2-11
「マリー」の浄化から2日後。私たちは歌劇場2階の楽屋にいた。
「……こんなことになっていたんですね」
部屋に足を踏み入れたヨーリヒ氏は唖然とした様子で呟いた。大型のベッドに浴室、そしてメモで溢れ返った机。床にはギターらしき楽器も転がっている。
それは「マリー」が築き上げた、彼女だけの小さな「城」だった。どうもデルヴァー歌劇場の一角を、自分用にリフォームしていたらしい。
「なるほどね、歌劇場の外で彼女の姿を見なかったわけがよく分かったわ。ここに引きこもってたわけか」
「そのようですな」
私はメモの一つを手に取った。そこには彼女にとっての「新曲」が書き殴られている。題名は「PAIN」。この世界の人間にとっては意味を為さない単語だが、私には理解できる。
歌詞の内容は決して救われない孤独と、そこから抜け出したいとする希求に満ちたものだった。それはあのライブで聴いた一連の楽曲にも共通するものだが、歌詞にはどこか僅かな希望も感じさせる。
歌詞には「雨」というフレーズがしばしば出てくる。それが「PAIN」とかけたものだということを、この世界の人々は理解できまい。ただ、それでも全てを流してくれる雨が、救済の象徴として綴られているのは間違いなかった。
恐らく、あの転生者は……この世界に来てようやくなりたい自分になろうとしていたのだろう。その希望が歌詞に滲んでいる。
多分、曲が完成していたなら、恩寵などなしに人々の心を震わせていただろう。
そして、その機会を私たちは奪った。それは祓い手としての、残酷な定めだ。
「……どうしたのよ、黙っちゃって」
「マリーさん、これを」
私はヨーリヒ氏の後ろにいたマリー・ジャーミルにそのメモを手渡した。マリーの体調はまだ完全ではないが、それでもこうして動ける程度には回復している。
ここに来たのは、彼女のたっての要望だった。私たちがヴァンダヴィルに帰る前に、一度来ておきたかったのだという。
「……歌詞、ですね。これを彼女が」
「ええ。彼女は作詞も作曲もやっていた。マリーさん、貴女にその心得は」
「いえ……興味はありましたが」
無言でメモを読んでいたマリーの目から、一筋の涙がこぼれた。
「……マリー??」
「……すみません、ニコラスさん……ちょっと心が落ち着かなくて」
マリーは涙を拭い、机に向かう。メモを一つ一つ拾い上げては読み、そしてそのうちに崩れ落ちた。
「……ジャニスさん、彼女はもう」
「ええ。決して戻ることはないわ。それが転生者の運命だから」
涙ながらに言うマリーに、ジャニスは静かに答えた。祓い手2人に、無関係の一般人2人の殺害。「保護」になる可能性は皆無と言えた。再び転生するとしても、もはや彼女の自我はない。
「彼女は取り返しの付かない罪を犯してしまいました。既に正気に戻ったとはいえ、多くの人々を意のままに操ろうともしていた。
『浄化』は貴女を救うためでもあります。その点、ご承知おきを」
「……分かっています。あなたたちにも、ニコラス先生にも感謝してもしきれない。ただ、私に成り代わっていた転生者の人は、間違いなく私にない才能を持っていた。私には、こんな曲は書けない……」
ヨーリヒ氏は目を瞑って黙っている。
「ヨーリヒさん、貴方が『浄化』を依頼されたのは、彼女の才に気付いていたからというのもありますかな?」
「……否定はしません。もちろん、マリーを救うのが第一でしたが。私が彼女の公演を聴いたとき、度肝を抜かれ感銘を受けたこともまた確かです。
転生者が『保護』される事例はほとんどないと知ってはいました。ただ、それでもこの才能が消えることは惜しかった」
「そうでしょうな。ただ幸い『遺作』はある。これをマリー様に歌ってもらうのは?」
「やります!」とマリーが即座に答えた。
「彼女が何をやったかは聞きました。カトレアさんやオルガさんを殺したのは、決して許されません。ただ……楽曲に罪はない。そうですよね」
「……そうですな」
「私には、私に取り憑いた転生者の人がどういう人かは分かりません。ただ、深い孤独を感じていたのはこの歌詞を読んでも分かります。
私も、先生に拾われていなかったらこうなっていたかもしれない。私はただ運が良かっただけなんです。……先生、この人がここに生きていた証を残すのは、悪いことなのでしょうか」
マリーは孤児院で虐められていたと聞いた。彼女は居場所を見つけられたが、この転生者にはそういう居場所があったのだろうか。それを知る機会はもはやない。
「……と仰ってますが、どうですかな?ヨーリヒさん」
ヨーリヒ氏は小さく頷いた。
「やってみよう、マリー」
*
「これで一件落着、なのかしらね」
車窓の外を眺めながら、ジャニスが呟く。
恩寵の効果は「マリー」の消失と共に切れたが、記憶自体はかつての「信者」に残っている。マリーと転生者の「マリー」は、その気質もキャラもかなり違う。それがどういう結果につながるかは読めない。
それでも、ある程度は何とかなるのではないかと思えた。元々マリーは有望株として注目され始めていた歌姫だ。彼女もまた、ある種の天性を持って生まれた少女なのは疑いないのだ。
ジャニスが浮かない顔をしている理由は、別にある。
「『親衛隊』の1人……冒険者のマイク・プルードンが行方不明ということですな」
彼女に操られていた「親衛隊」のほとんどは、目覚めると同時に正気に戻っていた。彼女のバンドメンバーである少女たちも同様だ。意思や行動を相当程度支配されていただけに多少の混乱はあったものの、日常生活に戻る道筋は立っていた。
ただ、マイク・プルードンだけはいつの間にか病院から消えていた。
騎士団からの情報によると、プルードンは流れの冒険者であるらしい。最近はデルヴァー周辺で遺跡探索などを中心に活動していたとのことだ。
ただ、単独行動が多く騎士団は不審に思っていたようだ。彼に掛けられた疑惑、それは……
ジャニスが険しい表情で頷く。
「ええ。彼、セルフォニアの出身という噂があるのよね。もしそうだとしたら、元々諜報員として潜伏していたのかもしれない」
「……濃厚ですな。そして多分、今回の一件もセルフォニアに伝えられている」
そうだとしたら、「マリー」にセルフォニアが既に接触していた可能性を否定できない。もし浄化に失敗していたらと思うとぞっとする話だ。
そしてスパイが各地に潜伏し活動している現状が改めて確認されたことは、かなり良くない話と言えた。フリードにとっては頭の痛いニュースだろう。
「デルヴァー、大丈夫かしら」
「まあ……ネウヨの守りは堅いですし今回の件で騎士団も治安維持活動を強化するでしょう。当面は、問題ないかと」
「……当面は、ね」
ジャニスが寄りかかってきた。私は肩を抱き寄せる。不安になっている時の、彼女の癖だ。扱い方は心得ている。
「……ハンス、貴方にとっての居場所は、私よね」
「ええ。その逆も然り。そうではないですか」
彼女は答える代わりに、さらに距離を詰めてきた。詩文に興味がないジャニスだが、それでも「マリー」の歌はどこかしら刺さったのだろう。
「私に居場所なんてない」。そう彼女は何度も歌っていた。そして、私もマリーも、一度居場所を奪われた人間だ。あの歌詞を理解できないわけがないのだ。
……そう。だからこそ、もう二度と奪わせはしない。
私はもう一度、彼女を強く抱き寄せた。もう決して失わないように。
依頼2 完遂