少年は、夢を追いかけていた。
自分の実力を知らない。それでも、少年には夢があった。未来に向かって自分なりに精一杯考えて、生きていく。そこで、、、、、
その青年は、ゆっくりと歩き始めた。まっすぐ前を向いて。青年の前には、まだ何も決まっていない人生があった。
仕事も。恋も。これから出会う人も。どこへ行くのかも。何をするのかも。何一つ決まっていない。だからこそ、自由だった。だからこそ、希望があった。ただ、遠くを見つめながら歩いていった。
――明日を、自分で選べる。そのことが、何よりも幸せだった。
中学校の野球部
ワンアウト、ランナー一塁。滝口透は、ベンチからグラウンドを見つめていた。今、打席に立っている選手の次の次が、自分だ。透は、膝の上で両手を握った。胸が高鳴っている。
――いよいよだ。
三年間、待ち続けた。透は、心の中でつぶやいた。――頑張るぞ。思い切り振ろう。それだけを考えていた。ピッチャーが投げた。打球が転がった。
ピッチャーゴロ。ボールがセカンドへ。そして、一塁へ。
「アウト!」
一瞬だった。
「ゲームセット!」
透は、立ち上がれなかった。まさかのダブルプレー。中学校では、珍しい。結局。――自分の番は、来なかった。手元には、これから握るはずだったバット。透は、それを見つめた。一度も振らなかった。一度も、公式戦の打席に立たなかった。中学校三年間の野球が、たった今、終わった。透は、グラウンドを見つめた。午後の光が、白いラインを照らしていた。
「……終わったんだ」
声にならなかった。透は、静かにバットを置いた。そして、グラウンドを後にした。
――これが、現実なんだ。――これが、人生だった。
その日、透は初めて現実を知った。どんなに願っても、努力しても、夢がかなうとは限らない。あと一歩まで来ても、その一歩を踏み出せないことがある。
――これが、現実なんだ。
しかし――人生は、そこで終わるわけではなかった。一つの夢が終われば、また次の人生が始まる。そして、その人生の中で、また新しい夢に出会うことがある。
このときの透には、まだ分からなかった。あの日、打席に立てなかったことが、後の人生で何度も自分を支えることになるとは。夢がかなわない悔しさを知ったからこそ、人の悔しさが分かる人間になっていくことも。そして、人生には、思い描いていた道とは違う場所に、大切な出会いや、新しい夢が待っていることも。少年、滝口透の野球人生は、ここで終わった。
しかし――滝口透の人生は、ここから始まる。新しい夢を探す、次の人生へ。透は、静かに歩き始めた。最後まで公式戦の打席に立つことはできなかった。透の中学校での野球生活は終わった。けれど、野球を嫌いになることはなかった。むしろ、どこか中途半端に終わってしまったからこそ、心の中に野球が残った。
「もう一度、やりたい」
その思いは、時間が経つほど強くなっていった。そして透は、自然とそう思うようになっていた。――高校でも、野球をやろう。終わったはずの野球が、まだ透の心の中で終わっていなかった。
高校三年生
それから、三年の月日が流れた。滝口透は、高校三年生になっていた。高校生活では、美術部に所属し、いつの間にか部長を務めていた。もともと絵を描くことが好きだった。だが、透の胸の奥には、もう一つ、消えることのない夢があった。プロ野球選手になること。
高校一年生の四月。その夢を追いかけようとした矢先、透は、なんと入学式の午後、左肘を自分の不注意で複雑骨折した。人生とは、残酷でもあった。
完治するまで、一年。長い時間だった。野球から離れているうちに、透は一度、その夢を諦めた。そして、美術部で絵を描く日々を送った。一年後、左肘は、すっかり治った。しかし、体力には、まだ自信がなかった。細くなった左腕が、それを物語っていた。
高校三年生。大学へ進むのか。それとも、就職するのか。周りのクラスメートたちが、それぞれの進路を決めていく中で、透はまだ答えを出せずにいた。そして、心の奥にしまったはずの夢が、時折、顔を出した。
――やっぱり、野球をやりたい。左腕は、完治し腕も太くなった。一度は諦めたはずの夢だった。それでも、透はまだ、プロ野球選手になることを諦めてはいなかった。
高校三年の夏。透は、卒業後の進路を就職と決め、求人票を眺めながら、自分の進む道を考えていた。そんなある日、一枚の求人票に目が留まった。埼玉のプロ野球チームで、人気のショートストップとして活躍している選手。その選手が、かつて所属していた会社からの求人だった。
プリンセスホテル。透の胸が、高鳴った。――これだ。ここで、ホテルマンとして働きながら、野球を続ける。そして、もっと力をつけることができたら――。
いつか、プロ野球に挑戦する。
「よし……」
透は、心の中でそう誓った。もちろん、そのことを担任の桑原先生に話すつもりはなかった。
「プロ野球選手を目指しています」
そんなことを口にするのは、少し恥ずかしかった。透は求人票を手に、職員室へ向かった。桑原先生の机の前に立つ。
「先生、このプリンセスホテルに就職したいです。手続き、よろしくお願いします」
桑原先生は求人票に目を落とし、それから透を見た。
「おう、なんだ。滝口はホテルに興味があるのか?」
一瞬、透は言葉に詰まった。本当のことは言えない。
「えっ……はい。よろしくお願いします」
とりあえず、試験を受けられればいい。そう思って、透は答えた。
「わかった。まだ間に合うから、任せておけ」
「ありがとうございます」
透は頭を下げた。職員室を出ると、求人票をもう一度、手に取った。そこには、これから始まるかもしれない未来があった。そして、その年の十月一日。プリンセスホテルの就職試験を地元会場で受けることが決まった。透は、精一杯の気持ちで就職試験に臨んだ。
これで決まってほしい。そう願いながら、試験を受けた。しかし、一週間後に届いた結果は――不合格だった。
透は、その通知を手にしばらく眺めていた。
「まあ……仕方ないか」
小さくつぶやく。
「そんなに甘くないな」
落ち込んではいた。けれど、不思議と引きずることはなかった。この頃の日本は、バブル期へと向かう時代だった。世の中には、多くの求人があり、高校生の就職先もまだいろいろと選べる時代だった。
そして、不合格の知らせから二日後。休み時間、担任の桑原先生が、いつものようにニコニコしながら透に声をかけてきた。
「おい、滝口。心配するな」
「はい?」
「新しいホテルの就職先、見つけてきたぞ」
「えっ……あっ、ありがとうございます」
透は、とっさに頭を下げた。心の中では、別のことを思っていた。――プリンセスホテルだから、受けたんだけどな……。しかし、今さらそんなことは言えない。先生が自分のために見つけてくれた就職先だった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
透は、そのまま手続きを進めることにした。今度の試験会場は、東京だった。そのことを知った瞬間、透の気持ちは少し明るくなった。
――東京か。
それだけで、なんだか楽しみだった。試験のことよりも、東京へ行けることのほうが、少し嬉しかった。まだ十代の透にとって、東京は遠い場所だった。そして、その東京行きが、これからの人生を思いもよらない方向へ動かしていくことになるとは、この時の透はまだ知らなかった。
現実は、厳しい。それでも、何かワクワクする人生を模索している主人公。さて、どうなるか。




