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プロローグ

雨が降り始めた頃、彼はようやく悟った。

 もう、逃げ場はどこにもない。


 森が破壊される音が、刻一刻と近づいてくる。遠くで木々が一本、また一本と地面に倒れ、そのたびに足元の大地が震えた。


 彼は隣にいる若い女性へ目を向けた。

 長い赤髪は雨に濡れ、青白い顔と、繊細な先端を持つ長い耳に張りついている。紺色のドレスもすっかり濡れ、その華奢な身体は、息を整えようとするだけで立っているのがやっとだった。


「僕を信じて」

 彼女が彼を見上げる。

「何をするつもり?」


 また何かが倒れる音。

 今度は、さらに近い。


 彼は手を開いた。

 掌には、金の首飾りにつながれた赤い宝石があった。その表面には、細い亀裂が一本走っている。

 本当にうまくいくのか、彼自身にもわからなかった。

 だが、脅威がすぐそこまで迫っている今、思いついた唯一の方法に賭けるしかない。


 彼は彼女の手を取り、その手を宝石の上に重ねた。


「君の魔法が必要なんだ」

 彼女はためらった。

「私にできるかどうか……」

「ただ、僕を信じてほしい」


 数秒のあいだ、彼女は動かなかった。

 やがて、静かに目を閉じる。

 指の隙間から、淡い光がこぼれた。


 トンネルの壁に刻まれたルーンが、一つ、また一つと呼応し始める。やがて数十ものルーンが、二人を取り囲むように輝きを放った。

 古代の文字を伝い、まるで油の上を走る炎のように光が駆け巡る。


 空気が重くなる。

 二人の手の間で、赤い宝石が脈打ち始めた。


 彼女の魔力が自分の中へ流れ込んでくるのを、彼は感じた。

 大地、水、炎、そして風。

 四つの力が同時に現れ、一つの流れの中で共存する。

 彼はその力を必死に制御し、ただ一つの目的へと導こうとした。


 ――彼女を守る。

 考えられるのは、それだけだった。

 代償も、その先に待つ結果も、どうでもよかった。

 あの瞬間、彼が望んでいたのは、ただ彼女を守ることだけだった。


 宝石に亀裂が走る。


「待って――」

 次の瞬間、凄まじい光が二人の前で弾け、トンネル全体を眩い輝きで満たした。

 エネルギーは周囲のルーンを駆け抜け、一瞬だけ、その力がこの場所を遥かに越えて広がっていくように見えた。


 衝撃で二人は地面へ投げ出された。

 数秒のあいだ、彼の耳には激しい耳鳴りしか聞こえなかった。

 そして――静寂。


 彼は目を開けた。

「……成功したの?」

 彼女が尋ねた。


 彼はすぐさま立ち上がり、外へ飛び出した。

 辺りを見回す。

 雨はまだ降っている。

 木々もまだ風に揺れている。

 何も変わっていない。

 胸の奥が沈んだ。


「そんな……」

 轟音が彼の言葉を遮った。

 今度は、あまりにも近い。

 木々の隙間を、闇が迫ってくる。


 彼女が彼の後ろから姿を現した。

「来た……」


 男が影の中から姿を現した。

 ――いや。

 そこにいたのは、もはや男だったものの残骸だった。

 黒い稲妻がその身体を駆け巡り、腕から周囲の木々へと飛び散っている。

 その瞳もまた、周囲の空気さえ歪ませる同じ力に呑み込まれていた。


 彼女が一歩、前へ出る。

「お父さん……」


 怪物が手を上げた。

 青年は即座に彼女の前へ出る。

 もう逃げ場はない。

 敵の掌に、闇の力が集まっていく。


 一瞬。

 すべての音が消えた。

 そして、攻撃が放たれた。


 轟音とともに、森全体が揺れた。

 闇の力は、二人の目の前で止まっていた。

 動かない。

 見えない何かに阻まれている。


「何だ……?」

 敵が再び攻撃を放つ。

 同じ場所に激突した。

 衝撃が空気を波打たせ、その一瞬だけ、巨大な半透明の障壁が弧を描いて姿を現した。


 彼女はゆっくりと障壁へ歩き出した。

「待って!」

 だが、彼女は止まらない。

 手を伸ばす。

 指先が、目の前にある見えない表面に触れた。


 その向こう側では、闇に呑まれた男が突進し、障壁へ激しく身体を叩きつける。

「お父さん……」

 男は何度も、何度も攻撃を繰り返した。

 それでも、障壁を破ることはできない。


 青年は手の中の宝石へ目を落とした。

 亀裂が大きくなっている。

 そして彼の目の前で、宝石は二つに割れた。


「お父さん!」

 彼女が叫んだ。

 必死に男のもとへ向かおうとする。

 しかし、その身体は同じ見えない力に阻まれた。

 彼女は障壁に両手を押しつけ、なんとか向こう側へ渡ろうとする。

 その間も、男は反対側から障壁を叩き続けていた。


 青年は、ただ立ち尽くしていた。

 やがて、攻撃によって生まれていた波紋がゆっくりと消えていく。

 再びそこに見えるのは、空と、森と、雨だけだった。

 まるで、最初から何も存在していなかったかのように。


 だが――

 確かに、そこにある。


 そしてそのとき初めて、彼は気づいた。

 自分が作り出したものは、もしかすると「守るためのもの」だけではなかったのかもしれない。

 ――牢獄。

本作の表紙イラストはこちらです!


挿絵(By みてみん)


表紙イラスト:Einzo 様


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

楽しんでいただけたら嬉しいです。

それでは、また次のエピソードでお会いしましょう!

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