312 縫界巡礼編 第十五話「再臨祭壇 ― 大魔王神ギエルの器」part1
「ここは、大魔王神ギエル再臨儀式の、最後の舞台だ」
その言葉が地下祭壇の高い天井へ反響し、何重にも遅れて落ちてくる頃には、空気そのものがすでに変質し始めていた。
中央深穴からせり上がった多重術式環は、ただ光っているのではない。呼吸していた。
赤黒い光が脈打つたびに、祭壇の床に刻まれた無数の細線が一斉に明滅し、各段に立つ黒灰の神官たちの足元を伝って、中央へ何かを送り込んでいく。その流れは魔力というには粘度がありすぎた。感情、記憶、選ばれなかった可能性、届かなかった未来――そういったものが一括して液状化され、術式の胃袋へ流し込まれているような、不快な圧がある。
「うわ……」
ディネが眉をしかめた。
「これ、見てるだけで気分悪くなるんだけど」
「正常な感覚よ」
アリスは中央祭壇を睨んだまま言う。
「まともなものじゃないもの」
サラは術式環を凝視しながら、苦しげに息を整えていた。
「この器……ただ“復活の容れ物”じゃありません……」
「ええ」
白いアリスが低く応じる。
「器そのものが“世界のほころび”で編まれてる。つまりこれは、単なる蘇生でも召喚でもない。選ばれなかった未来の総量で、新しい神格を捏造しようとしている」
ノームの顔に、はっきりとした険しさが浮かぶ。
「神格の擬似鋳造か……!」
「しかも最悪なのは」
アリスが短く言葉を継ぐ。
「ギエル自身の“元の輪郭”を芯にしてることよ」
倒されたはずの大魔王ギエル。
その存在核は過去の戦いで破壊されたはずだった。だが完全消滅に至っていなかった断片――呪い、恐怖、崇拝、敵意、記録、残滓。そのすべてを長い時間をかけてかき集め、世界各地の“縫い目”から剥がした失われた可能性と接合することで、「かつてのギエル」よりも上位の存在へ作り替えようとしている。
それが、大魔王神。
名前だけで済む話ではない。
もしこの器が完成すれば、それは単に強い敵が復活するという話ではなくなる。世界の構造そのものに、「敗北したはずの悪意」が正式な席を得てしまうのだ。
「気に入っていただけたかな」
最上段の神官が、相変わらず穏やかな声で言った。
その声が、アリスには妙に癇に障った。
「気に入るわけないでしょ」
「残念だ」
「全然残念そうに聞こえないのよね、それ」
ディネがぼそっと言う。
神官は軽く首を傾げた。
「だが理解はしてくれると思っていたよ、アリス。君は他の誰よりも、“選ばれなかったもの”の重さを知っているはずだ」
その一言に、空気が少しだけ硬くなる。
白いアリスが、わずかに目を細めた。
サラがアリスの横顔を見る。
だがアリスは、少しも揺れた様子を見せなかった。
「知ってるわよ」
彼女は静かに答えた。
「だからこそ、あなたたちのやってることが嫌いなの」
「ほう?」
「失われたものに意味があることと、失われたものを勝手に利用していいことは、まったく別の話でしょ」
その声は冷たかった。
けれど、ただ冷たいだけではない。
その底には、怒りがあった。
「選ばれなかった未来に痛みがあるのは事実よ。後悔も、悔しさも、届かなかった願いも、全部本物。でもね」
アリスは中央祭壇を指さした。
「それを材料って呼んだ瞬間に、もうあなたたちは全部踏みにじってるのよ」
神官は数秒だけ沈黙した。
そして、仮面の奥でわずかに笑った。
「やはり君は美しいね」
「それ、口説いてるつもりなら最悪よ」
「違うとも。ただ確認しているだけだ」
神官は両手をゆっくりと広げる。
「君が最後まで、こちら側に来ないことを」
次の瞬間だった。
祭壇の各段に立つ黒灰の神官たちが、一斉に詠唱を始めた。
低く、長く、粘りつくような古語の連なりが、地下空間全体を満たす。それは耳で聞くというより、骨の内側へ直接刻み込まれるような嫌な響きだった。床の紋様が赤黒く燃え上がり、中央術式環が一段と回転を速める。
「来るよ!」
ディネが叫んだ直後、祭壇の周囲の回廊から、黒い塊が次々と湧き上がった。
それは人型に見えた。
だがよく見れば、どれも輪郭が曖昧だ。肩が異様に高かったり、腕の本数が合わなかったり、顔が途中で溶けたように崩れていたりする。人の失敗作を寄せ集めたような、気味の悪い兵群。
サラが息を呑む。
「これ……残響を雑に固めた擬似兵です!」
「雑に固めたにしては数が多すぎるんだけど!?」
ディネが即座に飛び出した。
彼女の周囲に風と火の複合精霊陣が展開し、両手から生じた蒼白の刃が弧を描く。最前列の擬似兵たちがまとめて両断され、黒い霧となって吹き散った。
だが、その霧が消える前に、床の紋様が再び脈打つ。
すると散ったはずの霧が、別の位置でまた人型を取り戻し始めた。
「うそでしょ!?」
「再構成型か!」
ノームが杖を打ち鳴らす。
地脈が唸り、石床から何本もの光の根が突き上がった。擬似兵の脚部と胴を絡め取り、そのまま圧縮して粉砕する。さらにサラが聖印を展開し、浄化の波を重ねることで、霧への再変換そのものを遅らせた。
「再構成の核は床下の導線です!」
サラが叫ぶ。
「術式の供給を断てば――」
「わかってる!」
アリスはすでに動いていた。




