草原にぽつりとある小さな湖
「うわぁぁっ! 水妖だっ、水妖が出たぁっ!」
「誰が水妖だくらぁ!」
アタシは逃げていく失礼な男に怒鳴った。しかし男の耳はどうやら飾りのようで、人の話をてんで聞いちゃいない。こんな絶世の美女を捕まえて魔物扱いするだなんて、まったく失礼しちゃうわ。
荒れ狂う湖を鎮めると、アタシは一人になった。珍しく考え事なんかをしてみる。
嗚呼、美少年を撫で回したいわ。
おっと、あんまり欲望剥きだしなのもどうかしら。乙女として。豊かな空色の長髪を掻き上げてアタシは溜息をつく。別のこと、別のこと……。ああ、あれね。さっきの男が立て直していったあれ。
「サイアクの立て札」
内容はこう。
『危険! この湖には水妖が出ます』
「誰が水妖だくらぁぁぁ!」
湖面から放たれた水流が弧を描き、無礼な立て札に天罰が下る。
ほんと、失礼しちゃうわ。
私は廃墟を後にし、広大な草原を歩いていた。草は膝丈で、時折吹き抜ける風に波打つ様子が印象的だ。例の方法で作成した杖と方位磁石が役に立っていた。とにかく私は南へ向かっている。
「これは何とも……」
少しすると、湖が見えてきた。草原に湖、何か奇妙な取り合わせだ。日本では見慣れない。私は年甲斐もなく御伽話の世界へ迷い込んでしまった気分になる。ルイス・キャロルか。私は読まないが、妻が好きだった。
湖に近づく。湖畔に場違いな木っ端があったので首を傾げた。左手の方位磁石をポケットに突っ込み、その木っ端に触れてみると、じっとりと濡れていた。私は髭を撫でながらもう一度反対に首を傾げた。
いきなりの水音。
「なんだ、ただの爺か」
不遜な口調でそう声を発したのは、湖面に上半身のみを晒す風雅な女性だった。空色の髪が湖面を走る風を受けて靡く。同様に空色をした瞳もくっきりした顔立ちも、とても日本人には見えない。
「何? アンタもアタシのこと水妖だとか言うわけ?」
「水妖?」
河童やむじなみたいなものだろうか。わからないが、目の前の女性はそんな風には見えない。
「いや」
「じゃあ、さっさとどっか行きなさいよ。しっしっ」
私が原因なのだろうか、ピリピリしているようだ。彼女は追い払う仕草をする。それにしても下半身は何故水中にあるのだろうか。訊ねるのはやはり失礼に当たるのだろうか。私は頭を悩ませる。まず、するべきことは……。ああ、失念していた。
「ごほん……御機嫌よう、麗しいお嬢さん」
人と出会えばまずは挨拶。一風変わった状況とはいえ、いやはや。近頃の若者は挨拶がなっていない、などと言えた身分ではない。
「ご、御機嫌よう!? 麗しい!?」
女性は心底面喰っている様子だ。何かいけない所があっただろうか。
「私は夢乃西山と申すしがない老いぼれ絵描き。現在は故あって旅をしております。お嬢さん、差支えなければお名前をお聞かせ願えませんか?」
「え、えーと……ア、アタシはサラだよ。サラ・ヘルスロース、この湖の〈精霊〉だ」
髪を弄りながら慣れない様子でサラと名乗った女性。なるほど、長生きはするものだ。歳のせいで耳が馬鹿になったのでないのなら、彼女はどうも〈精霊〉であるらしい。
「精霊……」
「おや、信じてないのかい。はぁ、ま無理もないさね。近所の村では私は人を誑かす水妖だってんだから」
自嘲気味にそう言う様子は、どこか拗ねた子供を思わせる。
それにしても。これまで目にしたことのない存在が眼前に存在する。湖面で美を湛え、確かに私と対峙している。これはどれほどのことだろうか。
「俄かに信じがたい話ではあるが。麗しき湖面の精霊、ヘルスロース嬢。あなたの瞳は嘘吐きのそれとは違う。人が水妖と叫ぼうが、この老いぼれはあなたを信じましょう」
「え……あ、あ。……そうかい、ありがとうね」
曇りの無いその瞳を伏せて、先程までとは打って変わったか細い声で彼女は応じる。それにしても見れば見るほど無駄無く調和のとれた造形美だ。光沢のあるシアンのローブで覆われた曲線美群は、ラファエロの作品を彷彿させる。これこそ神の御業であろうか。
気がつくと、私の思いは意図せず口から零れていた。
「あなたは美しい。もし、嫌でなければ」
「……?」
「冥土の土産と思ってこの絵描きに……あなたを描かせて欲しい」