。
本当にいる? いや、気配はする。
「流華?」
ソファに座ったまま呼び掛けてみるが返事はない。
腰をあげて扉の前に移動し、ドアノブを掴んで少しだけ引いた。隙間から顔を入れて中を覗くとクローゼットの前に下着姿の流華が立っていた。こちらを見ている瞳はどこか不安げに揺れている。
「流華?」
どうしたの、と問う前に流華が口を開く。
「り、莉乃。あのね、中学の時……ーーーーちゅ、中学の時……」
その明らかに混乱している様子、そしてそんな流華の口から『中学』という言葉が出たことで、私の頭には摩耶のことが浮かんだ。
記憶を取り戻した?
「流華、大丈夫?」
この場合はどうすればいい? 全部正直に話した方がいいのか、それともーーーー
「あのね、仲の良かった同級生がいたでしょ?」
同級生?
その言い方に僅かに疑問を覚えて思考が止まった。確かに摩耶は同級生ではあるけど、それ以前に同じ班の一員だから。
「徒花じゃなくて、一般人の」
そう続けられた言葉に安堵の息を漏らしそうになった。なんだ、記憶を取り戻したわけじゃないんだ、と。
「二年生の頃の選択授業で私と同じ美術を選択してて……」
やっぱり違う。摩耶は絵が苦手だったから。私は家庭科だったからよく知らないけど、流華と同じ授業を選んでいて仲の良かった人と言えば……。
「千奈美のこと?」
あの頃はまだ一般人だったしーーーー。
ふと浮かんだ可能性に一瞬頭が真っ白になった。そして我に返ると同時にそれを否定する。
前にも考えたことがあったけど、千奈美の時は私と流華は一緒にいた。摩耶や美織の時と違って、まず不可能だ。
そう結論を出すが、目の前の流華を見ると考えが揺らぎそうになる。
「流華、大丈夫? なんか様子が……」
流華は私の言葉に反応して顔をあげると、パッといつもの笑みを浮かべた。
「あ、ごめんごめん。ちょっと立ちながら寝てた」
それは咄嗟に出た言い訳だったのか、あるいは茶化しただけなのか。しかしどちらにしろ下手な誤魔化しだった。何か隠している? 何を? 千奈美に関すること?
千奈美は美織や摩耶と違って流華と仲違いするようなことはまずなかったと思う。基本的に穏やかな性格だったし、中学に入って初めての友達だったから流華も千奈美のことを気に入ってーーーーでも、忘れていた。これをただのド忘れで済ませていいのだろうか。
「そんなことより莉乃、私の鞄からノートと筆箱持ってきてくれない?」
「ん?」なんでこのタイミングで? そう思いながらも流華のお願いには反射的に頷いてしまう。「うん。でも服着た方がいいよ」
「あとで!」
流華はそう言うと私を急かすようにその場で足踏みをした。それに合わせて揺れている胸を一瞥してから踵を返す。ソファに置いてあった鞄を開けて、筆箱と、適当なノートを取り出した。
寝室のドア枠から顔を出していた流華にそれらを渡すと「覗かないでね」という言葉とともにドアが閉じられた。閉め出されたみたいでなんとなく寂しい気持ちになった。
ドアの前から離れてソファに腰掛け、改めて考える。
流華が千奈美のことを忘れていた。
ド忘れ?
もしかしたらそうかもしれない。少なくとも、千奈美の一回忌の時に流華が何かを忘れていたということはなかったから。
でもあの様子。そしてノートと筆箱。
何を書いているんだろう。わざわざ隠すっていうことは私に見せたくないものだ。だからこそ気になる。
あとで勝手に見てみようか。
でも覗くなって言われたし、相手が流華でも人の物を勝手に見るのはよくないし。
それに、本当に見られたくないものなら流華は絶対見られないようにするだろうから。
不意に寝室のドアが開き、流華が下着姿で出てきた。
「莉乃、私シャワー浴びてくるね!」
「ん」と返したけど聞こえていたかも分からないくらいに素早く廊下へ出ていった。半開きの状態で静止したドアを眺めてから寝室の方へと顔を向ける。半開きどころか全開きのドア。その向こうにはベッドとくしゃくしゃの毛布が見える。
ゆっくりと身体を斜めに倒すとクローゼットが見えた。その前にはノートが投げ捨てられたように置かれている。
廊下を見てからそっと立ち上がって寝室へ入る。ノートの前にしゃがんでパラパラとページを捲ってみたけど授業内容しか書かれていなかった。ここに放置している時点で期待はしていなかったけど。
開けっ放しのクローゼットを閉じて、隣のタンスから下着とパジャマを取り出す。流華は見るからに着替えを忘れていたから。
「多分この時。流華が摩耶と美織のことを思い出したのは」
「そうなんすか……。きっかけはなんだったんすかね。何もなく思い出すとは思えませんし……」
「それは分からないけど、でも、吸収の影響で思い出しやすい状態ではあったのかもしれない」
「なるほど。そういえば流華先輩は記憶のことを書いたメモを隠してたんすよね? どこにあったんすか?」
私がそれを見つけたのは十二月下旬。流華が千奈美のことを聞いてきてから一ヶ月以上が経ったクリスマス翌日のことだった。
「いってらっしゃい」
「いってきまーす。あ、莉乃」
流華はドアノブを掴んだまま私へと振り返る。
「今日くらいは健君の勉強見てあげなよ。最近全然行ってないでしょ」
頷き「連絡してみる」と答えると、流華はにこりと笑い「じゃあまた明日」と小さく手を振りながら部屋を出ていった。
小さな音とともに扉が閉まったのを見て、振り返していた手をゆっくりと降ろす。
流華は私に健の勉強を見るように言うけど無理はしてないだろうか。フラれたと聞いた時は吹っ切っているように感じたけど、あれ以来彼氏を全く作らなくなってしまったことがどうにも気にかかる。もちろん、以前のように取っ替え引っ替えしなくなったことを嬉しくも思ってはいるけど、それでも、タイミング的にどうしても健のことと繋げてしまう。なんとなくだけど、最近は特に無理をしているんじゃないかと思うことが増えた。
でも流華は私に遠回しに何かを伝えることはしないからさっきの言葉も本心は本心なのだろう。
踵を返してリビングへ。テーブルの上に置いていたスマホを手にとって楠家に電話を掛けるとスリーコールほどで繋がった。
「もしもし楠です」
健の声。
「紋水寺です」
「先輩!? お久し振りっす!!」
「うん、久し振り。えっと……たけし」
「タケルっす! ていうか冗談っすよね!? なんか紋水寺先輩が言うとマジっぽいんすけど!」
「今日予定空いてる?」
「振っといて見事なスルーっすね。予定ですか? もしかして勉強教えてくれるんすか?」
「うん」
「マジっすか! すっげー嬉しい……んすけど……、実は今日は午後から良介連れて出掛けることになってて……」
「そうなんだ」
なら仕方がない。
「映画なんすけど、よかったら先輩も一緒にどうっすか? 女の人にも人気ある漫画の映画なんで、楽しめないことはないと思うんすけど……」
映画。隊長に電話すれば一緒に観ることも可能だろうけど、そこまでして観たいとは思わない。でもそれは断る理由にはならなかった。
「じゃあ一緒に行っていい?」
「もちろんっす! じゃあ一時頃俺の家にきてもらっていいすか」
「ん。分かった」
電話を終えて一息吐く。
一時か。昼食の時間を差し引いても少し余裕がある。お風呂掃除でもしようかな。ついでにシャワーも浴びておこう。
そう考えながら脱衣所へ入った時、ふと洗面台に目が止まった。
『そろそろお化粧も覚えたら?』
いつか流華が言っていたことが頭をよぎる。鏡に手を伸ばし、取っ手を掴んで手前に引いた。久し振りに見た鏡裏の棚は思いの外綺麗に整頓されていた。もっとごちゃごちゃしていて、空っぽの容器とかが転がってそうな気がしていたけど。
とはいえ、それにしても色んな化粧用品がある。最初はどれだろう。全部使うのかな、これ。『莉乃もしたら?』って言われたくなくて、化粧中の流華にはあまり近付かないようにしていたからさっぱり分からない。
あ、でもそういえば『化粧水くらい付けたら?』とも言われたことがある。
化粧水……。
棚の中をざっと見てみたけどそれらしき文字は見当たらない。どうやらパッケージにドンと書いてあるようなものではないらしい。適当な瓶を手にとってパッケージの裏を見ていく。日焼け止めクリームやクレンジングオイル、中には、裏を見ても何なのか分からないものもあった。流華はこれを全部使いこなしているのだろうか。すごい。
流れ作業のように次の瓶を手に取って裏側を見る。するとそこには四つ折りにされた小さな紙がテープで貼り付けられていた。
なんだろう。こんなところに貼ってあるってことは、化粧のやりかたのメモとか?
カリカリと爪でテープを剥がしてからメモ紙を開いた。
その瞬間、化粧という未知の世界に触れたことによりどこか浮かれていた私の心は真っ白に塗り潰された。
『摩耶と美織に関する記憶』
その書き出しからメモ紙いっぱいに細かい文字でーーーーどこか他人事のような文章で顛末が記されていた。
どれほど状況が揃っていても推測にしか過ぎなかったことが確信へと変わる。
流華は摩耶と美織をその手で殺した。
一度だけ心臓が大きく跳ねた。でも大丈夫。可能性だけなら考えていたから。
大体、私だって我が儘で五人も殺しているのだ。なのに流華を嫌いになれるわけもないし、責める権利だってありはしない。
流華の行為をなんとか正当化しようとする自分と、それを許さない自分がいる。
流華は悪くない、とは言わない。でも、流華一人が全部悪いとは思いたくない。
でも、さっき考えたように我が儘で人を殺したのは私も同じで、流華に対する気持ちを私に当て嵌めるとまるで言い訳のようになってしまう。
そしてそれらを分けて考えられるほど私の頭は都合よくできていなかった。
結果、頭の中で肯定と否定が延々と繰り返され、ポケットの中でスマホが振動するまでそれは続いた。
半分ほどぼんやりしながらもスマホを取り出すと『楠家』からの着信。なんだろうと首を捻ったが、画面端に表示されている時間が目に入った瞬間、慌てて着信に応じた。
「もしもしっ」
『あ、紋水寺先輩』
「ごめん、今から向かう。あ、映画の時間ーーーー」
『大分余裕あるんで大丈夫っす。急がなくていいっすからね』
と言ってくれたもののそういうわけにはいかない。メモを元の場所に戻し、自室に行って着替えを済ませる。マンションを飛び出してしばらく(人並みの速度で)走ったところでタクシーを捕まえて一息ついた。
健と良介君には申し訳ないことをしてしまった。受験生の健にとっては貴重な自由時間、そして良介君にとってはそんな兄と遊べる少ない機会だろうに。
でもタクシーに揺られているうちにその罪悪感は隅へと追いやられ、代わりに脳内を占領したのは洗面所で見つけたメモのこと。しかし先程までと違い、流華の行ったことに肯定と否定を繰り返しはしなかった。一度別のことに思考が向いたおかげで冷静になれたのかもしれない。
代わりに浮かんだのは一つの疑問。
流華は何故あんなメモを残しているのか。
通常、メモとは対象となる物事を忘れないよう、あるいは忘れてしまっても思い出せるようにするためのものーーーーだけど、それに流華は当てはまるのだろうか。摩耶と美織に関する記憶はメモなどしなくても忘れられるようなものではない筈。それとも流華にとってはそうじゃないのだろうか。そんなわけがない。それならそもそもメモをする必要すらないのだから。
流華は失っていた記憶を取り戻した。そしてそれをメモに記した。頭の中を整理するため? 違う。それならメモを残す必要がない。
メモを残している。私の目に触れない場所に。それはどう考えても自らに向けられたものだ。でもそれだけであの隠し場所を選んだのだろうか。基本的に私があそこを開けることはないとはいえ、隠すだけなら他に適している場所はいくらでも思い浮かぶ。逆に、それらの場所になくて洗面棚にある利点はーーーー
「お客さん、この辺りじゃないですかね」
その声に顔をあげると遠くに健と良介君の姿が見えた。
「あの二人のところまで」
今日は来るべきじゃなかったかもしれない。不意にそう思った。映画にせよ何にせよ、何かを楽しむという気持ちにはとてもじゃないけどなれない。でも今更帰るわけにはいかないし、せめて二人に気を遣わせないようにしないと。
遅刻した私を健と良介君は笑顔で出迎えてくれた。私も「ごめん」と謝ってから笑みを作った。
「じゃあ行きますか」
健がそう言うと良介君が「おー」と両手を高く上げた。今日も元気だなぁ、と思いながら見ていると不意に目が合う。何かを訴えるような目だ。施設の子達にも同じ目を向けられた覚えがある。
こういうことかな、と右手を握ると、正解だったらしくこちらに笑顔を向けてから前に向き直り歩き出した。その小さな歩幅に合わせてゆっくりと足を前に出す。いつの間にか反対の手を繋いでいる健はそんなスピードにも慣れているらしく、特に意識する様子もなく歩いている。
少し歩いたけど健も良介君も一向に口を開かない。普段ならそれでも構わないのだけど、流華のことに意識が向いてしまいそうだから今日だけは何か会話をしたいところだ。
隣を見ると良介君は映画に向けて早くも興奮気味なのかふんふんと鼻息を荒くしている。その隣の健は柔らかい表情で前を見ていた。
確かに、今の雰囲気は私にとっても好ましいものだった。きっとメモのことがなければ無言のまま歩き続けていたことだろう。
そう考えている時、良介君と繋いでいる左手が少し引っ張られたかと思うと何かが微かに触れた。視線を斜め下に下げると、そこには私の手に鼻先を近付けている良介君の姿。
「良介、なにしてんだ?」
笑い混じりの呆れた声。
「うらやま……失礼だろ」
裏山?
一方、良介君は注意を気にもせず、すんすんと鼻を鳴らしている。
「いいにおいする」
「え?」
「なんだ、今更気付いたのか」
「えっ」
そんなに匂ってたかな。でも何の匂いだろう。食器用洗剤?
腰を屈めて左手を嗅いでみると、なるほど、確かに良い匂いがした。これはーーーー
「流華の化粧品の匂い」
「えっ、紋水寺先輩、今日化粧してるんすか!?」
「ううん、してない」
「そ、そっすか……」
何故かガッカリした様子の健。男の人はみんな素っぴんが好きって流華が言っていたけど健は違うのかもしれない。
それからもぽつぽつと話しながら歩き、駅に到着。ちょうどよくきていた電車に乗り、シート席に並んで腰掛ける。休日ということもあって車内はそれなりに混雑していて、あちこちから視線を感じた。でもスマホを向けられることがないだけ有り難い。
顔を隠せるものーーーー帽子とかを持ってくるべきだった。普段はあまり変装なんかしないけど、こういうところを撮られたら健にも迷惑がかかるかもしれないし。あ、前髪垂らしたら顔見えないかも。余計に目立ちそうだけど。
そんなことを考えていたためか、無意識に右手を上げて前髪に触れていた。眼前の手から化粧品の匂いが漂ってくる。
化粧品の置いてある洗面棚にメモを隠す利点。
私に気付かれにくく、なおかつ流華なら毎日必ず見る場所であること。
つまり流華はあのメモを毎日見なければならない状態。
それはどういうことか。
『それで今度は記憶を保持できる時間が少しずつ短くなっていってる。今は朝に起きたら前の日のことを全部忘れてるような感じ』
沙良さんの言葉。全ての記憶と一部の記憶という違いはあるものの、私に見付かるリスクを冒してまでメモを残す理由はそれくらいしか思い付かない。
流華は記憶を取り戻しては失うことを繰り返している。それもかなり短い間隔で。
それは心にとても大きな負担を掛ける行為ではないだろうか。
いや、きっと流華だってそんなことは分かっている。それでもなお、消していた記憶と向き合おうとしているのだ。
そのことに対して、嬉々たる想いが心に咲いた。そしてそれと同じだけの不安も。
でもきっと私は何もしない。
自分のことなのにまるで他人事のようにそう思った。
流華がそうしたいというのなら、私はそれを叶えるだけ。今回の場合、私に出来ることは何も知らない振りくらいだから。
私の全ては流華のために。
この気持ちは十年以上前から変わっていない。
変わっていない? 本当に?
流華のためを思うなら、こうして健と会うのはやめるべきだ。健に告白を断られて以来、流華は彼氏を作っていない。以前助けたイケメンさんと付き合うかもと思ったけどそんな様子もない。
きっとまだ引き摺っているんだ。平気な振りをしているだけで。
そうかもしれないと思うことはあった。いつもの流華なら私が健と会おうが会うまいがどうでもいいと思うだろうに、ことあるごとに『会いに行け』と言ってくるのはそんな気持ちの裏返しなんじゃないかと。
でも私は人の心に疎いから勘違いだと思ってーーーー。
違う。気付いていない振りをしただけだ。
どうして? どうしてだろう。
そうだ。約束したから。勉強をみてあげるって。
約束は守らなくちゃいけない。
不意に手に触れた温かく柔らかな感触で我に返った。
隣を見ると私の右手と良介君の左手が繋がれていた。しかし本人は外の景色に夢中らしく、それを気にしている様子はない。無意識の行動なのだろう。
私もつられて車窓に目を向けた。見慣れた、とは言わないが、見覚えのある景色が流れていく。
勉強を見ると約束した。でも今回のコレは、その約束外のことじゃないだろうか。
流華が知ったらどう思うだろう。やっぱり嫌なのかな。
「先輩?」
返事代わりに顔を向けると、どこか心配そうな顔の健と目があった。
「大丈夫っすか?」
「ん、何が?」
「いや、なんとなくっすけど……」
勘の鋭さに内心驚きながらも「大丈夫」と返した。
でも、そこからの道中、ことあるごとに流華のことで考え込んでしまい、その度に健は電車内と同じ表情で私を見た。




