第十章:卒業
一九七六年三月。
窓の外では、固かった桜の蕾が、春の陽光に誘われるようにして薄桃色の先を覗かせ始めていた。
今日は、卒業式。
本来なら私も、あの着慣れたセーラー服に身を包み、和子と肩を並べて校門を潜っていたはずの日だ。
「サッちゃん、おはよう。……今日は、一番綺麗な空だよ」
病室の重い扉が開き、和子が姿を見せた。
面会謝絶の制限が今日だけは特別に緩和され、彼女は式典の前に病院へと駆けつけてくれたのだ。
彼女の胸元には、白いコサージュが揺れている。それは、私と彼女、二人の卒業を祝うための花のように見えた。
私はもう、目を開けることさえ容易ではなかった。
視界は白く霞み、耳元で鳴るモニターの音だけが、私がまだこの世界に踏み止まっていることを教えてくれる。
けれど、和子が握ってくれた手の感触だけは、何よりも鮮明に、私の魂に届いていた。
「学校にはね、サッちゃんの『夜明け前の碧』が飾ってあるよ。高木先生が、一番光の当たる場所に置いてくれたんだ。みんな、その絵の前で足を止めて……サッちゃんの空を見てるよ」
和子の声は、春の風のように優しく、私の意識を撫でていく。
私は酸素マスクの下で、微かに頬を上げた。
私の身体はここにあるけれど、私の心は、あの教室の、あの絵の中に、そして和子の心の中に、ちゃんと「卒業」しに行っているのだ。
「幸子、和子ちゃん。……そろそろ、式の時間だね」
父さんの静かな声がした。
和子は私の手を一度だけ強く握りしめ、それから震える声で言った。
「サッちゃん……行ってくるね。私たちの卒業証書、二人分、ちゃんと受け取ってくるから。……待っててね」
廊下を遠ざかっていく和子の足音。
私は、自分の中に残っている最後の命の炎を、静かに見つめていた。
学校の体育館には、厳かな『仰げば尊し』のメロディが流れていた。
パイプ椅子が並ぶ三年一組の列。そこには、ぽっかりと一つだけ、主のいない空白があった。
和子はその隣に座り、まっすぐ前を見つめていた。
視線の先にあるのは、壇上に飾られたあの『夜明け前の碧』。
「卒業生、起立」
学年主任の号令とともに、一斉に椅子が引かれる音が響く。
和子は、隣に幸子が立っているかのように、少しだけ右側の空間を開けて背筋を伸ばした。
和子の耳には、今も幸子の、あの鈴を転がすような笑い声が聞こえていた。
同じ時刻。
病院の病室では、空気が極限まで薄くなったかのような静寂が支配していた。
「……はぁ、……っ、……」
私の肺は、もう一度膨らむための力さえも使い果たそうとしていた。
モニターの波形は、高く険しい山を造るのをやめ、今にも消え入りそうな小波のように、ゆっくりと、等間隔に平らになっていく。
父さんは、私の枕元で時計を見つめていた。
式典が進み、ちょうど卒業証書授与が始まる頃。
私は、まどろみの中で、遠くから聞こえてくる「名前を呼ぶ声」を聴いていた。
(一ノ瀬……幸子)
それは、高木先生の声だっただろうか。それとも、私の魂を迎えに来た、空の呼ぶ声だっただろうか。
私は、重い瞼を動かそうとした。
今、この瞬間、私の名前が学校という場所で刻まれている。
不自由だった十六歳の少女としての時間が、間もなく終わろうとしていた。
「幸子、頑張らなくていいんだぞ。……よく、ここまで描いたな」
父さんの手が、私の額を優しく撫でた。その手の温かささえも、今はもう、光の粒のように遠く、淡いものになっていた。
「一ノ瀬幸子」
静まり返った体育館に、高木先生の、震えを堪えた力強い声が響き渡った。
一瞬の間を置いて、列の中から「はい!」という、澄み渡るような返事が上がった。
それは和子の声だったけれど、その場にいた全員が、そこに幸子の魂が宿っていることを確信していた。
和子は一人の想いを背負い、壇上へと歩みを進める。
同じ瞬間。
病室のモニターが、低く、長く、終わりの音を奏で始めた。
「……幸子」
父さんが、震える手で私の頬を包み込んだ。
私の視界からはもう、白い天井も、父さんの涙も見えてはいなかった。
ただ、身体を縛り付けていた重力がふっと消え、どこまでも透明な碧色の世界へと、意識が溶け出していくのを感じるだけだった。
「……あなた、約束を」
母さんの掠れた声に促され、父さんは立ち上がった。
彼は迷うことなく窓際へと歩み寄り、重いサッシの鍵を外した。
ガラガラと音を立てて開け放たれた窓から、三月の、少し湿り気を帯びた春の風が、一気に病室へと流れ込んできた。
それは、土の匂いと、微かな花の香りを運んでくる、生命の息吹そのものだった。
「幸子、見てごらん。窓、全部開けたぞ。……自由だぞ、幸子」
父さんの声に導かれるように、私の魂はベッドを離れた。
酸素マスクも、車椅子も、動かない指先も、すべてをあとに残して。
四角く切り取られた枠を飛び越え、私は、ずっと憧れていた本物の空へと、その一歩を踏み出した。
頬を打つ風は驚くほど優しく、私の背中を祝福するように押し上げていた。
身体が、羽毛よりも軽かった。
今まで私をベッドに縫い付けていた、あの鉛のような重みも、肺を締め付けていた熱い痛みも、もうどこにもない。
私は、開け放たれた窓から溢れ出す光の粒に混じって、ぐんぐんと高度を上げていった。
見下ろせば、白い市立病院の建物が、まるで子供の積み木のように小さくなっていく。
その一角、私のいた部屋の窓が大きく開かれ、父さんと母さんが空を見上げているのが見えた。
二人は、約束通り、泣き顔を拭って、必死に笑顔を作っていた。
その唇が「いってらっしゃい」と動くのが、風の音に混じって私の魂に届いた。
「……うん。いってきます、お父さん、お母さん」
私はさらに高く、春の風に乗って舞い上がった。
街は、淡い桜色と若草色に彩られたパッチワークのようで、その中心に、懐かしい母校の校舎が見えた。
ちょうど式が終わったのだろう。
校門からは、卒業証書の筒を手にした生徒たちが、笑い声を上げながら溢れ出してきていた。
その喧騒の中に、私は彼女を見つけた。
和子。
彼女は、二本。自分の分と、私の分の卒業証書を大切に胸に抱え、校門の前で一度立ち止まった。
そして、吸い込まれるような碧い空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「サッちゃん……自由になれた?」
和子の心の声が、風に乗って私の頬を撫でる。
私は彼女の周りを一回転するように、光となって降り注いだ。
「なれたよ、和子。見て、私は今、あなたの描いてくれたあの空の中にいるよ」
私はもう、誰の手も借りずにどこへでも行ける。
この無限に続く『碧』そのものになって、和子を、家族を、いつまでも見守り続けることができるのだ。
私が病院の廊下に足を踏み入れたとき、そこにはもう、生命の騒がしさは微塵も残ってはいなかった。
白く長い廊下は、西日に照らされて不自然なほどオレンジ色に輝き、看護師たちの慌ただしい足音さえも、どこか遠い世界の出来事のように聞こえた。
一〇五号室。幸子の部屋の前に立ったとき、私は自分の心臓が、耳元で鐘を突くように激しく鼓動しているのを感じた。
(開けたくない。開けたら、本当に終わってしまう)
震える手でドアノブに触れたとき、中からゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは、目を真っ赤に腫らした幸っちゃんの母さんだった。
彼女は私の姿を見つけると、力なく、けれど確かな慈しみを込めて微笑んだ。
「和子ちゃん。……待っていたわよ」
母さんは私の手から、あの日、校門で握りしめ続けていた卒業証書の筒をそっと受け取った。
「これでいいの。あの子、最期まで笑っていたわ。『和子ちゃんは今、式場でお返事してるかな』って。和子ちゃんが来なかったおかげで、あの子はね、自分も同じように卒業して、これからあなたと一緒に高校へ行く夢を見ながら、安らかに眠りについたの」
私は崩れ落ちるように、幸子のベッドの横に膝をついた。
白いシーツに横たわる彼女は、ただ少し深い眠りについているだけのようだった。
頬にはまだ、春の陽光のような温かみが残っている気がして、私は指先でその頬に触れた。
「サッちゃん……ごめんね。隣にいなくて、ごめんね……」
涙が溢れて止まらなかった。
私が守ったのは彼女の夢だったのかもしれない。
けれど、それは同時に、彼女の最期の孤独を放置したという、私自身の消えない十字架となった。
一九七六年の春。私たちは、同じ空の下で、決定的に違う場所へと卒業してしまったのだ。
幸子の枕元には、彼女が最期まで離さなかったというスケッチブックが置かれていた。
それは、高木先生がかつて彼女に贈った、あの革張りの特別な一冊だった。
私は幸子の母さんの許しを得て、震える手でその表紙をめくった。
そこには、病状が悪化し、自由に動かなくなったはずの指で、懸命に描かれた「碧」の記憶が並んでいた。
初期のページには二人で笑い合った美術室の情景が、そして終わりの方になるにつれ、形を失い、ただ純粋な色彩だけが渦巻く「空」の断片が記されていた。
最後の一ページをめくったとき、私は息が止まるかと思った。
そこには、歪んだ文字で、けれど紙を突き破らんばかりの筆圧で、私への言葉が遺されていたのだ。
『和子ちゃんへ。卒業おめでとう。
私は一足先に、ひこうき雲に乗って空へ行くね。
私の筆は、和子ちゃんにあげる。
だから……私の代わりに、もっと広い世界を描いて。
和子ちゃんが描く碧の中に、私はずっと生きているから』
それは、一六歳の少女が遺すにはあまりに重く、あまりに美しい「呪い」だった。
私は、幸子の冷たい指から、大切に握られていた一本の筆を抜き取った。
穂先は使い込まれて擦り切れていたけれど、そこには彼女が最期まで灯し続けた命の熱が、確かに宿っているように感じられた。
「……描くよ、サッちゃん。あなたが、どこにいても見えるくらいの、大きな空を」
私は、彼女から託された筆を、自分の胸に強く押し当てた。
私の右手に、彼女の魂が溶け込んでいくような感覚。
一九七六年三月十五日。
この日、私は「自分のために描く」ことをやめた。
幸子の身代わりとして、彼女が見ることのできなかったすべての景色を、碧い絵の具に変えて記録していく。
それが、生き残った私の義務なのだ。
通夜の晩、美術室の隅に置いてあった幸子のイーゼルが、ひっそりと彼女の家に運ばれた。
祭壇の横に置かれたそのイーゼルには、私たちが描き上げたあの「未完の青」のキャンバスが立てかけられていた。
弔問に訪れたクラスメイトたちは、その絵を見て、誰もが言葉を失い、ただ静かに涙を流した。
「一ノ瀬さんは、この空になりたかったんだな」
高木先生が、私の隣で低く呟いた。
先生の手には、幸子が手に入れるはずだったもう一つの卒業証書が握られていた。
先生はそれを、幸子の棺の中に、そっと差し入れた。
「和子。お前はこれから、高校へ行き、広い世界へ出る。だが忘れるな。お前の筆先には、常にこの少女の魂が宿っている。お前が描くことをやめたとき、幸子の存在もこの世から消えてしまう。……残酷なことを言うようだが、お前は描き続けなければならん」
先生の言葉は、冷たい夜風のように私の心を通り抜けた。
描き続けなければならない。
その言葉が、私のこれからの人生のすべてを決定づけた。
一九七六年のこの夜から、私の描く空には、常に一人の少女の影が寄り添うことになった。
夜が更け、線香の香りが立ち込める中で、私は一人、幸子の顔を見つめていた。
死に化粧を施された彼女は、地上での苦しみから解き放たれ、今にもひこうき雲のように軽やかに、どこか遠くへ飛び立っていきそうだった。
(サッちゃん。あなたは自由になったんだね。……私は、これから一生、この筆と一緒に、碧い迷宮を歩いていくよ)
私は、ポケットの中で彼女の筆を握りしめた。
指先に伝わる木の感触が、これから始まる長い旅路の唯一の道標であるかのように。
翌日、葬儀を終えた私たちは、丘の上にある火葬場へと向かった。
火葬場の煙突から立ち上る薄い煙が、春の澄んだ空へと吸い込まれていく。
その煙は、昨日見たひこうき雲とは違い、灰色で、重く、どこまでも現実的だった。
「幸子――!」
誰かの叫び声が、山々に響いては消えていく。
私は叫ばなかった。
ただ、空が眩しくて、目を細めていただけだ。
一九七六年の春が、猛烈な勢いで過ぎ去ろうとしていた。
私たちが「子供」でいられた最後の季節。
幸子がこの地上に、確かな足跡を残していた最後の時間。
帰り道。
私は一人、あの中学校の校門の前に立ち寄った。
昨日、私が座り込んでひこうき雲を見上げた石段。
そこには、誰かが落としたのか、一輪の黄色いタンポポが、風に吹かれて震えていた。
私はその花を拾い上げ、幸子の筆と一緒にカバンに仕舞った。
(さようなら、サッちゃん。……いいえ、行ってきます、だね)
明日からは、もう「一ノ瀬さんと私」ではない。
私は私という器を使って、幸子の続きを生きていく。
新しい日々は、もはや私一人のものではなかった。
一九七六年。高度経済成長の喧騒が遠のき、時代が少しずつ落ち着きを見せ始める中で、私の「碧の巡礼」は、ここから静かに、けれど力強く始まろうとしていた。
見上げた空には、今日も一筋のひこうき雲が、真っ直ぐに明日へと伸びていた。
それは、彼女が遺した最後の筆跡。
私はその光を追いかけるように、ゆっくりと、新しい一歩を踏み出した。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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