第二章:一九七三年の春風
あの日、雨の横断歩道で動けなくなった私を運んだパトカーの、冷たいシートの感触が今も肌に残っている。
玄関先で私を抱きかかえた父さんの、言葉にならない呻きのような吐息。
そして、雨の中に立ち尽くしていた和子の、泣き出しそうな瞳。
「幸子。明日からは、自転車で行きましょう。お母さんが後ろを支えるから」
母さんの提案は、私をこれ以上傷つけないための精一杯の妥協案だった。
一九七三年の春、私は自分の足で歩くことを半分だけ諦め、鉄のフレームに身を委ねることに決めた。
朝の光が眩しい通学路。私は父さんが磨いてくれた通学用の自転車に跨る。
ペダルに足を乗せても、自分一人の力では踏み込むことができない。
けれど、私の後ろには和子がいた。
「サッちゃん、準備はいい? いくよ、せーの!」
和子が自転車の荷台を両手で力強く押し始める。
ゆっくりと車輪が回転し、私の頬を春の風が撫でていく。
歩いていた時よりもずっと速く、流れる景色が鮮やかに色づいた。
「あ、和子、サッちゃん! おはよー!」
路地の角から、同じクラスの美智子が手を振って現れた。
彼女は私の自転車の横に並ぶと、迷うことなく右のハンドル付近に手を添えた。
「今日は私がこっち側、担当するね。和子ちゃん、交代する時は言って」
美智子は屈託のない笑顔でそう言った。
パトカーで帰ったあの日以来、クラスの中で私は「可哀想な子」になったのだと思っていた。
けれど、和子がいつの間にか皆に話してくれていたらしい。
私には、一人では漕げない自転車を、一緒に押してくれる仲間がいた。
教室での昼休み。窓から差し込む春の光は、机の上に並ぶお弁当の湯気を白く透かして、穏やかな時間の重なりを教えてくれる。
私は、和子たちが購買部へパンを買いに行っている間、一人で静かにスケッチブックを開いていた。
真っ白な紙の上に、昨日見たパトカーの窓から見上げた、あの灰色の空と、その隙間に見えたはずの「碧」を描き足していく。
「……一ノ瀬。いい空を描くんだな」
頭上から降ってきた落ち着いた声に、私は肩を跳ねさせた。
見上げると、担任の高木先生が、丸まった出席簿を片手に私の手元を覗き込んでいた。
三十代の若い先生は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「先生、いつからそこに」
「さっきからだよ。邪魔して悪かったな。でも、君の描く空には深みがある。ただの青じゃない、何かを求めるような強さを感じるよ」
「求めるような……」
高木先生は、私の横の空いている席に腰を下ろした。
当時の学校では、先生と生徒の距離はもっと遠いものだったけれど、高木先生は時折、こうして私の隣に「一人の人間」として座ってくれた。
「君は、鳥になりたいと思ったことはあるか?」
先生の唐突な問いに、私は鉛筆を握る指を少しだけ強めた。
重力に逆らえない私の体。階段を一段上がるだけで息が切れる私の足。
「……毎日、思っています。あんな風に、何も気にせずどこへでも飛んでいけたら、どんなにいいだろうって」
「そうか。でもな、幸子。地面を這うように生きているからこそ、誰よりも高く、美しい空を心の眼で捉えることができる。君の絵には、その証拠が刻まれていると僕は思うよ」
先生の言葉は、私の胸の奥に灯った小さな火種のようだった。
放課後の帰り道、世界は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
美智子が私の自転車のハンドルを支え、和子が後ろの荷台を力強く押してくれる。
三人の影が長く、長くアスファルトに伸びて、まるで一本の大きな生き物になったみたいに見えた。
「ねえ、サッちゃん、美智子ちゃん。二人には、将来の夢ってある?」
坂道の途中で、和子がふと呼吸を整えながら尋ねた。
彼女の額には、私を運ぶためにかいた汗が、夕陽を浴びて宝石のように光っている。
「私はね、保母さんになりたいな。子供が大好きだから」
美智子が屈託なく答える。その言葉には、未来というものが当然のように続いていく確信が満ちていた。
和子は少し恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐな瞳で続けた。
「私は……東京のデパートで働いてみたい。綺麗な服に囲まれて、お給料をもらったら、サッちゃんをどこか遠い海に連れていくんだ」
和子の言葉に、私は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女たちの夢は、翼を持って自由に羽ばたく鳥のように軽やかだ。
けれど私の夢は、いつも「明日も同じように歩けること」という、地面に這いつくばったような祈りでしかなかった。
「……素敵だね。和子も、美智子ちゃんも」
私は、精一杯の笑顔を作って答えた。
置いていかれる。そんな言葉が、夕暮れの風に乗って私の耳元を掠めていく。
彼女たちは大人になり、恋をして、誰かと新しい家族を作っていく。
私は、その眩しい景色を、いつまでこうして見守ることができるのだろう。
「サッちゃんは何になりたい? やっぱり、絵描きさんかな」
和子が後ろから、優しく私の肩を叩いた。
私は、高く広がる夕焼け空を見上げた。
「ただいま」
玄関を開けると、出迎えた母さんの体から、独特な、苦い植物の匂いがした。
台所には見慣れない茶褐色の薬缶が置かれ、そこから重たい蒸気が立ち上っている。
母さんの顔は、火の粉を浴びたように赤らみ、瞳だけが異様に鋭く光っていた。
「おかえり、幸子。……見て、これ。お隣の奥さんに聞いたの。遠くの山の方に、どんな難病でも治すおじいさんがいるんですって。これ、その人が煎じてくれた特別な漢方なのよ」
母さんは、震える手で湯呑みに真っ黒な液体を注いだ。
それはまるで、私の絶望を煮詰めたような色をしていた。
私は、カバンを置くことさえ忘れて、その湯呑みを見つめた。
これで治るなら、去年の冬に試した「不思議な水」や、先月通った「気が流れる整体」で、私の足はもう動いているはずだった。
「……母さん、もういいよ。こんなの、効かないよ」
「何言ってるの! 飲んでみなければ分からないじゃない。あんた、二十歳までなんて、あんなお医者さんの言葉、信じちゃダメ。お母さんが、絶対に治してあげるから」
母さんの言葉は、愛情という名の重い鎖のように、私の体に巻き付いてくる。母さんは私を助けたいのではない。
娘が死ぬかもしれないという恐怖から、自分自身を助けたいだけなのだ。
冷めた自分の声が、私の心の中で響いた。
私は黙って湯呑みを手に取り、一気に飲み干した。
舌が痺れるような強烈な苦味が喉を通る。
母さんはそれを見て、ようやく満足そうに、けれど今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「偉いわ、幸子。明日も、明後日も、お母さんが作ってあげるからね」
私は、逃げるように二階の自分の部屋へと向かった。
一段、一段。漢方の苦味よりも、母さんの期待という重みの方が、私の足をもっと動かなくさせていくような気がした。
夜、二階の自室でスケッチブックを広げていると、階下から鈍い金属音が聞こえてきた。コン、コン、という規則的な音。
私は窓を開け、暗い庭を見下ろした。
裸電球の下で、父さんが一人、仕事着のまま蹲っている。
父さんの手元には、どこからか手に入れてきたらしい古い自転車のフレームと、分厚い鉄板、そしていくつかの工具が散らばっていた。
「……お父さん、何してるの?」
私の問いかけに、父さんは顔を上げずに、ただ短く答えた。
「……少しな。幸子、もう寝なさい」
父さんはいつもそうだ。
母さんのように「治る」という言葉を口にすることもないし、涙を見せることもない。ただ、黙々と何かを作っている。
よく見ると、父さんは自転車のペダル部分に、不思議な形の革ベルトを取り付けていた。足が滑り落ちないように固定するためのものだろうか。
父さんの不器用な指先が、小さなネジを回すために震えている。
その指は、油で黒く汚れ、仕事の苦労が刻まれていた。
私のために漢方を煎じる母さんの必死さと、夜の冷気の中で黙って鉄を叩く父さんの静けさ。
二人の愛が、今の私にはあまりに眩しすぎて、直視することができない。
「お父さんも、あんまり無理しないでね」
私がそう言うと、父さんは一瞬だけ手を止めた。
「ああ。明日には、もっと楽に漕げるようにしてやる」
父さんの声は、春の夜風に混じって少しだけかすれていた。
私は窓を閉め、電気を消した。暗闇の中で、再び聞こえてきた
金属音。それは、私の命を繋ぎ止めようとする、切ない鼓動のようだった。
翌朝、玄関を出ると、そこには昨夜の金属音の正体が待っていた。
私の自転車のペダルには、父さんが夜を徹して縫い付けたのであろう厚手の革ベルトが、誇らしげに、けれど静かに備え付けられていた。
「……これなら、足が外れん」
父さんは、朝刊を読みながら一言だけそう言った。
私は、その革の匂いを胸いっぱいに吸い込み、自転車に跨る。
足の甲をしっかりと包み込むベルトの感触。それは、父さんの大きな手が私の足を支えてくれているような、不思議な安心感があった。
「サッちゃーん! 今日も押すよー!」
和子と美智子が、校門へ続く坂の下から手を振っている。
私がペダルに足を固定し、合図を送ると、二人の力強い手が私の背中を、未来へと押し出した。
「あ、昨日より軽い! サッちゃん、足がちゃんと動いてるよ!」
和子の歓声が、春の澄んだ空気に響き渡る。
父さんの細工のおかげで、私のわずかな筋力でも、効率よく車輪へと力が伝わっているのが分かった。
車輪が回転するたびに、道端に咲く菜の花の黄色が、鮮やかなリボンのように後ろへと流れていく。
いつか、このベルトがあっても足が動かなくなる日が来る。
和子の手が、私の背中に届かなくなる日が来る。
それでも、今、私の頬を叩くこの風は本物だ。
「ねえ、和子、美智子ちゃん! 私、もっと遠くまで行けそう!」
私の声に、二人の笑い声が重なる。
一九七三年の春風は、切なさを孕みながらも、
今の私をどこまでも自由な空の下へと運んでくれた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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