第六話 制度の浸透 ― 日常の変化 ―
――レオンとの別れからひと月。
時間だけが、淡々と前へ進んでいた。
朝の光がギルドの窓から差し込み、石壁に反射した。
淡い明るさが、あたりを満たす。
【S.O.M.P.O. ジャン】窓口にもその光は届き、
一つの真新しい椅子を照らしていた。
その椅子へと腰を下ろしたのは、
少し緊張した面持ちの女性――エリナ・ハルツ。
このひと月で、文字はかなり読めるようになった。
今日は――その先に進む日。
目の前の雇用主、クロード・ジャン・アルヴェインの補助を受けながら、
受付の“実地練習”を始める。
膝の上には、厚手の紙を綴じた帳面。
「では、今日はここからです」
クロードが指差すと、
エリナは確かめるようにゆっくりと読み始める。
緊張からか、声が小さい。
「――大丈夫です」
区切りのついたところで、声をかけた。
「いくらでも間違えてください。間違えたら、直せばいいだけです」
優しい声だった。
そして温かい表情に、緊張がほぐれていく。
エリナは右手に持つ羽ペンをギュッと握る。
それは、書くためではない。
「読むだけでも、道具には触れておいたほうがいい」
そう言って、彼はこの羽ペンを渡した。
(……最初に書く名前は――自分のものではない……)
この帳面の最初の一行。
そこに書く名前は、もう決めていた。
【S.O.M.P.O. ジャン】
責任を引き受ける側の名前。
その思いを見透かしたように、クロードが言う。
「まずは、読めるようになること」
「それだけで、十分です」
エリナは、静かに頷いた。。
――早朝。
ギルドの扉が開き、冒険者たちが姿を見せ始める。
出発前の空気は張り詰め、静寂の中に、様々な音があふれ出す。
「お待ちの方、どうぞ」
声を出したのは、エリナ。
まだ小さいが、よく響く声だった。
クロードはその様子を横目で確認すると、
書類に視線を落としてエリナに告げる。
「まず、依頼内容を復唱してください」
「相手が間違っていれば、その場で正せます」
「――はい」
冒険者が差し出した紙を、エリナが両手で受け取る。
「パーティーランクはC。個人冒険者ランクはBランクが一名、Cランクが三名」
「討伐依頼で、魔物のランクはB……」
一瞬、喉が詰まる。
それでも、止まらなかった。
「〈裂角の岩背牛(ガル=ヴァルド)〉」
(……言えた)
ほっと胸をなでおろす。
「剣士二人と盾持ちが一人」
「回復役――います!」
クロードが、静かに頷く。
「では、事前条件の説明を。十四ページからです」
エリナは深呼吸をして続けた。
「討伐は、必ず申請した条件を満たした状態で行うこと」
「人数や体調など、重要事項に変更があれば、必ず事前連絡を行ってください」
「撤退基準は、次のとおりです」
・ポーションで治癒できない死傷者が出た場合
・その場で回復不能な状態異常者が出た場合
・回復手段が二回以下となった場合
・討伐対象ランクの魔物が複数確認できた場合
・討伐対象が単体でも、パーティーメンバーと同数以上の魔物が同時に確認できた場合
・主要な武器・防具が破損し、戦闘中に使用不可能となる恐れがある場合
一息置き、続ける。
「こちらの条件に同意されない場合は、お引き受けいたしかねます」
冒険者は一瞬だけ眉をひそめ、
やがて苦笑して肩をすくめた。
「……厳しいな」
「でも、前より分かりやすい」
そう言って同意のサインをし、
控えを受け取って出発した。
エリナはその背中を見送り、
思わず後ろに立つクロードを見上げた。
「――今のは、正しかったですか?」
問われ、クロードは小さく笑みを浮かべる。
「ええ」
「相手は、納得しています」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
自分の言葉が、誰かの判断に届いた。
初めて味わう、充実感だった。
――その日の午後。
ギルドの一角で、四人の冒険者が装備を広げていた。
トーマス。
ルーウェン。
ゼンティス。
そして、若い剣士――ジャミール。
レオンに憧れていた、一回り年下の弟分。
刃の欠け。
革鎧の擦れ。
留め具の緩み。
以前なら見過ごしていた箇所を、
今は真剣に確認している。
「……ここ、直しておけ」
「前回、ここで引っかかった」
「了解」
ゼンティスの返事には、迷いがなかった。
「撤退基準……言葉にしとこう」
ルーウェンが言う。
「洞狼の痕跡を発見したら、即離脱」
ジャミールが、真剣に頷く。
トーマスは、その様子を見て息を吐いた。
「……成長したな」
ルーウェンは照れくさそうに、そして少し――
寂しそうに答えた。
「させられました……」
視線の先。
窓口で帳面を抱えるエリナの姿。
文字を追い、
何度も確かめるようになぞっている。
同じく視線を向けたトーマスが、
感慨深げに言葉を漏らした。
「――あいつの無茶」
「無駄にならなかったな」
誰も、否定しなかった。
――夕方のピークを過ぎ
【S.O.M.P.O. ジャン】に静寂が訪れた。
やがて窓口は閉まり、
ギルドもその役割を終える。
「――今日は五つ……新しい文字が読めるようになりました」
後片づけをしながら、
エリナの顔にささやかな達成感が浮かぶ。
「ええ」
「昨日より、増えています」
多くを語らない雇い主だが、
その言葉には確かな手応えがあった。
「――ここで、役に立ちたいです――」
「すでに、立っています」
本心だった。
エリナは、深く頭を下げた。
――その夜の酒場。
「受付、増えてたな」
「説明がたどたどしいけど、あいつより緊張しねぇで済む」
「文字を習ってるらしい」
「いい顔してた」
ジョッキの音が、静かに重なる。
それを聞いていた別の冒険者が、静かに笑う。
「無謀は、減るだろうな」
「減らなきゃ、意味がねぇ」
誰かが、そうつぶやいた。
帳面の裏表紙に刻まれた名が、
つけたばかりの蝋燭の明かりに照らし出された。
――【S.O.M.P.O. ジャン】。
その下に小さく書き足された文字 ――【エリナ】――
これは、彼女に渡すために用意された一冊。
そして――
まだ白紙の未来。
剣と魔法の世界に、
学ばれる責任と、引き継がれる判断。
それは、静かに、確かに、次の命を守る準備を始めていた。
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次回更新:4/4(土)20:00予定です。




