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扉を開けると、蓄音機から吹奏楽の軽快な音楽が流れていた。少しノイズが入っているが、それがまた何とも言えない味だ。
執務室の椅子に、その男は目を閉じて上を見上げるようにして座っている。眠っている……ということはなさそうだ。
「陛下」
「ん。カタリナ、起きているよ」
男は目を開き、私の方を見た。
「ハンスか。そろそろ約束の時間だったね」
長髪の無精髭の男は、音楽の音量を少し下げてソファーに向かい、私に座るよう促した。
「音楽は消さないのか」
「ああ。今回の依頼に関係があるんでね。カタリナ、ハンスにお茶を」
「畏まりました」と褐色のメイドが頭を下げ、部屋を出ていく。
「彼女とは上手くやってるか?」
「まあ、相変わらずだよ。というか、僕よりも彼女の方が頑固でね」
フリードが肩を竦める。彼とカタリナとの関係は単なる主従関係という言葉ではなかなか説明できない。私とジャニス以上に面倒な関係だ。フリードの立場上、それは仕方のないことではあるが。
フリードとの付き合いはもう10年になる。私が敬語を使わずに話す、数少ない友人だ。
そして、私の正体を知る極々限られた人間の1人でもある。
フリードが紙の束を私に渡す。几帳面そうな、細かい字だ。言われなければ、それがあの大柄なメイドにして戦士の手によるものとは思いもしないだろう。
「まずは君のところの新入り君、ユウ君からの聞き取りの内容だ。本題に入る前に、それに目を通してくれ」
パラパラとそのレポートを読む。新型コロナウイルスの感染拡大、ロシアのウクライナ侵攻。それに急激なインフレ。事細かく内容は書かれていないが、それでもこの3年で起きた変化に私は内心驚きを禁じ得なかった。
「……なるほど。コロナによる死者の影響は、こちらでも大きそうだな」
「それよりもこっちだね。僕にはその戦争の規模や凄惨さは分からないが、メジア大陸で転生者が大量発生している件と関係があると理解してよいかな?」
「間違いないな。ポルトラ港の入管はかなりしっかりやった方がいい。それと、多分セルフォニアに転生者がかなり入っていると思う。最近攻勢が激しくなったことと無関係じゃないだろう」
「どうにもそのようだね。国境付近の防衛強化は必須か。君が兵士として赴任すれば、かなり打撃を与えられるんだが」
「私の仕事は人殺しではない。それは君も知っているはずだが?」
フフッ、とフリードが笑った。
「違いないね。君は『祓い手』だ。野暮なことを言ってすまなかった」
カタリナがお盆に紅茶を入ったポットとティーカップを2つ乗せて戻ってきた。そして、紅茶を空気に触れさせるように高くから注ぐ。この香りは、パルフォール産か。
「ありがとう、カタリナ。今から小一時間彼と話すから、人払いを頼む」
「畏まりました」と彼女が去っていく。紅茶を口にし、フリードが口を開いた。
「僕が君をここに呼んだのは他でもない。デルヴァー市のニコラス・ヨーリヒ氏の依頼だ。詳細を伝えたくてね」
「君に直接依頼が来るというからには、かなり深刻な案件と理解していいな」
小さくフリードが頷く。
祓い手の依頼ルートは二種類ある。まず、ヒイロの店に来て取り次いでもらうというものだ。
彼の人物に対する目は間違いのないものだ。そこで転生者による案件かどうか、そして依頼人が信頼に足るかどうか、私たちでなければ対応できない案件かが判断される。
私たちが手掛ける依頼の9割が、そうやって持ち込まれる案件だ。多くの場合は厄介だが、しかし「まだ」重大な事態までは至っていないことが多い。
一方で、フリードに直接持ち込まれる依頼は既に大事になっているものばかりだ。転生者による社会・治安の著しい混乱が生じているか、あるいは生じかけているかどちらかになる。
ジャニスがこの話を聞いて露骨に嫌そうな顔をしたのはそのためだ。その代わり、報酬は数倍することが多いのだが。
フリードが、もう一度紅茶を口にした。
「浄化対象は、デルヴァー歌劇団の歌姫、マリー・ジャーミル。転生者なのは間違いない」
「ヒイロではなく、君から依頼となった背景は」
「……既に2人、祓い手が死んでいる。原因はいずれも事故死だが、どうにも状況がおかしいらしい。さらに言えば、地元の騎士団も捜査に及び腰でね。デルヴァー市全体が、何かおかしなことになっていると斥候から聞いたよ」
「祓い手の殺害は討伐案件では?」
「彼女が手を下した証拠がないんだよ。もっと言ってしまえば、デルヴァー市にいるかなりの人間が、彼女を庇っているようにみえる。
ヨーリヒ支配人は正気みたいだが、色々奥歯に物が挟まった言い方をしていてね。君たちに任せたいと思った次第さ」
私もティーカップに口をつけた。既に解せない点が複数ある。
「1つ訊きたい。討伐ではなく、浄化依頼なのは?」
「ヨーリヒ氏のたっての希望だ。それと、これも理由の1つかな」
フリードの視線が蓄音機に向けられた。そこからは澄んだ、透明感のある女性の歌声が聞こえてくる。蓄音機の劣悪な音質にも関わらず、高音も低音もクリアで美しい。その高い歌唱力は、芸術にあまり強くない私でもすぐに分かった。
「これが、マリー・ジャーミルか」
「ああ。憑依される前の歌声だよ。本格的に人気歌姫になり始めたばかりだった。私としても、討伐で彼女の歌声が聴けなくなるのは実に惜しい」
「『唯才のみあれば用いる』か、また悪い癖が出たな」
フフ、とフリードが笑う。才能のある人間なら出自がどうであれ登用するというのが、この男の主義だ。ダークエルフとオークの混血という「忌み血」であるカタリナを側近に置いているのも、それと無関係ではない。
転生者に対しても、この男は比較的寛容だ。ヒイロが討伐も浄化もされずに生きながらえているのは、フリードのこうした主義によるものが大きい。もちろん、ほとんどの転生者は「害悪」として排除される運命にあるのだが。
「まあ、僕の我儘は無視してくれて構わないよ。『芸術の都』デルヴァーが一転生者に支配される状況だけは止めなければいけない。マリー・ジャーミルの生死は問わないが、できれば生かしたい。そう考えてくれ」
「了解した。ヨーリヒ氏はデルヴァーに?」
「ああ。彼とは古い付き合いだ。信用の置ける人物であるのは保証する」
ヨーリヒ支配人が芸術に造詣の深いフリードと直接連絡を取れるというのは驚くことではない。ただ、ここも少し引っかかる。
周囲が正気を失いつつあるのに、マリーに近い立場であるはずの彼がマトモというのはどういうことだ。こればかりは会ってみないと分からない。
「報酬は」
「3億オード。歌劇団の資産を取り崩すということだ」
私は軽く驚いた。3億オードと言えば、前の世界では6億円相当だ。かなり思い切ったオファーといえる。
「経営は大丈夫なのか?」
「それだけの価値が彼女にはある、ということだよ。然るべき楽曲があれば、彼女はレヴリアを代表する歌姫になれる。元はすぐ取れるという、商売人の勘だろうね」
「なるほど、ジャニスも喜ぶだろうな。まだまだセルフォニアと戦うだけの資金には十分じゃないが」
「『アレ』の開発には、まだ時間がかかりそうかな。こちらとしても当てにしているのだけど」
私は首を振った。「アレ」は対転生者の最終兵器と言えるが、作るには膨大な資金と時間が要る。開発に協力している魔法都市クリップスのレナード博士からは、プロトタイプの完成にはまだ当面かかると聞いていた。
メジア大陸からの転生者流入を考えれば、もうさほど猶予はない。いつセルフォニアからの侵攻が始まってもおかしくないだけに、正直焦りはある。
とはいえ、最も厄介な「恩寵」を封じるには、「アレ」がないと始まらない。近いうちに様子を見に行ったほうが良さそうだ。
「とにかく、依頼は喜んで受ける。『完全憑依』までに猶予はありそうなのか」
「少し急いだ方がいいだろうね。何より、デルヴァーがもたなくなる。
あそこは地理的には要衝だ。安全保障の観点からも、極力早く平時に戻して欲しい」
私は頷くと、紅茶を一気に飲み干した。
「了解だ。明日にはデルヴァーに入るとヨーリヒ支配人に伝えてくれ」