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第十一章:碧の残響


 幸子が空へと旅立ってから、三度目の春が巡ってきた。

 一九七九年。昭和という時代が、より激しく、より彩り豊かに移ろいゆく中で、私は十八歳の春を迎えようとしていた。

 

 私の机の上には、一通の通知が置かれている。

 それは、都内の美術大学への入学を許可する、簡素な、けれど重い重い一枚の紙だった。

 

 「……受かったよ、サッちゃん」

 

 私は、あの時幸子が遺した革張りのスケッチブックをそっと撫でた。

 あの日、幸子の部屋から見た飛行機雲の輝きを胸に、私はがむしゃらに筆を動かし続けてきた。

 高校の美術部では「一ノ瀬の再来」と呼ばれることもあったけれど、私には分かっていた。

 私が描いているのは、幸子が描きたかった空ではなく、幸子を失ったあとの、私の目に映る世界なのだということを。

 

 けれど、最近の私は、大きな壁の前に立ち尽くしていた。

 大学の入学試験のために、何百枚、何千枚と描いてきた石膏デッサンや風景画。

 それらは正確で、技術的には申し分ないものだった。

 けれど、そこにはあの頃、幸子と一緒に一つのキャンバスに向かっていた時に感じた、心臓が焼けるような「命の脈動」が足りないような気がしてならなかったのだ。

 

 「私の絵は、ただの『記録』になっていないかな……」

 

 独り言が、冷たいアトリエの空気に溶けていく。

 私は、大学の入学準備のために荷物をまとめながら、ふと思い立って、あの病院の近くにある公園へと向かった。

 

 あの日、幸子を車椅子に乗せて、一緒に見上げたあの桜の木。

 

 三年という月日は、街の景色を少しずつ変えていた。

 新しいビルが立ち並び、あの頃の静かな風景は少しずつ失われつつある。

 けれど、公園の入り口に立つ大きな染井吉野だけは、あの日と変わらない薄桃色の雲を、その枝いっぱいに広げていた。

 

 桜の根元に座り込み、私はスケッチブックを膝に乗せた。

 この季節特有の、湿り気を帯びた風が、三年前のあの日の記憶を連れてくる。

 

 「……一ノ瀬の再来、か。重たいな」

 

 ため息が、淡い花びらと一緒に舞い上がる。

 大学に受かった喜びよりも、「幸子の分まで」という義務感が、いつの間にか私の筆を重くさせていた。

 上手く描こうとすればするほど、私の絵からはあの頃の「碧」が失われていくような気がして。

 

 「その桜、三年前よりも少しだけ、枝が伸びたと思いませんか」

 

 ふいに頭上から声をかけられ、私は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、見覚えのある紺色のダッフルコートを着た、二十歳そこそこの青年だった。

 

 「……あなたは?」

 

 「覚えていますか。一度だけ、高木先生の美術準備室でお会いしたことがあります。僕は先生の教え子で、今は教育大で美術を専攻しています。佐伯といいます」

 

 佐伯。その名前に聞き覚えがあった。

 高木先生が「一ノ瀬の感性に近い卒業生がいる」と、かつて目を細めて語っていた、あの先輩だ。

 

 「佐伯さん……。どうして、ここに?」

 

 「今でも時々、高木先生を訪ねて母校へ行くんです。今日も先生に会ってきたのですが……先生、今でもあの『夜明け前の碧』を、大切に美術室の一番いい場所に飾っていましたよ。新入生が入ってくるたびに、先生はこう言うんです。『技術を学ぶ前に、まずこの絵が放つ命の音を聴きなさい』って」

 

 佐伯さんは、私の隣に座り、懐かしそうに空を見上げた。

 

 「あの絵が、先生の教え子たちの心を救い続けているんですよ。不自由な身体で、それでも空を掴み取ろうとした一人の少女がいた。その事実が、くすぶっている生徒たちの筆を動かす原動力になっている。……一ノ瀬さんの絵は、今も学校の中で『生きている』んです」

 

 佐伯さんの言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 幸子が旅立った後も、彼女の魂は高木先生の手によって、次の世代へと受け継がれていたのだ。

 



 「高木先生、実は今、小さな企画展を準備しているんです。一ノ瀬さんの遺作と、彼女に影響を受けた僕たちの作品を集めた『空の記憶展』という名前でね」


 佐伯さんの言葉に、私は息を呑んだ。

 幸子の絵が、閉ざされた美術室から出て、再び外の光を浴びる。

 その事実は、私にとって何よりの報せだった。


 「君にも、参加してほしいそうです。大学へ行く前の、今の君にしか描けない絵を出してほしいと」


 「今の私に……」


 私は膝の上のスケッチブックを強く握りしめた。何を描けばいいのだろう。

 幸子の代わりの絵ではなく、私自身の絵。

 けれど、今の私の内側には、幸子を失ったあとの空白しか見当たらない。


 「迷っているのなら、これを見てください。高木先生が『いつか和子ちゃんが壁にぶつかった時に渡してくれ』と、僕に託されていたものです」


 佐伯さんがカバンから取り出したのは、古びた茶封筒だった。中には、数枚の薄いクロッキー帳の切れ端が入っていた。


 それは、幸子が入院する直前、放課後の誰もいない美術室で描いたと思われる、殴り書きのような素描だった。

 そこには、いつもの繊細な風景画ではなく、一人の少女の背中が描かれていた。

 キャンバスに向かい、髪を振り乱して筆を動かす少女。

 力強く、泥臭く、けれど誰よりも生命力に溢れたその後ろ姿は――紛れもなく、私だった。


 絵の隅には、震える文字でこう書き添えられていた。


 『和子の描く背中は、空よりも自由で、あたたかい。私は、この背中をずっと見ていたい。』


 「……ぁ……」


 喉の奥が熱くなり、視界が急激に歪んだ。

 私は、幸子のために描いているつもりだった。けれど違った。

 幸子は、私の「技術」や「正確さ」ではなく、ただひたむきに「描くこと」に命を燃やす私の姿そのものを、愛してくれていたのだ。


 「彼女は、君を自分の身代わりになんて思っていなかった。君という光に、自分を重ねていたんですよ」


 佐伯さんの優しい声が、私の心の壁を静かに、けれど力強く打ち砕いた。



 アトリエに戻った私は、これまで描いてきた「正解を探すためのスケッチ」をすべて床に置いた。

 イーゼルの上には、真っ白な大判のキャンバスが据えられている。

 

 私は、佐伯さんから受け取った幸子のクロッキーを机の端に置いた。そこに描かれた私の背中は、決して美しく整ったものではなかったけれど、何かに必死に手を伸ばそうとする野性味のある力強さに満ちていた。

 

 (サッちゃん、私は、あなたの「代わり」じゃなくて、あなたの「続き」を描くよ)

 

 私は、かつて幸子と二人で混ぜ合わせたあの「碧」を再現しようと、パレットに絵の具を絞り出した。

 コバルトブルーに、ほんの少しのウルトラマリン、そして記憶の中にあるあの冷たくて温かい風の色。

 

 描き始めたのは、空そのものではなかった。

 画面の大部分を占めるのは、逆光の中に立つ二人の少女の影だ。

 一人は車椅子に座り、一人はその背を押しながら、眩しすぎるほどの光の洪水を見上げている。

 光の向こう側は真っ白に飛ばし、あえて「空」を描かない。その代わりに、二人の境界線が溶け合う場所に、あの深い「碧」を置いていく。

 

 「……これだ」

 

 筆がキャンバスを叩く音が、静かな部屋にリズムを刻む。

 正確な形を追うのではなく、あの時、幸子の隣で感じた「生きたい」という渇望、そして彼女が私に託した「自由」という重みを、筆先に込める。

 

 パレットの上で色が混ざり合うたびに、あの病室の匂い、病を抱えた幸子の手の微かな温もり、そして最後に見た飛行機雲の白さが、鮮烈に蘇ってくる。

 

 (指が筆を動かすんじゃない。心が、色を創り出すんだ)

 

 幸子の声が、耳元で聞こえた気がした。

 私は、涙で視界を滲ませながらも、迷いなく筆を走らせた。

 かつて幸子が私の身体を使って描いたように、今度は私が、私のすべてを幸子の魂に貸し与えるような、不思議な一体感。

 

 キャンバスの上に、新しい、けれど懐かしい「碧」が、呼吸を始めていた。

 


 市民ギャラリーの一角、柔らかなスポットライトに照らされたその絵の前に、一人の男性が立ち尽くしていた。

 三年の月日は、高木先生の白髪を少しだけ増やし、その背中を以前よりも少しだけ丸くさせていたけれど、絵を見つめる鋭い眼差しだけは、あの美術室にいた頃のままだった。

 

 「……一ノ瀬の碧、そして、お前の光か」

 

 背後から近づいた私に気づくと、先生は眼鏡を外し、目元を強く拭った。

 先生の視線の先には、逆光の中で溶け合う二人の少女の影と、その足元から溢れ出すような深い碧の階調がある。

 それは、幸子が遺した『夜明け前の碧』から三年、今の私が出した一つの答えだった。

 

 「先生。私、ずっと幸子の代わりに描かなきゃいけないと思っていました。でも、それは幸子が一番望んでいないことだって、ようやく気づけたんです」

 

 私の言葉に、先生は深く頷いた。

 そして、教壇に立つ時のあの厳格な、けれど慈愛に満ちた声で静かに話し始めた。

 

 「和子、これが私の、お前への最後の授業だ。……芸術とは、欠損を埋めるためのものではない。失われた命を嘆くための道具でもない。それは、今ここにある命が、かつてそこにあった命と出会い、新しい火を灯すための儀式なんだ」

 

 先生は、展示室に飾られた他の教え子たちの作品にも目を向けた。

 

 「一ノ瀬幸子という才能は、確かに早すぎた死によって途絶えたかもしれない。だが、彼女が命を削って残した『色』は、こうしてお前の筆を動かし、佐伯の心を震わせ、まだ見ぬ次の世代の瞳を輝かせている。……死は終わりではない。表現者が魂を込めた作品は、受け取る誰かがいる限り、永遠に代謝を続ける命そのものなんだよ」

 

 先生の言葉が、私の胸の奥に澱んでいた最後の迷いを、温かな雨のように洗い流していった。

 私は、美大という新しい世界へ行くことに、もう恐怖を感じていなかった。

 

 「先生……ありがとうございます。私、大学へ行っても、描き続けます。自分自身の『今』を、幸子が見てくれているこの世界を」

 

 高木先生は、教え子の旅立ちを祝福するように、私の肩をポンと一度だけ、力強く叩いた。

 


 上京を明日に控えた早朝、私は重いボストンバッグを玄関に置き、最後にもう一度だけ一ノ瀬の家を訪ねた。

 庭の隅では、幸子が「一番に春を知らせてくれる」と愛でていた沈丁花が、その芳しい香りをあたりに振りまいている。

 

 「和子ちゃん、いよいよ明日ね。……幸子もきっと、あなたの旅立ちを喜んでいるわ」

 

 母さんに導かれ、私は仏間の『夜明け前の碧』の前に座った。

 あの絵は、何度見ても新しい発見がある。闇の中に潜む微かな希望の色。幸子が命の灯火を絞り出して描いたあの碧は、三年という月日を経ても、色褪せるどころか、より深く、より静謐な輝きを放っているように見えた。

 

 「あの、和子ちゃん。……引っ越しの準備をしていたら、幸子の机の奥から、これが出てきたの」

 

 母さんが、大切そうに両手で持ってきたのは、小さな、布張りの小箱だった。

 

 「幸子が亡くなる数日前、私に『これは、和子ちゃんが本当に自分の道を見つけた時に渡して』って預けていたものなの。……企画展でのあなたの絵を見て、今がその時だと思ったわ」

 

 私が震える手でその蓋を開けると、そこには、一本の細い筆が納められていた。

 それは、幸子が一番大切にしていた、極細の面相筆。

 

 「……これ、サッちゃんがいつも光を描く時に使っていた……」

 

 筆の軸には、幸子の指が何度も握りしめたことによって付いた、小さな傷や色の擦れがある。

 それは、彼女が「表現者」として戦い抜いた証そのものだった。

 

 「その筆で、和子ちゃんの物語を、もっと広い空に描いていって。それが幸子の一番の願いだと思うから」

 

 私は、その筆を胸に抱きしめた。

 幸子の魂は、絵として残るだけでなく、この一本の筆となって、これからの私の指先に宿り続けるのだ。

 

 一ノ瀬の家を出て、私は青く晴れ渡った空を見上げた。

 そこには、あの日見たような真っ直ぐな飛行機雲が、どこまでも続く未来へと伸びていた。



この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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