6-2 湖の守り神
◇
戻ってきた恋人たちも交えて談笑し、昼も近づいてきたころ、男性陣は何食わぬ顔で戻ってきた。
「おかえりなさいませ、お父さま、伯父さま」
「あ、ああ……ただいま、ミーア」
気にしたそぶりを見せないミーアが、相当怒っていると思ったのか、男爵と伯爵はやけに気を遣った態度を見せる。
「……なにも言わんかったのは悪かったが、だましたわけではないぞ?」
「はい、存じております」
「いや、その……なにかあったのかい、ミーア?」
そこを畳みかけるように責めるのは、事態をおもしろがる悪い女性陣だ。
「あら、帰ってきたのねぇ、このダメ亭主たち」
「ミーアがどれほど嘆き、憤ったか……ああ、見せてあげたかったわぁ」
二人の言葉に、男たちはバツが悪そうにするが、そんなことをされてもミーアのほうが困ってしまう。
いや、夫人たちはミーアを困らせたがっているだけか。
「……お二人のご冗談です。私としては、気を遣わせて申し訳ないくらいで」
そんなミーアの言葉に、妻たちが声を上げて愉快そうに笑うのを見て、男爵たちもホッと胸を撫で下ろしていた。
「そ、そう言ってもらえると助かるよ……すまなかったね」
「いえ……ご一緒したくはありましたが、もう少し大きくなるまでは、殿方のご厚意に甘えさせていただきます」
それが淑女の務めでしょうと言わんばかりに、ミーアは礼を尽くす。
あとから聞いた話では、そうした静かで慇懃な出迎えをされるほうが、引け目のある男性は恐怖し、呵責に苛まれるそうだが――。
…
なぜかやたらと気を遣われながらの昼食は、付近の牧場で作られたチーズや燻製肉、それに夏野菜をたっぷりと使ったピザだった。
当然、貴族の食卓に上がるたぐいの食事ではない。
それを豪快に手でつかみ、食すという、貴族らしからぬ食事を楽しむのも、このバカンスでのイベントのひとつということだ。
もちろん、ミーアにとってはなじんだ習慣ではあるが。
もちもち生地、サクサク生地の焼きたてピザ。
チーズをうにょーんと伸ばしてほおばり、冷たいコーラで口を洗う――。
(いや、コーラはない。だが炭酸水なら――どう作るんだったか……)
シャンパン系の酒があることは確認できており、酒から二酸化炭素を発生させることは難しくない。
問題はそれを取りだす方法と、水に溶け込ませる手段だ。
(――うん、お手上げだな)
方法はありそうだが、10歳の少女に試行錯誤できるものではない。
おとなしく冷えたお茶、あるいはジュースにしておこう。
(ピザはおいしい、飲み物も冷えている……それで十分すぎる……)
そんなことを思いながら、再びチーズを伸ばしていると、同じようにして処理に困っている義妹と目が合った。
プイッと背けられはしたが、すぐさま生地とチーズ、そして野菜のマリアージュに味覚を支配されたのか、目を輝かせて咀嚼するレティシャ。
小動物を思わせる愛らしい姿に、思わず見入ってしまっていたミーアはその後、彼女から二度、三度と睨まれることになった。
…
そんな昼食を済ませた食休み中、ミーアは用意しておいた材料で弓を張り、さらには矢を削り、鳥の羽を接着して切りそろえ、弓矢の支度を整える。
連れていってもらえなかった場合に備え、既製品は用立てなかった。
かつて教わった製法の確認も兼ねていたのだが、想定どおり、身体に合ったサイズ感ではあると思う。
「――伯父さま、試射できる的などはありますか?」
「ほう、よくできとるじゃないか」
弓の出来を確認した伯爵は感心し、コテージ裏を使うよう許可をくれた。
さすがは伯爵家のコテージというべきか、屋根のついた射的場や、剣技用の訓練スペースなどの、小さな演習場が設けられている。
さっそく用意した矢を射てみたところ、距離さえ見誤らなければ、威力や精度には問題がなさそうだった。
(よし――実際に狩れるかはわからないが、いよいよという感じだな)
決行日を楽しみにし、矢の増産に入ろうとしていると、そこへ男爵が遠慮がちに声をかけてくる。
「ミーア、弓もいいが……ボート遊びには興味がないかな? 家族で乗ってみようかと、話しているんだが――」
「ええ、もちろん喜んで。お気を遣わせてしまい、申し訳ありません」
わざと家族から距離を取っている、そんな風に思わせたのだろうか。
手早く材料を片づけ、男爵の腕を取り、湖畔へ下る道に同伴する。
「気を遣ったわけではないんだけど……弓や剣を持っているほうが、ミーアは楽しそうにしているものだからね」
「たしかに、それは否定しませんが……バカンス中は、レティシャと触れ合える機会でもありますから。お誘いいだけるなら、そのほうがうれしいですよ」
領地に戻れば、彼女との関係はまた元通りだ。
せめてそれまでは、義妹を愛でる喜びを堪能しておこう。
そんなことを思いながら、ミーアはボート乗り場の桟橋で待つ、夫人とレティシャのもとへたどりついた。
「お待たせしました、お母さま。それにレティシャも」
気にしないでと微笑む夫人に対し、レティシャはむくれるような顔を見せ、ミーアの反対から男爵に抱きつく。
「待ちくたびれちゃったわっ、お父さまぁ」
「ははっ、ごめんよレティ」
甘えきった義妹の仕草に、思わず頬を緩ませそうになりながら、ミーアはなにも言わず、足を一歩下がらせていた。
男爵はわずかに名残惜しそうにしつつも、ミーアが離れたことで手が空くと、レティシャを撫で、蕩けるような笑顔を引きだす。
ミーアは心の中で、ひそかにガッツポーズをしていた。
「ほら早くぅ、早く乗りましょっ?」
「おっとと……慌てちゃだめだよ、レティ。乗るときはとても危ないからね」
先ほどリュナンと乗った経験からか、臆さずボートに乗り込もうとするレティシャだったが、男爵がそれをやさしく諌める。
「まずは私が……よっ、と……さ、ルフィーナ」
片脚をボートに乗せ、自らを桟橋とのつなぎにし、次に夫人の手を取った。
「ええ、ありがとう……ふふっ、なんだかこういうのも新鮮ね」
大人二人が乗り、バランスが保たれたところで、男爵の手は娘に向かう。
「さて、レティは上手に乗れるかな?」
「もちろんよっ……んっ、しょ……うふふっ、どうかしらっ?」
父親の手を取り、慎重に足をつけた彼女は、わずかな揺れにたたらを踏みながらも、母親に抱きつくように腰を下ろした。
「うん、とっても上手だったよ。しかし――リュナンくんのおかげだと思うと、少し妬けてしまうところだな」
「な、なに言ってるの、お父さまったら……からかわないでちょうだいっ」
顔を真っ赤にして恥じ入る娘の頭を、夫人がやさしく撫でる。
見ているだけで微笑ましくなる情景、そこに自分が入っていいものか――。
「さ――次はミーアだよ、おいで」
「……はい、失礼します」
わずかな迷いもあるが、遠慮するほうがかえって失礼な話だ。
ミーアも素直に実父の手を取り、彼の前へ腰を下ろす。
向かい合う形で座るレティシャは夫人に抱かれていたが、そこから物欲しそうな視線を、背後の男爵に向けているのがわかった。
「途中で交代しよう、レティシャ。私も、お母さまと乗っておきたいんだ」
父とも乗りたいのだろうと気を回してみるが、案の定というべきか、悟られた照れ隠しのように、彼女の頬がふくらむ。
「――ふ、ふんっ……どうしてもっていうなら、そうしてあげるわ」
「うん――ありがとう、レティシャ」
消極的ではあるものの、言を受け入れてくれた彼女の返事には、どこか温かいものが感じられた。
ミーアの気のせいでなければ、だが。
「あらあら、これは……ハンク、ミーアに嫌われたようねぇ?」
その感覚を裏づけるように、夫人はレティシャを諌めることなく、そう言って夫をからかおうとする。
「えぇっ! そ、そんなことは……ないよね、ミーア?」
「ふふっ……ではまいりましょうか。お父さま、櫂はお願いしますね」
「その前に否定してくれないかなっ!?」
隣のボートに乗る従者たちからも、湖面を揺らすような笑いがもれた。
…
そのままでも涼しいスポットではあるが、ボートによって加速すると、さらに涼しい風が吹き抜けていく。
途中でこぐのを止めても、水面の涼しさは別格であり、一家はしばし語らいながら、澄んだ湖面を眺め、安らいだひと時を過ごしていた。
「本当に、きれいな湖ですね……魚どころか、湖底まで見えそうなくらいに」
昔から伯爵家の保養地だというここは、景観を保つことと、コテージの設置以外では、ほとんど人の手が入っていない。
ゆえに水が汚れることもなく、その水も底から湧き、あるいは山中から注がれ、細い川が流れることで循環されるのか、透明感があふれている。
ボートに近づくことはほとんどないが、魚影がそこかしこに見てとれ、ちらほらと浮く蓮の花も、美しい光景を演出していた。
「言い伝えでは、竜が住んでいる――なんて、言われているのよ」
レイクス、ミルロワの両家に伝わる話だそうだが、この湖の主である水竜は、湖を清く保つことと引き換えに、南海を守護しているらしい。
男爵家の家紋でもある水竜は、それをモチーフにしているのだとか。
「ああ――では、あの大きな魚影はそうなのかもしれませんね」
ミーアが笑いながら指さすと、大きな影がヌラリと湖底で揺らめいた。
おそらくウナギの仲間だと思われるが、その形状や、淡水と海水のどちらにも適応するあたり、伝説にも通じるものがある。
この影の大きさからして、かなりの大物に違いない。
「さ、さっきはあんなのいなかったのに……なんだか怖いわ」
巨大な影を見たレティシャが、声を震わせて母にしがみつく。
「すまない、怖がらせるつもりはなかったんだ」
時間帯によっては、日陰を求めて動きまわる魚も少なくはない。
その時間が、たまたま噛み合ってしまったのだろう。
「大丈夫よ、レティ。水竜は、私たちの守り神なのだから」
夫人がそうあやすように彼女を撫でると、少し強い風が湖面を揺らした。
「竜もそろそろ、休みたい時間なのかもしれません。私たちも戻りましょうか」
「そうだね、風が出てきた……ほらレティ、怖いならこっちにおいで」
ミーアが促すと、男爵も娘に声をかける。
「う、うんっ、お父さま――きゃっっ!?」
男爵の声に安堵し、立ち上がろうとしたレティだったが、そのとき大きくボートが揺れた。
魚の揺らぎによるものか、風の影響か――いずれにせよバランスを失ったレティシャはたたらを踏み、ボートの外へ倒れそうになる。
「レティシャ、こっちに!」
ミーアは反射的に手を伸ばして腕をつかみ、腰を抱き寄せ、彼女を横抱きにする形で抱え込む。
お尻を打ったり、膝を擦ったりしないよう、最善の注意を払ってフワリと抱きしめ、腕と脚でレティシャの小さな身体を支えた。
「あっ……ぁっ、あぁっ……」
「大丈夫……お母さまの子であるレティシャには、竜の加護がある。水に落ちることはないし、落ちても助けてもらえるさ……安心して」
肩を抱き、背中を撫で、落ち着かせるようにそう囁く。
しばし呼吸を乱していた彼女は、やがて息を整え、なにかもの言いたげにミーアを見上げたものの――その視線はすぐ、男爵のほうを向いた。
「――お父さま、レティシャをお願いします。櫂は私があずかりましょう」
彼女の意図を汲み、身体をずらしたミーアは、レティシャの身柄を男爵に預け、自分はオールを受け取り、夫人の前へ腰を下ろす。
少しボートは揺れたが、ミーアがその程度でバランスを崩すはずもない。
「では、戻りましょうか。往路ほど安定はしませんが、ご容赦を」
そう言いながらミーアは丁寧にオールを操り、ゆっくりとボートを進ませる。
まだ少し怯えた様子の義妹が、ほんの少しも怖がらないよう、丁寧に――。
「――ミーア」
その耳元に、背後の義母がポツリと囁いた。
「ありがとう……あなたが近くにいてよかったわ」
「ええ、レティシャが無事でよかった」
なんでもないというように答えるミーアの腰に、夫人の腕が回される。
「二人ともよ……どちらも無事だったことが、なによりうれしいの」
「……ありがとうございます、お母さま」
ミーアとて同じだ。
レティシャの無事にも安堵するが、そうした言葉を夫人からかけられることが、やはりうれしく感じられる。
教育を受け、手に職をつける――その目的は変わっていないが、家族と一線を引いておくのは、すでに無理があった。
レティシャも男爵夫妻も、かけがえのない、大事な家族だと実感している。
伯爵夫妻やリュナンも含め、皆がいい人だからこそ、その気持ちは強かった。
(……大切に、しなくてはな)
この縁を、それが結んでくれた人々を。
それらを与えてくれた幸運に、深く感謝しながら――。
…
ボートから戻ると、すでにコテージ周りの片づけは終わっており、いつでも帰れる準備が整っていた。
個人の持ち物については、よほど大事なものでもないかぎりは、それぞれの従者がひとまとめにしている。
さすがに、木刀や弓矢の材料などを持たせるのはしのびなく、ミーアは自分で持とうとしたのだが――。
「お嬢さまのお荷物は、私にお任せください」
普段から預かっているという自負からか、サラがそれを手放すことはなかった。
「今後は、木刀だけでも私が持つようにしなければ……うん?」
やむなく手持ちぶさたになり、見納めにと湖のほうを眺めていたミーアは、そこで妙な気配を見せるレティシャの姿に気がつく。
あれだけ水辺を怖がっていたはずが、水面を覗き込むような動きで、道や桟橋を気にしているように見えた。
「――レティシャ、どうかしたか? 湖の傍は冷えるだろう」
水辺から少し離れたのを見計らい、そう声をかけると、彼女は想定した以上の驚きを見せて、飛び跳ねるようにこちらを振り返る。
「ぁ――な、なんでもないわっ……さっきのがいなくなったか、確認していただけよ……」
そんな言葉を返すも、レティシャの目は明らかに泳いでおり、湖のほう――というより、なにやら地面を気にしている様子だ。
なにかあるのかとミーアも周囲を見やるが、特におかしなものはない。
「わ、私はもう戻るから……そろそろ帰る時間だもの……」
「ん――ああ、そうだな」
気になるところはあるが、そう言って彼女がコテージに足を向けては、ミーアも続かないわけにはいかなかった。
「……なにかあったなら、遠慮なく言ってくれていいんだぞ」
面と向かってそう告げられれば、どれほどよかっただろう。
しかし、自分に心を開いていない彼女が、遠慮する以前の問題として、相談を持ちかけてくれるとも思えない。
結果、ミーアの言葉はレティシャの耳に届くことなく、湖畔の風に消える。
「……ここで踏み込まずして、得られる勝ち星などないだろうに――な」
ボート遊びでの空気が悪くなかったばかりに、つい日和ってしまった。
たとえうっとうしがられようと、姉たちを見習うなら、強引に寄り添うべきだというのに――我ながら、臆病なことだと自嘲する。
(……今夜、落ち着いたころにでも聞いてみるとしようか)
離れてしまった彼女の背を見やり、ミーアはそのように考えていた。
…
思えば、その判断は少し、手ぬるかったのかもしれない。
いつもどおり――せめて両親に伝えていれば、少なくともあれほどの騒動は、起こらなかったはずなのに。




