第30話 勇者のいない未来
光の粒が。
アルトの指先から。
静かにこぼれていた。
最初は。
戦いで傷ついた身体から。
力が漏れているだけだと思った。
けれど。
違う。
右腕だけではない。
肩。
胸。
足。
仮初めの身体そのものが。
少しずつ。
輪郭を失っている。
「アルト」
フィオナは。
彼の左手首をつかんだ。
そこにあった契約印も。
薄くなり始めている。
百年前。
金属の腕輪へ刻まれていた紋様。
蘇生の儀式で。
腕輪が光となって崩れ。
アルトの身体へ転写された印。
実物ではない。
仮初めの身体の一部。
だから。
身体が消えれば。
契約印も消える。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
フィオナは。
契約印へ力を流し込んだ。
翠色の光。
残された精霊力を。
アルトへ送る。
だが。
力は身体をすり抜けた。
壊れた器へ。
水を注ぐように。
どれだけ送っても。
何もとどまらない。
「待って」
もう一度。
力を送る。
契約印が。
わずかに光る。
だが。
すぐに薄れる。
「まだ」
「何かあるはずよ」
「私の精霊核を使えば」
「もう一度、身体を――」
「フィオナ」
「黙って」
アルトの声を遮る。
「まだ終わっていない」
「私なら」
「何か方法を見つけられる」
「もう十分だ」
フィオナの手が止まった。
「十分?」
アルトは。
いつもと変わらない。
穏やかな表情で。
彼女を見ていた。
「三本とも壊した」
「精霊の力も」
「自然へ戻せた」
「だから」
「もう十分だ」
「十分なわけがない!」
声が。
地下祭壇へ響いた。
自分の声とは。
思えなかった。
百年間。
森を守ってきた。
多くの精霊が消えるのを見た。
人間の戦争も。
いくつも見てきた。
それでも。
感情を抑えてきた。
長く生きる精霊として。
人間の生と死へ。
深く関わりすぎないように。
そうしてきた。
だが。
今はできなかった。
「あなたはいつも勝手よ」
アルトの身体から。
また光がこぼれる。
「勝手に戦って」
「勝手に命を使って」
「勝手に全部背負って」
「今度も」
「勝手にいなくなる」
声が震える。
視界が。
にじんでいく。
「私が」
「また見送ることになるって」
「少しは考えなかったの?」
アルトは。
すぐには答えなかった。
やがて。
小さく息を吐く。
「考えたよ」
「嘘」
「本当だ」
「だったら」
「どうして言わなかったの?」
「だから」
アルトは。
わずかに笑った。
「最後まで言えなかった」
「それを」
「考えたとは言わないわ」
「そうかもしれない」
反論しない。
言い訳もしない。
いつも。
肝心なところで。
そうやって受け入れる。
フィオナは。
もう一度。
契約印へ力を送ろうとした。
だが。
アルトの手が。
彼女の手を止めた。
触れている感覚が。
薄い。
温かさも。
ほとんどない。
「これ以上使えば」
「君まで消える」
「それでもいい」
「よくない」
「あなたが決めないで」
「これは決める」
「どうして!」
「君には」
アルトは。
崩れた祭壇の向こうを見る。
割れた天井から。
夜が明け始めていた。
暴風の消えた空。
薄い朝の光。
大地へ戻っていく。
小さな精霊たち。
「この先があるからだ」
「私には」
「あなたがいない先なんて――」
言い切れなかった。
アルトの表情が。
ほんの少しだけ変わる。
困ったように。
悲しそうに。
それでも。
優しく笑う。
「あるよ」
「君が望まなくても」
「朝は来る」
「森も育つ」
「人間はまた」
「間違える」
「精霊も」
「きっと迷う」
「だから」
アルトは。
フィオナの手を握った。
「見ていてくれ」
その言葉を聞いた瞬間。
フィオナは。
もう引き止めることができなかった。
受け入れたわけではない。
納得したわけでもない。
ただ。
消えていく彼から。
目をそらしたくなかった。
百年前。
フィオナは。
同じように。
アルトの最期を見届けた。
森の大樹の下で。
静かに命を使い果たしていく彼のそばに。
最後までいた。
それでも。
あのときは。
何もできなかった。
だから。
今度だけは。
言えなかった言葉も。
抱えてきた思いも。
すべて伝えて。
最後まで。
彼から目をそらさない。
だから。
今度だけは。
最後まで。
ここにいる。
フィオナは。
涙を拭かなかった。
アルトも。
何も言わなかった。
◇
祭壇の外周から。
ノアが。
レオニスを支えながら戻ってきた。
レオニスの身体には。
無数の傷がある。
自分の足では。
ほとんど歩けない。
それでも。
アルトの前まで来ると。
ノアから離れようとした。
「無理です」
「でも」
「その状態では立てません」
ノアが支えたまま。
二人で片膝をつく。
アルトは。
レオニスを見る。
「生きてるな」
「どうにか」
「なら」
「十分だ」
「あなたは」
レオニスは。
消え始めたアルトの身体を見た。
「もう」
「戻れないのですか?」
「ああ」
「フィオナ様の力でも?」
「無理だ」
レオニスは。
唇をかむ。
「僕が」
「もっと早く剣を置いていれば」
「お前のせいじゃない」
「でも」
「俺が決めた」
アルトは言った。
「聖剣を壊すと」
「最初から」
「最後まで」
「俺が選んだ」
「だから」
「お前が背負う必要はない」
「そんなふうに」
「簡単に切り離せるものですか?」
「簡単じゃない」
「でも」
アルトは。
小さく首を振った。
「全部を背負ったままじゃ」
「歩けない」
レオニスは。
返事をしなかった。
アルトは。
視線をノアへ移す。
「ノア」
「はい」
「教団が消した記録を」
「今度は隠さないでくれ」
ノアが。
目を見開く。
「カインの言葉も」
「聖剣が何をしたのかも」
「教団が何を隠したのかも」
「都合の悪いことまで」
「全部残してほしい」
「それは」
「私が決めてよいことですか?」
「俺が決めることじゃない」
「でも」
アルトは。
小さく笑う。
「君なら」
「残す方を選ぶと思ってる」
ノアは。
目元を拭った。
それから。
強くうなずく。
「必ず残します」
「誰かに」
「書き換えさせたりもしません」
「頼んだ」
◇
地上の避難路を確保した後。
光の柱が消えたのを見たリナは。
ノアたちを探して。
崩れた地下通路へ戻ってきた。
瓦礫を越える。
奥へ進むほど。
足元には。
翠色の光の欠片が落ちていた。
最後の戦いが。
終わった証し。
だが。
リナの胸には。
嫌な予感が広がっていた。
「アルト!」
祭壇へ駆け込む。
服は。
土と血で汚れている。
頬にも傷がある。
母から受け継いだ薬草袋を。
腰へ下げたまま。
息を切らしていた。
そして。
光となっていく姿を見て。
足を止める。
「嘘」
かすかな声。
「間に合ったな」
アルトが言う。
「何が?」
「最後に話すのに」
「何を」
「何を言ってるの?」
リナは。
アルトの前へ立った。
手を伸ばす。
だが。
触れた腕は。
半分ほど透けている。
「フィオナ」
「止められないの?」
フィオナは。
答えられなかった。
それだけで。
リナは理解した。
「嫌」
リナが首を振る。
「だって」
「三本とも壊せば」
「どうなるか分かってたんでしょう?」
「ああ」
「私には」
「言わなかった」
「ああ」
「どうして?」
「止めるから」
「当たり前でしょう!」
声が重なった。
先ほどの。
フィオナの言葉と。
「二人とも」
「似たようなことを言うな」
「笑わないで!」
リナは。
アルトの胸を押そうとした。
だが。
手は。
薄れた身体を通り抜けかける。
慌てて引く。
その動きが。
さらに涙をあふれさせた。
「私は」
「あなたを」
「利用しようとしてた」
リナは。
下を向いた。
「最初は」
「あなたにグレンを殺させようと思ってた」
「知ってた」
「知ってたの?」
「分かりやすかったからな」
「だったら」
「どうして連れてきたの?」
「帰る場所がなかったから」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
リナは。
唇をかんだ。
「私は」
「何も返せてない」
「返してもらうつもりはない」
「勝手」
「それもよく言われる」
フィオナが。
涙を流したまま。
アルトをにらんだ。
「今は」
「笑うところじゃないわ」
「そうか」
アルトは。
残された四人を見る。
フィオナ。
リナ。
レオニス。
ノア。
それぞれ。
違う道を歩いてきた。
違うものを失い。
違う正しさを抱えている。
「フィオナ」
「何?」
「森のことを頼む」
「頼まれなくても守るわ」
「今度は」
「人間から隠れるだけじゃなくて」
「話してみてくれ」
フィオナの表情が。
わずかに強張る。
「全部分かり合うのは」
「無理でも」
「知らないまま」
「憎み合うよりはいい」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないから」
「君に頼むんだ」
フィオナは。
しばらく黙っていた。
やがて。
小さくうなずく。
「約束はしない」
「努力はする」
「それでいい」
次に。
アルトは。
リナを見る。
「リナ」
「何?」
「俺たちのことを」
「覚えている通りに」
「伝えてくれ」
「私が?」
「ああ」
「失敗したことも」
「迷ったことも」
「全部だ」
アルトは。
少しだけ笑う。
「俺一人で」
「世界を救ったことにはするなよ」
リナは。
涙をこらえながら。
鼻をすすった。
「格好よくなんて」
「書かないから」
「すぐ無茶をして」
「肝心なことを隠して」
「何でも」
「何とかなるで済ませる人だったって」
「全部書く」
「それは困るな」
「困って」
「ずっと後悔すればいい」
「死んだ後に?」
「知らない」
リナの声は。
もう。
ほとんど泣き声だった。
アルトは。
レオニスへ目を向ける。
「レオニス」
「はい」
「もう」
「誰かの勇者になる必要はない」
レオニスの顔が。
わずかに揺れる。
「剣を持たなくても」
「お前が助けられる人はいる」
「これから何になるかは」
「自分で決めろ」
レオニスは。
傷ついた両手を見る。
「本当に」
「何も残っていません」
「何もないなら」
アルトは答えた。
「これから選べる」
先ほど。
戦いの中でも告げた言葉。
今度は。
静かな声だった。
レオニスは。
目を閉じる。
「忘れません」
「忘れてもいい」
「どうして?」
「自分で決めるなら」
「俺の言葉に従う必要もない」
レオニスは。
驚いたように顔を上げる。
それから。
小さく笑った。
「最後まで」
「勇者らしくないですね」
「勇者だからって」
「正しいことを言えるわけじゃない」
「そうでした」
◇
アルトの足元が。
光へ変わった。
膝から下は。
もう。
ほとんど見えない。
残された時間は。
わずかしかない。
リナは。
顔を上げた。
「アルト」
「何だ?」
「あなたがいなくなったら」
祭壇の外。
遠くから。
人々の声が聞こえる。
助けを求める声。
負傷者を運ぶ声。
武器を下ろせと叫ぶ声。
「誰が」
「この戦争を止めるの?」
アルトは。
割れた天井の向こうを見る。
聖都の街路。
ガルディア兵が。
倒れたルミナス兵を運んでいる。
ルミナス兵が。
負傷したセルディアの市民へ。
水を渡している。
敵味方を問わず。
避難民を誘導する兵士たち。
皇帝の命令を拒否したグレン。
報復を止め。
負傷者を救おうとするセレス。
エアリアルを手放したレオニス。
逃げるだけではなく。
ほかの者を導いてきたリナ。
「勇者がいなければ」
「止められない世界なら」
アルトは。
ゆっくりと息を吐いた。
「きっと」
「また同じことを繰り返す」
「でも」
「誰も」
「正しい答えなんて持ってない」
「ああ」
「だから」
アルトは。
リナを見る。
「今度は」
「生きている人間たちが」
「終わらせるんだ」
「できると思う?」
「分からない」
「分からないの?」
「ああ」
いつものように。
あっさりと認める。
「失敗するかもしれない」
「また争うかもしれない」
「でも」
「それでも」
「選び続けるしかない」
リナは。
涙を拭った。
「無責任」
「そうだな」
「本当に」
「そうだな」
「否定してよ」
「嘘になる」
リナは。
泣きながら笑った。
◇
フィオナは。
アルトの隣へ立った。
もう。
肩へ触れることもできない。
身体の大半が。
淡い光になっている。
残っているのは。
顔。
左腕。
左手首の契約印。
フィオナは。
消えかけた手へ。
自分の手を重ねた。
触れているのか。
いないのか。
もう分からない。
それでも。
アルトも。
指を重ね返した。
二人の手首の間で。
契約印が。
一度だけ。
強く輝いた。
翠色の光。
百年前から続いていた。
二人の契約。
フィオナは。
最後の力を送ろうとはしなかった。
もう。
この光は。
アルトを引き止めるためのものではない。
契約が。
役目を終えるための光。
「本当に」
フィオナは尋ねた。
「何とかなると」
「思っているの?」
アルトは。
最後に笑った。
百年前と。
何も変わらない。
無責任で。
根拠がなくて。
それでも。
不思議と。
少しだけ信じたくなる笑顔。
「ああ」
「何とかなるさ」
契約印の光が。
消えた。
同時に。
アルトの身体が。
無数の光の粒へ変わる。
髪。
顔。
手。
最後まで重ねていた指。
すべてが。
柔らかな光となって。
夜明けの空へ昇っていく。
精霊衣も。
契約印も。
何も残らない。
遺体も。
残らなかった。
ただ。
砕けた無銘の剣の柄だけが。
祭壇の床へ残されていた。
「アルト」
フィオナが名前を呼ぶ。
返事はない。
もう。
左手首に。
温かさもない。
脈動もない。
百年間続いていたつながりが。
役目を終えた。
フィオナは。
空へ昇る光から。
最後まで目をそらさなかった。
◇
オルディスは。
風の拘束が弱まると。
柱から身体を離した。
「偽物だ」
震える声。
「今の男は」
「勇者ではない」
「聖剣を破壊し」
「三国の秩序を壊した冒瀆者だ!」
祭壇へ。
残っていた教団兵たちが集まる。
だが。
誰も。
すぐには武器を取らなかった。
「何をしている!」
オルディスが叫ぶ。
「捕らえろ!」
「勇者を名乗った偽物の仲間を」
「全員拘束しろ!」
兵士たちは。
互いの顔を見る。
その前へ。
レオニスが立った。
ノアに支えられながら。
それでも。
自分の足で。
一歩だけ前へ出る。
「僕は」
声は弱い。
だが。
祭壇にいる全員へ届いた。
「二代目勇者ではない」
「レオニス!」
「黙りなさい!」
オルディスの命令。
レオニスは。
その命令を無視した。
「あの人も」
アルトが消えた場所を見る。
「僕たちに」
「世界を支配しろとは言わなかった」
「自分たちで」
「選べと言った」
「民衆は」
「導く者を必要としている!」
「そうかもしれません」
レオニスは答える。
「でも」
「あなた一人へ」
「すべてを決めてほしいとは」
「言っていない」
「私は教団の最高指導者だ!」
「だから」
「間違えないのですか?」
オルディスは。
答えられなかった。
そのとき。
一人の高位騎士が。
前へ出た。
「我々は」
「地下祭壇を見ました」
オルディスが。
騎士をにらむ。
「何を言っている」
「封鎖杭も」
「精霊力の貯蔵槽も」
「レオニス様の身体が」
「壊されていくところも」
「すべて見ました」
「必要な犠牲だった!」
「それでも」
高位騎士は。
剣の柄から手を離した。
「平和のためだったと」
「言うのですか?」
「そうだ!」
「三国を救うためだ!」
「では」
「なぜ我々へ」
「真実を隠したのです?」
オルディスの口が止まる。
「我々が」
「正しいと理解できる行いなら」
「なぜ地下へ隠したのです?」
高位騎士が。
ゆっくりと剣を下ろした。
次に。
別の兵士。
さらに。
一人。
また一人。
武器が。
床へ置かれる。
「何をしている!」
オルディスが後ずさる。
「命令だ!」
「私へ従え!」
だが。
今度は。
誰も動かなかった。
教団兵たちは。
オルディスを取り囲む。
「オルディス猊下」
高位騎士が言う。
「あなたを」
「拘束します」
「私を?」
「三国代表の不当な拘束」
「民間人を巻き込む結界の使用」
「上位精霊の監禁」
「エアリアルの強制覚醒」
「すべてについて」
「説明していただきます」
「私は」
「平和のために――」
腕へ。
拘束具がはめられる。
オルディスは。
最後まで叫び続けた。
「人々には」
「導く者が必要だ!」
「自由に選ばせれば」
「また争う!」
その声は。
祭壇から連れ出されるまで。
止まらなかった。
◇
三国聖堂の結界が。
解除された。
拘束されていた。
セレスとヴァルガス。
各国の代表者たちが。
外へ出る。
ヴァルガスは。
直ちに軍へ命令を出そうとした。
「ガルディア軍は」
「この混乱に乗じ――」
「陛下」
グレンが。
その前へ立った。
「道を開けろ」
「できません」
「また」
「命令へ逆らうつもりか?」
「はい」
グレンは。
迷わず答えた。
「今は」
「負傷者の救助を優先します」
「敵兵を助けるのか?」
「倒れている者に」
「所属は関係ありません」
「帝国への反逆だぞ」
「覚悟しています」
ヴァルガスの周囲にいた兵士たちは。
動かなかった。
皇帝の命令と。
目の前で助けを求める者。
どちらを選ぶのか。
彼ら自身が。
考え始めていた。
一方。
セレスも。
ルミナス兵を集めた。
「報復を禁じます」
兵士たちがざわめく。
「しかし」
「セルディアは王都を攻撃しました!」
「ガルディアも」
「我々の国境へ侵攻しています!」
「分かっています」
「それでも」
セレスは。
負傷者が並ぶ街路を見る。
「今ここで報復を始めれば」
「和平会談は」
「戦争を広げるための場になります」
「負傷者を救助してください」
「国籍は問いません」
グレンとセレス。
二人の命令が。
聖都へ伝わる。
一時停戦。
正式な和平ではない。
戦争が終わったわけでもない。
遠くの国境では。
まだ戦闘が続いている。
すべての兵士が。
すぐに武器を置いたわけでもない。
それでも。
聖都では。
初めて。
三国の兵士たちが。
同じ負傷者を運び始めた。
◇
翌日。
三国の代表者たちは。
改めて同じ卓へ着いた。
セルディアの席には。
拘束されたオルディスに代わり。
教団の臨時評議会から。
選ばれた代表者が座っていた。
そこに。
エアリアルはなかった。
フレイムベルグも。
アクアレギアもない。
自国だけを守り。
他国を従わせられる力は。
もう残されていなかった。
話し合いは。
すぐには進まなかった。
ヴァルガスは。
軍の撤退を拒んだ。
セレスは。
奪われた土地と。
被害への補償を求めた。
セルディアの代表者は。
オルディスの行動は。
教団全体の意思ではないと主張した。
各国の代表者たちは。
互いの言葉を疑った。
声を荒らげ。
何度も席を立った。
それでも。
そのたびに。
もう一度。
同じ卓へ戻った。
アルト一人が。
戦争を終わらせたわけではない。
彼は。
戦争を終わらせる答えまで。
残してはいかなかった。
ただ。
誰か一人の力へ従い。
すべてを解決しようとする道だけを。
終わらせた。
その後を。
どう歩くのか。
生き残った者たちへ。
委ねた。
聖都で始まった一時停戦は。
七日後。
三国による正式な停戦へ変わった。
国境に命令が届くまでには。
さらに時間が必要だった。
命令に従わず。
戦闘を続ける部隊もあった。
停戦後も。
小さな衝突は繰り返された。
それでも。
三国の代表者たちは。
話し合いをやめなかった。
和平条約が結ばれるまでには。
さらに長い時間が必要だった。
地下祭壇から回収された。
砕けた無銘の剣の柄は。
リナの手へ預けられた。
アルトが。
最後まで手にしていた。
唯一の遺品だった。
◇
五年後。
十六歳だったリナは。
二十一歳になっていた。
補助兵の制服を脱ぎ。
弓を持つことも。
ほとんどなくなった。
代わりに。
記録帳と筆を持ち。
三国を歩いていた。
彼女は。
戦争の後に起きた出来事を。
生き残った者たちから。
聞き続けた。
和平交渉は。
何度も中断した。
国境をどこへ戻すのか。
捕虜をどう返還するのか。
失われた土地と。
奪われた物資を。
誰が補償するのか。
聖剣を失った三国は。
それまでとは違う方法で。
自分たちを守らなければならなかった。
話し合いだけでは。
解決しないことも多かった。
それでも。
三本の聖剣が。
再び戦場へ現れることはなかった。
◇
帝都で話を聞いた者は。
ヴァルガスが今も。
自分の判断を。
間違いとは認めていないと語った。
ヴァルガスは。
最後まで。
戦争の継続を命じた。
だが。
命令へ従う軍人は。
少しずつ減っていった。
軍部。
貴族。
帝国の有力者たち。
多くが。
彼を支持しなくなった。
ヴァルガスは退位させられ。
帝都郊外の離宮へ幽閉された。
「帝国を守るには」
「戦うしかなかった」
今も。
そう言い続けているという。
グレンは。
軍に残った。
罪が消えたわけではない。
フェルナを焼いた事実も。
命令に従って。
多くの町を攻撃したことも。
変わらない。
彼は。
占領地からの撤退。
捕虜の返還。
国境警備。
戦災地の復興。
そのすべてへ関わった。
自分が壊した場所を。
今度は。
自分の手で直している。
リナは。
彼を許さなかった。
グレンも。
許しを求めなかった。
◇
セレス本人から。
リナが聞いた話では。
和平会談から王国へ戻った数日後。
エドガルドは。
眠るように亡くなった。
帰国したセレスは。
病床の父へ。
和平交渉が再開したことを報告した。
「そうか」
エドガルドは。
細い息を吐いた。
「ようやく」
「お前を戦場から」
「帰してやれる」
「まだ終わっていません」
「和平は」
「始まったばかりです」
「それでいい」
「始められたのなら」
「次へ進める」
それが。
父娘が交わした。
最後の会話だった。
セレスは。
父が使っていた。
濃紺の外套を受け継いだ。
そして。
ルミナスの女王となった。
アクアレギアのない国。
巨大な水の結界も。
川を支配する力もない。
代わりに。
交易。
外交。
農業支援。
周辺国との協定。
時間のかかる方法で。
国を守ろうとしている。
◇
ノアが公開した記録によって。
オルディスの裁判では。
地下祭壇で行われていたことが。
次々に明らかになった。
三国の代表者を拘束したこと。
フィオナから力を奪ったこと。
レオニスを。
兵器として利用したこと。
地下祭壇の記録。
封鎖杭の構造。
精霊力貯蔵槽の設計図。
消されていた地下巡礼路。
カインが残した言葉。
教団にとって。
都合の悪い資料まで。
すべて公開された。
それでも。
オルディスは。
自分の思想を捨てなかった。
「人々には」
「導く者が必要だ」
「選択を与えれば」
「同じ過ちを繰り返す」
最後まで。
そう主張し続けた。
セルディアでは。
勇者教団が解体された。
ただし。
信仰そのものは禁止されなかった。
誰かを信じる自由まで。
奪うべきではない。
それが。
新しいセルディアの決定だった。
聖都中央にある。
巨大なアルト像も。
破壊されなかった。
像を壊せば。
過去まで消したことになる。
代わりに。
台座へ。
新しい言葉が刻まれた。
勇者は。
我々に従えとは言わなかった。
自らの未来を選べと語った。
◇
レオニスから届いた手紙には。
白と金の勇者服を。
二度と着ていないと書かれていた。
二代目勇者の称号も。
正式に返上した。
傷ついた身体が。
以前のように動くまで。
長い時間がかかった。
完全には。
元へ戻らなかった。
それでも。
彼は。
戦災孤児や。
教団によって人生を決められた子どもたちを。
支援する仕事を始めた。
何になりたいのか。
どこで暮らしたいのか。
誰と生きたいのか。
子どもたち自身が。
選べるように。
人々から。
勇者と呼ばれることもあるという。
そのたびに。
レオニスは訂正する。
「僕は」
「レオニスです」
◇
フィオナの暮らす森の近くには。
人間と精霊が。
話し合うための。
小さな集落が作られた。
焼けた大地には。
新しい草木が育っている。
まだ。
百年前の姿には戻っていない。
それでも。
幼い精霊たちの光が。
木々の間を飛び回っている。
アルトとの契約が終わったため。
フィオナは。
以前のように。
人間の国を。
長く旅することはできない。
それでも。
人間との交流を。
断つことはなかった。
誤解がなくなったわけではない。
争いが起きないわけでもない。
人間が森へ入りすぎれば。
フィオナは怒った。
精霊が農地へ干渉すれば。
人間も抗議した。
それでも。
知らないまま。
互いを恐れていた頃とは違う。
話す。
拒絶する。
もう一度話す。
その繰り返しを。
フィオナは続けていた。
◇
リナは。
戦争記録者となった。
三国を巡り。
話を聞いた。
焼かれた町。
水を失った村。
戦争へ送られた兵士。
家族を失った者。
消滅した精霊。
百年後に聖剣を手にした三人。
百年前にアルトと戦った仲間たち。
和平へ至るまでの。
失敗と迷い。
誰か一人を。
正義にはしなかった。
誰か一人へ。
すべての責任を押しつけることもしなかった。
アルトが。
格好のよい英雄だけにならないように。
無茶をしたこと。
隠し事をしたこと。
間違えたこと。
迷ったこと。
それでも。
最後には。
自分が残したものへ。
責任を果たしたこと。
すべてを。
書き残した。
そして。
一冊の本が完成した。
題名は。
『百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する』
序文には。
こう記した。
これは。
完璧な英雄の物語ではない。
過ちを犯し。
迷い。
それでも最後には。
自らの責任を果たした。
一人の人間の記録である。
◇
完成した本を持ち。
リナは。
精霊の森を訪れた。
肩から下げた荷物の中には。
本のほかに。
細長い布包みが入っている。
「久しぶり」
森の入り口で。
フィオナが待っていた。
五年が経っても。
彼女の姿は変わらない。
だが。
以前より。
少しだけ。
人間を見る目が柔らかくなったように思う。
「完成したの?」
「うん」
リナは。
本を見せる。
「全部書いた」
「格好よく?」
「書いてない」
「そう」
「でも」
リナは。
表紙を見る。
「思ってたより」
「格好よくなったかもしれない」
「あなたがそう思ったなら」
「仕方ないわね」
二人は。
森の奥へ進む。
大樹の根元。
古い墓石。
そこには。
百年前と同じ言葉が残っている。
アルト・レイヴァン。
愛すべき友。
ここに眠る。
遺体はない。
骨も。
契約印も。
もう残っていない。
リナは。
完成した本を。
墓前へ置いた。
続けて。
持ってきた布包みを開く。
現れたのは。
古びた剣の柄。
百年前の古い鉄剣と。
墓を覆っていた大樹の枝から作られた。
無銘の剣。
その最後に残った部分だった。
リナは。
柄を。
本の隣へ置いた。
「約束どおり」
返事はない。
「失敗したことも」
「迷ったことも」
「全部書いた」
「あなた一人で」
「世界を救ったことにもしてない」
風が吹いた。
本の表紙が。
わずかに開く。
序文の文字が。
木漏れ日に照らされた。
そのとき。
大樹の根元から。
小さな光が浮かび上がった。
淡い。
名もない精霊の光。
それは。
フィオナの周囲を。
一度だけ回った。
フィオナの髪が。
風に揺れる。
光は。
墓前に置かれた本と。
古い剣の柄の上を通り。
そのまま。
森の奥へ飛び去っていく。
「知っている精霊?」
リナが尋ねた。
フィオナは。
光が消えた方向を見つめた。
少しだけ。
間を置く。
「いいえ」
短い返事。
リナは。
それ以上尋ねなかった。
森は。
静かだった。
木々の間から。
朝の光が差し込んでいる。
新しく生まれた精霊たちが。
遠くで笑っている。
人間の集落からは。
仕事を始める音が聞こえた。
世界は。
完璧にはなっていない。
争いが。
すべて消えたわけでもない。
それでも。
勇者がいなくても。
人間と精霊は。
自分たちの足で。
歩き始めている。
フィオナは。
古い墓石へ手を触れた。
もう。
契約印の温かさはない。
声も聞こえない。
それでも。
穏やかに目を閉じる。
「おやすみ」
風が。
木々を揺らした。
「アルト」
古い墓石と。
一冊の本。
そして。
名もない剣の柄を。
柔らかな光が照らしていた。
ここまで『百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する』を読んでいただき、本当にありがとうございました。
本作は、かつて世界を救った勇者が、百年後に蘇り、自分が遺した三本の聖剣を破壊する物語です。
英雄が残した力は、必ずしも未来を救うとは限らない。
正しいと思って選んだものが、時代を越えて誰かを苦しめることもある。
それでも、過去の間違いに気づいたとき、もう一度自分で選び直すことはできる。
そんな物語を書きたいと思い、この作品を始めました。
アルトは、何でもできる完璧な勇者ではありません。
迷い、失敗し、肝心なことを隠し、最後まで周囲を心配させます。
それでも、自分が残した聖剣によって人々が苦しんでいると知り、その責任から逃げずに最後まで向き合いました。
グレン、セレス、レオニスも、それぞれ違う理由で聖剣を手にしています。
誰かを守りたい。
国を救いたい。
戦争を終わらせたい。
その願い自体は、決して間違ったものではありません。
けれど、強すぎる力を握り続けることで、いつしか「守ること」と「従わせること」の境界が曖昧になっていきました。
だからこそ、最後にレオニスが自分の意思で剣を手放す場面は、この物語の中でも特に大切にした部分です。
また、アルトが一人で世界を救って終わる物語にはしませんでした。
聖剣を破壊しても、戦争がその瞬間に終わるわけではありません。
人々の憎しみも、失われた命も、なかったことにはできません。
その後の世界を変えていくのは、生き残った人たちです。
話し合い、失敗し、ときには再び衝突しながら、それでも自分たちで未来を選び続ける。
最終話の題名である「勇者のいない未来」には、そんな意味を込めました。
そして最後に、リナがアルトたちの旅を記録として残します。
彼女が書いたのは、完璧な英雄の伝説ではありません。
間違えたことも、迷ったことも、無茶をしたことも含めた、一人の人間の物語です。
この作品を読んでくださった方の中に、アルトやフィオナ、リナたちの旅が少しでも残ってくれたなら、とてもうれしく思います。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




