記憶のない朝
目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
「……ここ、どこ?」
声に出した瞬間、自分の声なのに少しだけ違和感を覚えた。
知らない天井。
知らない匂い。
規則正しく聞こえる電子音。
そして、腕に刺さった点滴。
「……病院?」
ゆっくりと上半身を起こす。
頭が重い。
まるで頭蓋骨の内側に、濃い霧が溜まっているようだった。
何かを思い出そうとする。
自分は誰なのか。
ここに来る前に何をしていたのか。
家族はいるのか。
友達はいるのか。
学校に通っているのか。
仕事をしているのか。
何一つ浮かんでこない。
「……あれ?」
私は自分の胸に手を当てた。
心臓は普通に動いている。
呼吸もできる。
日本語も話せる。
文字も読める。
数字も分かる。
テレビに映っているニュースの内容も理解できる。
なのに
**自分自身のことだけが、何も分からない。**
「……私、誰?」
その言葉が口からこぼれた瞬間、病室のドアが開いた。
「起きたか」
入ってきたのは、二十代半ばくらいの男性だった。
黒い髪。
細身の体。
少し疲れたような目。
白いシャツに黒いパンツという、ごく普通の格好をしている。
彼は私を見ると、安心したように息を吐いた。
「よかった」
「……あなた、誰?」
男性の表情が止まった。
一秒。
二秒。
それから、彼は静かに椅子を引いた。
「ツキシロ」
「ツキシロ?」
「俺の名前」
「……そう」
私は首を傾げた。
「じゃあ、私は?」
ツキシロは答えなかった。
その沈黙だけで、嫌な予感がした。
「私の名前……知らないの?」
「知ってる」
「じゃあ教えてよ」
少し間を置いて、彼は言った。
「アン」
「アン……」
その名前を口の中で転がす。
不思議だった。
何も思い出せない。
でも、その名前だけは妙にしっくりくる。
「私、アンなんだ」
「ああ」
「じゃあ、ツキシロは私の友達?」
「……そうだな」
「恋人?」
「違う」
「じゃあ家族?」
「それも違う」
「うーん……」
私は腕を組んだ。
そして、できるだけ明るく笑ってみせた。
「まあ、いっか!」
ツキシロが眉を寄せる。
「よくないだろ」
「でも、起きちゃったものは仕方ないし」
「……」
「記憶なんて、そのうち戻るよ。たぶん」
「たぶん?」
「うん。たぶん!」
自分で言っておきながら、少しおかしくなって笑った。
ツキシロは笑わなかった。
ただ、私をじっと見ていた。
「何?」
「……いや」
「変な顔してるよ」
「君が変わったなと思って」
「私?」
「ああ」
ツキシロは視線を落とした。
「昔の君なら、こんなとき笑わなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……昔の私?」
「ああ」
「どんな人だった?」
ツキシロは答えない。
窓の外へ目を向ける。
病室の窓からは、見知らぬ街が見えた。
高層ビル。
走る車。
電車。
コンビニの看板。
どこにでもありそうな、ごく普通の都市。
でも、私はこの街を知らなかった。
いや、
正確には。
**知っているはずなのに、思い出せない。**
「アン」
「ん?」
「今は、何も考えなくていい」
「どうして?」
「……疲れてるだろ」
そう言われて、私は笑った。
「そうかも」
そして、ふとテレビへ目を向ける。
ニュース番組が流れていた。
画面には、若い男性の写真。
キャスターが淡々と事件を読み上げている。
『昨夜、市内の倉庫で男性が死亡しているのが発見されました――』
私は画面を見つめた。
男性の名前が表示される。
**キユウ**
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
「――っ」
息が詰まる。
視界が歪む。
誰かの声が聞こえた。
泣いている男の声。
『アン……ごめん』
私は反射的に頭を押さえた。
「アン!」
「……大丈夫」
「顔色が悪い」
「大丈夫だから」
自分でも驚くくらい、明るい声が出た。
「ちょっとびっくりしただけ」
テレビの画面を見る。
そこには、見覚えのない男の写真。
キユウ。
その名前を知らないはずなのに。
胸の奥が痛い。
怖い。
何かを思い出しそうになる。
でも、思い出したくない。
そんな感情が、理由もなく湧き上がってくる。
私は笑った。
「ねえ、ツキシロ」
「なんだ?」
「私、きっと大丈夫だよ」
ツキシロは何も答えなかった。
ただ、テレビに映るキユウの写真を見つめていた。
その横顔が
ひどく悲しそうに見えた。




