唐突だけど、今日は「あの日」のことを書こうと思う
唐突だけど、今日は「あの日」のことを書こうと思う。
本当は書くべきではないかもしれないし、最後まで書ききれるかも分からない。けれど、もう書かずにはいられないと思うのだ。あの日、自分がしたことの正しさを信じているけれども、ときどき押し寄せてくる罪悪感は胸が苦しくなるほどだ。
たまにふと夜風を感じたくなることがある。
あの日もたまたまそんな気分だった。
冬なのに物好きだな、と同室の出羽シキトは呆れていたけれど、もしかするとおれの中には彼の気配から束の間解放されたいという隠れた欲求があったのかもしれない。シキトのことは嫌いでないし、色々世話になっている部分もあるし、むしろ好きだ。けれどそんな気持ちとは関係なく、一人きりになりたくなるときはあるのは仕方がないことだと思う。全寮制のこの学校で、本当に一人きりになれる機会は滅多にないのだから。
コートを着て外に出ると、空には丸い月が出ていた。むき出しの頬にぶつかる風は思いのほか優しくて、辺りはもうすぐやってくる春の気配に満ちていた。
息を吸う。吐く。気持ちがいい。
誰もいない校庭を歩く。
数カ月前のあのとき、おれはいまより自由だった気がする。傘師であり続けなければならないという運命は口を開けて待っていたけれど、心は何にも囚われていなかった。それはこの短期間で劇的に変化したわけではないけれど、あの頃よりなんだか疲れてしまった気がする。時間が経つということは、自分の中の何かがすり減ってしまうということなのだろうか?
校門を抜け、さてこれからどちらに歩こうかと考えていると、ヨロヨロとこちらに向かって歩いてくる人影に気付いた。こんな時間にここを歩いているのは、不良の生徒か、任務終わりの生徒しかいない。はち合わせると、そのどちらでもないおれは不審に思われてしまう。
それでも身を隠さなかったのは、その影に何か異常なものを感じ取ったからだった。あるいは慄いて身を隠せなかった、と表すのが正しいのかもしれない。それくらいただならぬ気配をまとった何かがこちらに近づきつつあった。おれはその場に立ち尽くし、人影が近付いてくるのを映画でも見るような気持ちで眺めていた。現実味が伴わず、恐怖すらなりを潜めている。
やがて現れたその人物は、予期に反して華奢な女子生徒だった。パーマのかかった肩までの髪。アーモンド形の愛らしい目。愛嬌のある鼻と唇の形。
ミナミさんだった。
どうしてミナミさんがと思いながら近付くと、なんと彼女はぼろぼろと泣いていた。月のささやかな光がその頬を仄かに輝かせている。瞳は靄がかかったようにぼうっとしていて、おれという目の前の人間に気付いているのかも定かでない。
「どうしたの?」
おそるおそる彼女の肩を叩くと、その体は崩れるようにおれの腕に収まった。思っていたよりずっと細く柔らかく、その感触に不覚にもどぎまぎしてしまう自分がいた。と同時に、誰もいない暗がりで女の子を抱いているという状況に後ろめたさも感じる。
ひとまず女子寮の前まで送り届けようと思ったけど、茫然自失のミナミさんが自分の部屋まで無事に戻れるか気がかりだった。腕から伝わる心もとない感触から、支えを失った途端にその場に倒れこんでしまうことは容易に想像できた。翌朝、冷え切った廊下で冷たくなっていた、なんてことがあっては困る。かといって夜の女子寮の中まで送り届けるなんてできない。
さて、どうしよう。
けれど、答えはすぐに見つかった。
おれとシキトの部屋に連れて行こう。シキトとミナミさんは幼なじみだし、そのときはそれ以上の関係のはずだと思っていた。
最善案には間違いないけれど、男子寮に女子を連れ込んでいる現場を見られるのもまずいことに変わりはない。妙な噂が流れることは避けなければならない。誰にも見られないように細心の注意を払って人目を確認し、盗人のようにひっそりと寮内へ入った。階段を上っているその間も、ミナミさんの体はぐったりと力なくおれに委ねられていた。もし変な奴に掴まっていたら、何をされていたか分かったものじゃなかっただろう。そんな奴がうちの学校にいるなんて思っちゃいないけど。
幸運にも部屋に着くまで誰ともすれ違わなかった。部屋を出た頃は寒さに白い息を吐いていたのに、人ひとり運ぶという重労働をするとコートの存在が煩わしいとさえ思えてきた。暗い階段。満月。女の子。ときどきどこかの部屋から聞こえる下品な笑い声が、非現実的な緊張感と現実的な徒労感の間で心の針を振れさせた。
部屋に入ってきたミナミさんを見たシキトは当然驚いた。おれがシキトだったとしても、この意外な組み合わせが連れ立って現れた経緯が読めなかっただろう。おれは手短にミナミさんと出会ったいきさつを伝えて彼女を委ねた(そもそもが急な話だから、そう言葉を重ねなくても事態は説明できた)。おれは話す間中、ミナミさんを抱きよせるシキトの手つきがおれよりずっと落ち着いている様を眺めていた。いつもこんな風に彼女に触れているのだな、と友の新たな一面を発見する。
二人の邪魔をするのも気が引けるから、ホールで寝るね。
そう伝え、おれはさっさと部屋を出た。シキトはこの申し出を固辞したけど、最終的には押し切ってその場を後にした。おれはどこでも寝られる性質だから、そんなに気にしなくてもいいのに。ミナミさんのことが気がかりだったけど、おれがいるより二人きりの方が彼女も落ち着くだろう。
そのまま各階にひとつあるホールに向かうと、暖房をつけてソファに寝転んだ。コートを体に掛けると即席ベッドの完成だ。この場所は生徒たちの団らんに使われることが多いけど、同室の生徒とけんかした際の逃げ場としても用いられる(団らんのらんの字なんてもちろん書ない)。だからこの空間で夜を明かすことは、呆れられこそすれ咎められることではなかった。
おれはそのままぐっすり眠った。あんなことがあった後でと自分の図太さに半ば呆れるが、起きたとき、どうして自分のベッドにいないのか束の間思い出せないくらい熟睡した。ソファの固さは寝るのに全く支障がなかった。いままでここで夜を明かした生徒たちの体重が、ほどよい固さにしてくれたのかもしれない。
眼鏡をかけて寝起きのぼんやりした頭でソファに腰掛けていると、絶妙なタイミングでシキトが現れた。同室になって二年近く経つから、おれの起き出す時間なんて把握されているというわけだ。彼はたった一晩でひどく疲れてしまったようだった。「ミナミさんは大丈夫?」と尋ねると、「コーヒーを淹れてくる」という答えになっていない返事が返ってきた。彼のやりたいようにやらせればいいと思い、給湯室に向かう背中を見送っておれは部屋に戻った。その日は日曜だったから寮の廊下にはまだ人影がなくて、雰囲気もどこか弛緩していた。
部屋に戻ると、朝日が床にぺたりと座り込んでいるミナミさんを照らしていた。部屋は心なしか冷えているように思え、ホールの暖房がいい仕事をしていたことに思い至る。彼女の様子は昨夜とちっとも変ってなかった。起きているのか寝ているのかも判然としない、まさに心を病んだ人の顔をしている。
このままじゃ、彼女はだめになってしまう。
おれにそれを防ぐことができたら?
ミナミさんを助けたい。おれみたいに声を失ったりして欲しくない。
できるかは分からないけれど、速やかに行うべきだ。
とにかく、シキトに見つからない内に。
おれは座りこんだ彼女の頭を掴むと、半ば強引に床に引き倒した。突然の暴力的行為にも彼女の表情に変化はない。おれは左手で彼女の目を覆うと、頭にあるいくつかのポイントを探るために右手で彼女の髪をまさぐった。仄かに甘い匂いがした。もしかするとシャワーを浴びたのかもしれない。
素早く数回確認すると、右手の指先に力を込める。ミナミさんは痛そうに目を閉じた。けれど声は出さない。その事実がさらにおれの指先に力を込めさせる。
すると、
だめだ。
やっぱりこれ以上は書けそうにない。いまはまだ。




