2.飛んだ時間
翌朝、マリエルは謎の全身と頭部への激しい痛みに襲われた。
ゆっくりと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入ってくる。
その不可解な状況を確認するために起き上がろうとした瞬間、再び全身に激痛が走った。
「うっ……」
あまりの痛さに小さく呻くと、聞き覚えのない声が頭上から降ってきた。
「奥……様?」
声のしたほうにゆっくりと視線を向けると、四十代くらいの品のあるメイドが驚くような顔でマリエルを見下ろしていた。
この人は誰? どこのお屋敷のメイド?
そんなことを考えていると、突然メイドが扉のほうへと駆けだす。
「だ、誰かっ!! 誰か、旦那様に!! お、奥様がお目覚めになったと伝えてちょうだい!!」
先ほどまでの品の良さをどこかに吹き飛ばしたメイドは、声を張り上げバタバタと部屋を飛び出していった。
「ま、待って……ここは一体、どこなの……?」
痛みと体のだるさで思うように声が出ないマリエルが、蚊の鳴くような声で引き止めるもメイドの耳には届かない。
必死で起き上がろうとしたが、痛みだけでなく吐き気も襲ってきたため、マリエルは寝台に突っ伏した。
すると、部屋の外から慌ただしい足音が近づいてきて、勢いよく扉が開かれる。
「マリエル!!」
名を呼ばれ、マリエルがのろのろと顔を上げる。
すると、昨日面会したばかりのサイラスが息を切らしながら立ち尽くしていた。
だが、マリエルは彼の顔立ちに違和感を覚える。
不思議なことに彼は、たった一日でとても大人びた印象になっていたのだ。
その状況に困惑していると、心配そうな表情でサイラスが近づいてきた。
横になった状態では失礼に値すると感じたマリエルは、慌てて両手で寝台を突っぱねる。
心配そうな彼の不安を少しでも和らげようと痛みに耐えながら、なんとか起き上がった。
だが次の瞬間、サイラスの顔からストンと表情が抜け落ちる。
「なんだ、元気そうじゃないか……。それだけ動けるのであれば、すぐにでも回復しそうだな。これなら君の大好きな夜会にも、すぐに参加できるんじゃないか?」
昨日とは別人のような冷たい態度の婚約者にマリエルは唖然とする。
「あの……なぜこの状況で夜会に参加できるかどうかを重要視されるのですか?」
「おやおや。我が妻は大の夜会好きではなかったのかな? 高貴なご夫人や令嬢には辛辣な言葉を放ち、男性には思わせぶりな態度をした後、なびきそうになると盛大に突き放す。君はそうやって夜会を楽しむのが好きなんだろう?」
更に意地の悪いことを口にする婚約者にマリエルの痛みが怒りで消し飛ぶ。
「わ、わたくしはそのような夜会の楽しみ方などいたしません!! サイラス様……なぜ昨日お会いしたばかりなのに、そんな失礼なことを口にされるのですか!?」
「昨日会ったばかり?」
「それほどまでにこの婚約が気に入らないのであれば、あなたから婚約解消を王家に申し出てください! わたくしは、お断りしていただいても一向に構いませんので!」
いくらこの国の三大侯爵家の跡取りとはいえ、傲慢すぎるこの態度は許せない。
サイラスの態度に嫌悪感を抱いたマリエルは、瞬時にこの縁談は断るべきだと判断した。
しかし当のサイラスは、不可解そうに眉間に皺を寄せた。
「君は……なにを言っているんだ? 大体、断れるのであれば五年前にとっくに断っている!!」
突然、感情をむき出しにしてきたサイラスにマリエルが唖然としながら固まる。
だが、それ以上に驚かされたのが、サイラスが口にした内容だ。
「ご、五年前……ですか?」
「誰が想像できると言うんだ!? 初の顔合わせでは純情そうな初々しい令嬢が実は雌豹のような女で、五年後には娘を虐待するような指導法を教育係に命じる悪妻になるなんて!!」
不満をぶちまけるように更にサイラスが声を張り上げる。
だが、マリエルにはそのような指示を教育係に出した覚えなどない。
そもそも彼のいう『実の娘』というのが誰のことを指しているのか、わからなかった。
「あの……その『実の娘』というのは、一体どなたの娘さんのことでしょうか……」
「ふざけているのか? 君と私の娘の『セアラ』のことだ!!」
その瞬間、マリエルの頭の中が一瞬で真っ白になる。
サイラスとは昨日、初めて顔を合わせたばかりだ。
それなのになぜか自分たちの間に子供がいることになっている。
出産どころか子供ができるような行為すらしたことのないマリエルは、訳が分からない状態に陥り、放心しながら聞き返す。
「わ、わたくしには……娘がいるのですか……?」
「君は娘を冷遇するだけでは飽き足りず、その存在すら否定するのか!? なんて最低な母親なんだ!!」
刺々しい言葉をぶつけてくるサイラスは、まさに真剣そのものである。
演技や嘘をついている様子は、まったく見受けられない。
その状況にますます頭を混乱させたマリエルは、考えを整理しようと周囲の様子を確認してみる。
しかし自分を取り囲んでいる使用人たちは、全員見覚えがない顔ぶれだった。
その不気味な状況がマリエルの顔から血の気を奪っていく。
すると、目覚めた時に傍らにいたメイドが、マリエルを庇うようにサイラスと対峙する。
「だ、旦那様! 落ち着いてくださいませ! なにやら奥様のご様子がおかしいです!」
「何を今さら……彼女は五年前から全てがおかしいじゃないか!!」
あまりにも酷い言われように昨日マリエルの中で生まれたサイラスへの恋心が、一瞬で鎮火する。
反論されたメイドも主の言い分に呆れた表情を見せた。
だが、メイドは場を取り繕うようにコホンと咳払いをしたあと、キリッとした表情を復活させる。
「そういう意味ではございません!!」
侯爵令息を叱り飛ばすこの女性は、恐らくサイラスにとって乳母のような存在の女性なのだろう。
そんな主君に厳しい表情を向けていたメイドだが、マリエルに向き直ると憐れむような表情になる。
「奥……いえ、マリエル様。私はこのメディウム侯爵家でメイド長を務めておりますテレーズと申します。恐れ入りますが……現在の家名とご年齢を教えていただけますか?」
優しく話しかけられたマリエルは、テレーズにだけ警戒心を緩める。
だが、サイラスに対する不満は今にも爆発寸前の状態だ。
気遣うように接してくれるテレーズに感謝の意を込め、ゆっくり頷く。
そしてサイラスには当てつけるように険しい表情を作り、名前と年齢を力強く口にした。
「わたくしは、クラージュ伯爵家第二子のマリエルです。年齢は……先月で十六歳になりました!」
その瞬間、室内にいる全員が一斉に息をのむ。
ただ名乗っただけでそのような反応をされてしまったマリエルは、不可解そうに眉をひそめた。
すると、その中でいち早く我に返ったサイラスが執事らしき男性に大声で叫ぶ。
「オネスト!! すぐにグレードル先生を呼んできてくれ!!」





