第一章:翼の重さ
新しい制服の紺色は、まだ少し硬くて、私の痩せた肩を遠慮がちに押し返してくる。
鏡の中に立っているのは、中学生になったばかりの私、一ノ瀬幸子。
本当なら、期待で胸を弾ませるはずの十三歳の春。けれど、私は鏡の中の自分を、どこか遠い国の出来事を見つめるような、冷めた瞳で眺めていた。
「幸子、準備はできた? 忘れ物はない?」
階下から母さんの声が響く。その明るさの中に、隠しきれない微かな震えが混じっているのを、私は十二歳の終わりの冬に気づいてしまった。
進行性筋ジストロフィー。
お医者様が言ったその長い名前は、私の筋肉を少しずつ眠らせて、二十歳になる頃には、私を空ではなく深い眠りへと連れていくという魔法の呪文のようだった。
「サッちゃーん、行こう!」
玄関を開けると、幼馴染の和子がまぶしい笑顔で立っていた。
私はゆっくりと、手すりを掴んで最後の一段を下りる。一段、一段、自分の命の重さを確かめるような作業だ。
一九七三年の春の光が、容赦なく私の目に飛び込んできた。
近所の公園の桜は、もうすぐ満開を迎えようとしている。
「……うん、行こう。和子」
私は和子の隣に並び、ゆっくりと歩き出す。
本当は、以前のように笑いながら、あの坂道を駆け上がりたかった。
けれど今の私にできるのは、和子の歩調に必死についていくことだけだった。
和子は、私と並んで歩くとき、決して先を急ごうとはしなかった。
おかっぱ頭を揺らしながら、昨日のテレビの話や新しい担任の先生の噂を、途切れることなく話し続けてくれる。
彼女は私の足元の覚束なさに触れるようなことは一切言わない。
けれど、砂利道や急な坂道にさしかかると、さりげなく私の左側に回り込み、肘のあたりをひょいと支えてくれる。
その温かさが、今の私にとっては、どの薬よりも確かな救いだった。
周囲には、新しい環境に浮き足立つ新入生たちが溢れている。
その中を、私は自分の意思とは関係なく左右に揺れる体を引きずるようにして進んでいく。
時折、追い越していく生徒たちの視線が、私の足元に突き刺さるのを感じた。
「可哀想な子」か、あるいは「変な歩き方をする子」か。
「ねえ、サッちゃん、見て! あそこ、屋上のあたり」
和子が空を指差した。
見上げると、一機の白い紙飛行機が、春の柔らかな風に乗って円を描くように滑空していた。
それは校舎の壁にぶつかることなく、まるで意志を持っているかのように高く、高く、吸い込まれるような碧い空へと昇っていく。
「すごい……。あんなに高いところまで」
私の呟きは、誰の耳に届くこともなく、春の風にさらわれていった。
私は、重い足取りを一歩ずつ進めながら、あんな風に重力から自由になれたら、と願わずにはいられなかった。
一年三組の教室の扉は、いつもよりずっと重く感じられた。
和子が「せーの」と小声で合図を送り、引き戸を横に滑らせる。
途端に、それまで騒がしかった教室の空気が、ふっと冷えるのが分かった。
「……あの子、どうしたのかな」
「病気なのかな。歩き方、ちょっと変じゃない?」
四月の柔らかい光が差し込む教室で、新しい制服に身を包んだ同級生たちの視線が、一斉に私の足元に集中した。
私は、わざと顔を上げて、まっすぐ前を見つめた。
左右に揺れる体を必死で制御しようとすればするほど、膝が笑い、意識すればするほど、次の一歩をどこへ踏み出せばいいのか分からなくなる。
「サッちゃん、窓側の後ろの席だよ。一番いい席だね」
和子が明るい声を出しながら、私の腕を優しく引く。
彼女は、私のために向けられた刃のような好奇の視線を、自分の背中で全て跳ね返そうとしていた。
自分の席に座り、ようやく重力から少しだけ解放されたとき、私は深く息を吐いた。
木製の机は使い込まれていて、誰かが彫った小さな傷が私の指先に触れる。
「……ありがとう、和子」
「何言ってるの。サッちゃん、ここからなら空がよく見えるよ」
和子は自分の席を私の斜め前に確保して、くるりと振り返って笑った。
その笑顔の向こう側、窓の外には、どこまでも続く碧い空が広がっている。
校庭の隅に咲く桜の木が、時折風に揺れて、花びらを高く舞い上げていた。
四月の半ばを過ぎた頃、入学して初めての本格的な雨が降った。
朝から空は低い灰色に閉ざされ、窓ガラスを叩く雨音は、私の重い足取りをさらに地面へと縫い付けるような響きを持っていた。
「幸子、今日は車で行きましょう。お父さんが準備してるわ」
母さんの言葉に、私は黙って頷くしかなかった。
雨の日は、ただでさえ自由の利かない足が、濡れた路面で滑りやすくなる。
和子と一緒に歩く楽しみを奪われた空しさが、胸の奥に小さく澱のように溜まる。
父さんの運転するサニーの助手席に座ると、ワイパーが忙しなく左右に振れる音が車内に響いた。
普段なら和子と三十分かけて歩く道が、車だとわずか数分で通り過ぎていく。
雨粒に煙る車窓の外を、色とりどりの傘が流れていった。
「……和子、もう学校に着いたかな」
私は、窓を流れる雫を見つめながら呟いた。
彼女はきっと、長靴を履いて、水たまりを避けながら元気に歩いている。
私を待つ必要のない彼女の歩調は、きっと今の私よりずっと軽いはずだ。
そんな当たり前のことに、微かな嫉妬と、それ以上に深い申し訳なさを感じてしまう自分が嫌いだった。
校門の前に車が止まると、父さんは何も言わずに傘を差して外へ出た。
助手席の扉が開けられ、父さんの大きな手が差し出される。
「……ありがとう、お父さん」
「いいんだ。帰りも、ここで待ってるからな」
父さんの不器用な優しさが、今は少しだけ痛かった。
見上げた空はどこまでも灰色で、私が憧れる碧は、雲のずっと向こう側に隠れてしまっていた。
放課後、雨脚はさらに強まっていた。
校門の近く、軒下で父さんの車を待とうとした私の袖を、和子がぐいと引っ張った。
「サッちゃん、一緒に帰ろ。私、大きな傘持ってきたんだよ」
和子は、赤い大きな蝙蝠傘を広げて、悪戯っぽく笑った。
父さんとの約束がある、と言おうとしたけれど、和子の瞳に宿った「いつも通り」でいたいという真っ直ぐな光に、私は毒気を抜かれてしまった。
「……でも、父さんが迎えに来ちゃうよ」
「大丈夫。公衆電話でおじさんに電話しよ? 今日は和子と帰るから心配いらないって。ね、いいでしょ?」
私は、和子のその強引さに、救われるような気持ちで頷いた。
十円玉を握りしめ、赤い公衆電話から父さんに電話をかけると、受話器の向こうで父さんは少しだけ黙ったあと、「……転ぶなよ」とだけ短く言って、電話を切った。
「よし、出発!」
和子の傘の中は、狭くて温かい秘密基地のようだった。
私たちは肩を寄せ合い、雨の舗装路を一歩ずつ進み出した。
雨に濡れたアスファルトは黒く光り、水たまりが空の灰色を映している。
「サッちゃん、ゆっくりでいいからね。私がついてるから」
和子は私の右腕をしっかりと自分の左腕で抱え込むようにして、私の揺れる歩調を自分の体で支えてくれた。
雨粒が傘を叩く「トントン」という音が、私たちの鼓動に混じっていく。
けれど、駅前の大きな交差点に差し掛かったとき、私の足に、突然、鉛のような冷たい感覚が走り抜けた。
信号が青に変わり、私たちは横断歩道を渡り始めた。
雨に濡れた白い線は、鏡のように光って足を滑らせようと誘っている。
焦ってはいけない。そう自分に言い聞かせるほど、膝の震えが止まらなくなった。
「サッちゃん、大丈夫? あと少しだよ」
和子の励ます声が、雨音にかき消されそうになる。
半分ほどまで進んだときだった。私の左足の感覚が、ふっと消えた。
自分の足がどこにあるのか分からない。地面を掴もうとした瞬間、膝が折れ、私の体は無慈悲な重力に引き寄せられて崩れ落ちた。
「サッちゃん!」
アスファルトに打ち付けた膝の痛みよりも、動かないことの恐怖が勝った。
立ち上がろうとしても、腕に力を込めても、腰から下が泥のように重い。
雨は冷たく私の制服を濡らし、信号機は非情にも点滅を始めた。
「……動けない、和子。足が、動かないの」
「嘘……。待って、今、立たせてあげるから!」
和子が細い腕で私を抱え上げようとするけれど、濡れた体は滑り、二人して冷たい水たまりに沈み込んでいく。
その時、雨の向こうから、白と黒の車体が静かに近づいてきた。
赤い灯が、雨粒を反射して不規則に回っている。パトカーだった。
「どうした、大丈夫か」
開いた窓から、制服を着た警察官が声をかけてくれた。
情けなくて、申し訳なくて、私は視界を覆う雨と涙でぐちゃぐちゃになりながら、ただ頭を振ることしかできなかった。
警察官は二人を車に乗せ、私の家まで届けてくれた。
「歩ける」という私の淡い希望が、雨の交差点で完全に折れた日。
玄関で私を抱きしめた母さんの震える肩越しに、和子が申し訳なさそうに雨の中で立ち尽くしているのが見えた。
私の世界が、音を立てて変わり始めていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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