若人の未来
今が幸せだと思っている若人は、きっと、漠然とした未来に希望を見出してはいない。けれども、其の幸せが永久に続く事の無い事は、何んなに無知な者でも理解している。理解しているからこそ、正に今が幸せであると思うのだ。
安楽な社会。極狭い社会。例えば、中学生や高校生などは此の様な葛藤を強く覚えるだろう。バイトなどをしている者は例外的に社会人に近い心境で以って物を視ているが、そうではない生徒達は、今在る箱庭に照らされた、限られた空間を社会であると認識している。其の社会の外をおっかなびっくり、教科書からの知識で構築しているのである。だからこそ、今が幸せだと思う若人は、“変わりたくない”とか、“此の侭ずっと”などと思うのである。然し、世間とはそんなに甘くは無い。嫌でも、進まねばならない。昨今では進学率が高い為に、大学や専門学校へ進む者が多い。其処に憧れを感じるか、或いは、不安を感じるかは人其々だが、後者の場合、先述の通り、変わりたくないと思っている人間である。其れは何故か。“今”,感じている幸せを失いたくないからである。現状の侭で居る事の出来ないのは先刻承知だが、其処から抜け出した時、詰まり、前にしか進めない路の中で、自身が何う立ち回れるのか不安なのである。暖かな日差しを抜け出し、冷たい風に吹かれる事になろうとも、今の様な気持ちを保っていられるだろうか、と、そう思っているのである。もっと解り易く例えるなら、小学校から、少しだけ自身の判断を迫られる様になる中学への入学、と、云えば皆記憶に有るだろう。学区が分かれる事に因って、半分程の友人とは会わなくなる。そして、知らない子供達と仲良くならねばならない。之は大層“気”の要る作業である。然も、之まで以上に精神的、かつ、肉体的に負担を強いられる場で、其れを日常に於いて行わねばならない。子供達の、所謂、“子供達”から脱する試練である。其の一助を担っているのが部活動であるが、所詮、まだ子供である。遊びたい盛りである。更には捨て置いて構わない知識や情報に流され、荒んで行く事も有る。一度其の世界に身を置いた者は、死ぬか生きるか、何方かだ。実際、通行人を“モンキー”で殴り倒した友人も居る。彼はきっと、もう殺されているだろう。僕よりも物理的に弱かったのだから、恐らく間違い無い。畢竟、凶器に縋る者は弱いと相場が決まっているのだ。
……随分と話が飛躍してしまった。後半は捨て置いて、続きに戻ろう。
所謂社会と云うものは、自身の手の届く範囲を示している。従って、何うにも仕様の無い世界は社会とは云わない。情報で構築した社会など胡乱な眼で見詰めた妄想に過ぎない。夢物語と云った方が適切かも知れない。夢現。寝耳に水。青天の霹靂。狸の皮算用。何れもみな、己の妄想を表している。結果、己の思いとは裏腹に、と云う意味である。詰まり、何が起こるかは“其の時”になって見なければ解らないのである。其処で、冒頭へ返る。夢を観るのでは無く、現実を感じる事が重要なのである。誤解されては困るので一応言って置くが、夢を観るのは悪い事では無い。只、己の力量、器の大きさ、事実への分別が可能であるのか。其れだけは、絶対に見誤っては不可ない。仮に、己にとって相応しく無い処へ行ってしまったとして、後悔するのは好いが、恨んでは不可ない。其れが、社会のルールであるのだから。何を喰っても生きられるし、肴だけでも生きられる。要は、自分自身が、何を以って“生きる”、又は、“生きた”証明とするかであるのだ。何もせずに一般論者であるのか。或いは、何かを追い求めるのか。“社会”とは、其れを僕等に問うているのだ。後悔しないなら其れで好い。然し、後悔するなら、次の一歩を確かなものにす可く探求せねばならない。与えられる地図もレシピも要らない。僕等が自身で創るのだ。そう、幸せとは、僕等自身で創るのだ。其の自由が万民に有る事を決して忘れては不可ない。君達は、幸せに成る為に生まれて来たのだ。其れを、忘れてはならない。




