19
イヴは確かめるように自分の指を握った。
これは夢だろうか。今目の前に彼がいるというのが、とても信じられなかった。
しかし握った指は確かに感覚も感触も正常で、靴擦れはじんじんと痛む。紛れもない現実だった。
扉の傍で動けずにいると、くすりと笑う気配がして、クリスの手が差し出される。
「お手をどうぞ、レディ」
紳士然とした振舞いに眉を寄せる事さえできず、イヴはいわば条件反射で彼の手に自分の手のひらを乗せた。クリスはその手を優しく握り、彼女をホールへと招き入れる。
静寂が包むホールに、イヴとクリスの靴音だけが響く。誰も招待客などいないというのに、夜だという事を忘れるほど明るく煌びやかだ。
三人には広すぎるホールの中央に佇むアルフレッドは、ただ彼女が傍へ来るのを待っていた。
クリスにエスコートされるまま、イヴは彼に歩み寄る。その間、アルフレッドから視線をそらせなかった。
普通の速度で歩いているはずなのに、何故か時間の流れがとてもゆっくりに感じる。
ようやく彼の前まで辿り着くと、クリスの手が離れた。視線をそらす事ができないまま彼を見つめるイヴに、今度はアルフレッドの手が差し出される。
「レディ・イヴ、私と踊ってくださいませんか」
朗らかな笑みに、ぎゅうっと胸が苦しくなった。どういった感情が働いてそうなるのかもわからない。ただ、苦しい。
イヴは誘われるように彼の手を取った。すると、アルフレッドは嬉しそうに頬を綻ばせる。
「ありがとう、イヴ」
彼のその言葉が合図であったかのように、静かな空間にバイオリンの音が響き始めた。
驚いて視線を走らせると、本来楽隊が楽器を奏でる場所でクリスが一人バイオリンを演奏している。今夜の舞踏会で一度クリスと踊った曲だ。
彼が楽器を嗜む姿など初めて見るイヴは一瞬意識が完全にそちらへ行きかけるが、アルフレッドの手が腰に回された事で一気に引き戻される。慌てて捕まるように彼の肩に手を置くと、小さく笑みが降ってきた。
――夢から覚めたんじゃなかったの?
イヴは思わず心中で問いかけた。
アルフレッドが着ているのは普段のラフなものではなく、どこか見覚えのある夜会服だ。恐らく以前クリスが着たものを借りたのだろう。側近であるイヴが、アルフレッドが持っているものを見間違えるはずがない。髪もいつもと違って整えられているし、今からでも夜会に出席できそうである。
そんな彼と自分が踊っている事が信じられない。
九年だ。イヴが令嬢ではなく騎士として生きると決めて、九年が経った。
それなのに華やかな衣装に身を包み、愛しい彼と光に包まれて踊っている。まさに夢のようだ。
「イヴ」
夢から覚ますように、アルフレッドが名前を呼んだ。
目線を上げると、どこかぎこちない笑みを浮かべる彼と目が合う。
「足は平気か?」
「……うん、大丈夫」
そういえば彼と気まずい別れ方をしていた事を、今更ながらに思い出した。
落としそうになる視線を固定して、イヴはアルフレッドを見つめる。
「……アルフレッドこそ、腕は?」
「ああ、問題ない。まだ完治とは言えないが、軽く木登りができるくらいには治ったぞ」
「……まさか、キャドバリー伯爵の木に登ってた……?」
僅かに眉を顰めるイヴに、アルフレッドは「やっぱりバレてたか」と苦笑した。
誰かが潜んでいるとは思っていたが、どこかの家が雇った護衛である可能性もある為に、剣を持たない今は何もなければ放っておこうと思っていた。それが自分の主人だなんて誰が考えるだろう。
完治していない内から木に登るなんて。視線だけで非難すると、それでも彼はどこか楽しそうに笑う。
「済まない、お前を一目見たかったんだ。見たら帰るつもりだったんだが、どうせならとクリスが提案してくれてな……折角だから甘える事にした。こんなに綺麗なお前を間近で見られるなんて……、抜け出してきた甲斐があった」
細められた眼差しのぬくもりに、イヴの胸が小さく音を立てた。彼の仕種一つ、言葉一つに、仕舞ったはずの恋情が敏感に反応して熱を走らせる。
綺麗だと想い人に言われて、喜ばない令嬢がどこにいようか。
――やっぱり、こんな格好をしているから。
騎士のイヴならば、素知らぬ顔をしていられただろう。ただのお世辞だと割り切り、ありふれたお礼の言葉を返せたはずだ。
しかし今のイヴにはそれができず、情けなくも喜ぶ自分を隠したくて僅かに俯いた。
「……やっと」
耳に届いたのは、搾り出したような呟き。
「やっと、約束を果たせた」
喜びの色を乗せた彼の声に、先程よりも強く胸が揺さぶられた。
アルフレッドは覚えていてくれたのだ。あの――一緒に踊るという約束を。
残念ながらイヴの一番最初の相手ではないが、少しだけ形が変わってしまってももういい。覚えてくれていたという事実だけで充分だった。
再び顔を上げたイヴを、アルフレッドはまっすぐに見つめる。銀色の瞳を見つめ返せば、彼は真剣な表情で彼女の名前を呼んだ。
「俺は……ずっとお前に謝らなければならないと思っていた」
突然のその言葉に、アイスグリーンの瞳が見開く。ステップを踏む足が止まりそうになった。
けれどアルフレッドは彼女をしっかりと見つめたまま、イヴをうまくリードする。曲はもう終盤だ。
「だがお前はそれを望まない。それくらい、俺にだってわかる。だから、礼を言おうと思うんだ」
「何を……」
「イヴ、俺と一緒にいてくれてありがとう。あの日も、お前がいなければもっと酷い事態になっていたかもしれない。助けてくれてありがとう」
噛み締めるように紡がれる言葉に、イヴは動揺を隠せない。
どうして今そんな事を言うのか。わからない――いや、わかりたくなかった。
体が強張る。彼の手を握る力が強まる。
イヴは怖くなった。聞いてしまえば、この夢のような時間も、大切な彼との繋がりも……全てが終わってしまうような気がして。
しかしアルフレッドはそんなイヴから視線を少しもそらさず、もう一度意識を引き付けるようにイヴを呼んだ。
「今まで俺を守ってくれて、ありがとう」
優美なバイオリンの音が止み、曲が終わった。
イヴは暗闇に放り出された子供のような気持ちになってアルフレッドを見つめた。彼の言葉が、過去を清算しようとしているようにしか思えなかった。
――そんな事、言わないで。
これからがないみたいに言わないで。
アルに突き放されたら、いらないと言われたら、私は……!
「お前にはとても感謝している。感謝しきれない程だ。だが……」
「――やめて!」
思わずアルフレッドの言葉を遮った。静かなダンスホールに高い声が響く。
気がつけば、彼が瞠目するのも構わず一歩アルフレッドから身を引いていた。
「イヴ?」
訝る声が胸に刺さる。
彼を見つめる勇気はもはやなかった。
「やめて、何も言わないで」
微かな震えを誤魔化すように、手を胸の前でぎゅっと握り締める。
こうでもしないと、今すぐにでも小娘のように泣き叫びそうだ。
カツンと靴音がして、アルフレッドが距離をつめた。
「イヴ、頼む、聞いてくれ」
「っ嫌! 聞きたくない!」
懇願するような響きを持った彼の声に首を振る。泣き叫ばずともその様は駄々をこねる小娘のようだと、頭の中で誰かが詰った。
それでもイヴは逃れるようにまた一歩下がった。いつもの無表情は剥がれ落ち、乱れた感情を取り繕う事もできない。
騎士の鎧がないイヴなど、ただの小娘だ。脆弱で、我儘で、傲慢で、未練がましい恋情に身を焦がす、ただの女。
「お願い、何も言わないで」
「イヴ……」
「もっと強くなるから、誰にも負けないくらい強くなるから……もう、誰にもアルを傷つけさせないから……っ」
体が震える。声が震える。
二度と彼に会えなくなっても構わないと思っていた。騎士として国を、彼を支えられるのなら、遠目からでも確実に彼を見られる令嬢としての自分など捨てても平気だった。
それなのに、イヴはアルフレッドの側近になった。
三年という月日は、鍵をかけて封じ込めた恋心を収まりきらないほど膨らませるには充分すぎた。
「お願い……アルの傍にいさせて……」
鍵が壊れた古びた箱から、膨らみすぎた恋情が止め処なく溢れる。
こみ上げる熱は目頭を熱くして、視界が涙で滲み始めた。
もうみっともなくても、情けなくてもいい。アルフレッドの傍にいられるなら、何だってよかった。
突然、イヴは強い力に引き寄せられた。
反射的に強張る体を閉じ込めるのは、太く逞しい腕。イヴの頭を自分の胸に押し付けるようにして、アルフレッドが優しく、けれど強く抱きしめる。
「――イヴ、好きだ」
耳元に降ってくる掠れた声に、一瞬頭の中が真っ白になった。
何を言われたのかわからず、言葉にならない呟きが零れ落ちる。
アルフレッドはイヴを抱く力を僅かに強めた。
「好きだ、イヴ。ずっと、ずっとお前が好きなんだ」
「っ」
「九年前からずっと……お前を愛してる」
どくんと強く鼓動が響いて、思わず息を飲む。それを感じ取ったかのように、アルフレッドの腕の力が緩んだ。
引き寄せられるように顔を上げれば、彼は眩しそうに目を細める。
「だから、俺にもお前を守らせてほしい」
「アル……」
今夜は信じられない事ばかりが起きる。しかし嘘だと思えるほど、イヴは無知な小娘でもなかった。
彼の気持ちは、彼の慈しむような眼差しがわかりやすく教えてくれる。
アルフレッドはイヴを離すと、彼女の前に跪いた。立ち尽くすイヴの手を両手で握り、まっすぐに彼女を見つめ、視線を絡める。
「俺は王族としても男としても、まだまだ未熟だ。これからも間違いを犯すかもしれないし、お前を傷つけてしまうかもしれない。でも誓うよ。何度約束を違えても……あの夜、お前を守りたいと思ったこの心に偽りはないと」
静かな彼の声が胸を震わせる。
涙を堪えようと眉を微かに寄せると、イヴの手を握るアルフレッドの手に力がこもった。
「王族の俺は、またお前を苦しめてしまうかもしれない。それでも俺の傍にいてほしい。お前の笑顔も涙も、一番近くで見守らせてほしい。きっと、今度は守ってみせるから」
澄んだ銀の瞳がイヴを射抜いた。
「イヴ・べレスフォード嬢。これからの道を、どうか私と共に歩んでください」
じんと胸が熱くなる。
イヴはぎゅっと彼の手を握り返し、アルフレッドと目線をあわせるように膝を床についた。そしてこの嬉しさが少しでも多く伝わるように、ふわりと綻ぶように微笑んだ。
「はい、アルフレッド殿下」
アルフレッドの顔に笑みが浮かぶ。
小さなイヴの手に額を当てて、「ありがとう」と紡ぐアルフレッドに愛しさが募った。
*
きらきらと木漏れ日が差す廊下を、女が一人凛と歩く。
擦れ違う衛兵達は皆、朗らかに笑みを浮かべて彼女に声をかける。
「おはようございます、イヴ殿!」
「おはよう」
やはり表情を変える事無く挨拶を交わしたイヴは、まっすぐに執務室へと向かった。
彼女の短く整えられた金の髪が、光に透けて白く輝く。少しだけ伸びた髪の下からは、白い首筋と共に青いチョーカーが覗いていた。
執務室の前まで来ると、楽しげな話し声が聞こえてイヴはつい溜息を吐く。また彼が遊びに来ているらしい。
呆れた心持でノックをし、静かに扉を開いた。
「失礼致します」
「おっ、来た来た。おはようイヴ嬢!」
上機嫌に片手を上げて笑うのは、予想通りソファに腰掛けたクリスだ。
イヴはさして気にした様子も見せず「おはよう」と返すと、主人のもとへと向かう。椅子にもたれかかって天井を仰いでいるアルフレッドは、両腕で顔を隠してはいるが完全には隠し切れず、その顔が僅かに赤らんでいるのは充分わかった。
「クリス、またアルをからかってたの?」
「だって面白いんだから仕方ない」
「うるさいぞ、クリス」
茶目っ気たっぷりに笑うクリスと唸るアルフレッドに、イヴはもう一度溜息を吐いた。
クリスはここ数日、イヴとの仲についてアルフレッドをからかうのがブームだ。特にベイリアル家での告白を再現するのがお気に入りらしく、からかわれる度にアルフレッドは真っ赤になってやめるよう怒鳴るが結局根負けする。
クリスの前であんな事をすればこうなる事は目に見えていたというのに、ついでに言えば彼の矛先がポーカーフェイスのイヴではなくアルフレッドに向くのも明らかだったというのに。
イヴは持ってきた書類を机に置き、呆れたと言わんばかりに腰に手を当てる。
「今からそんな調子でどうするの。ルイス兄様を説得するんでしょ?」
「そうだよアル。シスコン伯爵は手強いぞー」
「そんな事はわかってる」
楽しげに笑うクリスに、アルフレッドはようやく腕をどけた。不貞腐れたような顔をして、机に頬杖をつく。
子供のような彼を見下ろし、イヴは肩を竦めた。
「別に諦めてもいいんだよ。父様達は許してくれたし、陛下も許可してくださったんだから」
想いを告げた夜の翌日、イヴは王城に戻った。もちろん、アルフレッドの側近として。
そしてアルフレッドと二人で国王に全てを話し、二人の恋人としての関係を認めてもらった。正式な発表はイヴの後任が決まってからになるが、イヴは今やアルフレッドの婚約者である。
クリスやベイリアル侯爵はもちろんの事、城にいる誰もが祝福してくれた。ただ一人、ルイスを除いて。
国王が許可し、王子からの正式な申し出を受けた今、断る術などルイスは持たないが、それでも愛してやまないイヴを嫁に出すのは納得できないらしい。イヴは最初から説得など諦めている。
しかしアルフレッドは「いや」と首を振り、不敵に笑ってすらみせた。
「必ず納得させてみせるさ。イヴは俺のものだって」
「……私はものじゃないんだけど」
「じゃあ猫だな。首輪もついてるし」
くつくつと笑って、アルフレッドはイヴの首につけられたチョーカーを大切そうに見つめた。
首輪じゃない、とイヴは反論しようとして、やめた。
あの青いリボンの代わりにと指輪やネックレスなど装飾品を贈ろうとするアルフレッドを、動く時に邪魔になるようなものはいらないと切り捨てたのはイヴである。恐らくこのチョーカーは妥協案だったのだろう。
溜息を吐き出し、無防備な彼の頬に口付けた。
「早く仕事進めないと、手を噛みますよ。ご主人様」
アルフレッドはほんのりと赤らむ頬を押さえて瞠目する。
クリスの賑やかな笑い声が聞こえる中、イヴも小さく笑った。
五大陸の一つ、セレス大陸の西にある王国・アイクレス。
華やかな都は海を臨み、その都を展望するは美しい王城・イオーラ。
――そこで綴られる王子と側近の物語は、これにておしまい。
〈完〉