放課後
放課後。
チャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一気に軽くなる。
椅子を引く音や、鞄を持ち上げる音が重なって、いつもの騒がしさが戻ってきた。
「朝日奈くん」
声をかけられて振り返る。
雪城凪だった。
「……ああ」
俺は頷く。
昼休みに約束したことを思い出す。
「ジュース」
凪はそう言って、小さく財布を見せた。
「いいって言ったけど」
「よくない」
即答だった。
昨日と同じ。
少しだけ強い言い方。
「……分かった」
俺は苦笑する。
「じゃあ、一本だけ」
凪は小さく頷いた。
「うん」
それだけのやり取りなのに、なぜか少しぎこちない。
教室を一緒に出る。
廊下を並んで歩く。
特に会話はない。
でも、気まずいわけでもなかった。
(……不思議だな)
俺は少しだけそう思う。
話した回数は、まだそんなに多くない。
それなのに、沈黙が苦じゃない。
昇降口を出て、自販機の前に立つ。
「どれ?」
俺が聞くと、凪は少し考えた。
「……甘いやつ」
「また?」
「好きだから」
真顔で言う。
少しだけ間があって、俺は笑った。
「じゃあこれ」
ボタンを押す。
缶が落ちる音。
それを取り出して渡す。
凪は受け取って、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
そして、財布から小銭を出す。
「はい」
「……ちゃんと払うんだな」
「当たり前」
凪はきっぱり言う。
「借りっぱなしは嫌」
「律儀だな」
「普通」
そう言って、凪は缶を開けた。
一口飲む。
ほんの少しだけ表情が緩む。
(……分かりやすいな)
俺はそう思った。
「それ、美味い?」
「うん」
「よかったな」
「うん」
短いやり取り。
でも、どこか落ち着く。
そのまま、自然な流れで歩き出す。
校門を出て、帰り道へ。
「朝日奈くんって」
凪が口を開いた。
「いつもまっすぐ帰るの?」
「基本は」
「寄り道しないの?」
「たまにはするけど」
俺は少し考える。
「今日はしない」
「どうして?」
「夕飯作るから」
凪が少しだけ目を見開く。
「自分で?」
「うん」
「……すごい」
素直な感想だった。
「別に普通だよ」
「普通じゃない」
凪は首を振る。
「高校生でやってる人、あんまりいない」
「そうか?」
「うん」
少し間が空く。
凪が缶を持ったまま言う。
「家族のため?」
「まあ」
俺は答える。
「母さん仕事で遅いし、妹いるから」
「妹……」
凪が小さく繰り返す。
「何歳?」
「中二」
「……いいお兄ちゃんだね」
「普通だって」
「普通じゃない」
また同じ返しだった。
でも今度は、少しだけ柔らかい言い方。
「ちゃんとやってる」
凪はそう言った。
「えらいと思う」
「……」
少しだけ言葉に詰まる。
こういう風に言われるのは、あまり慣れていない。
「別に」
結局、それしか言えなかった。
凪はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩くペースを合わせてくる。
そのまま、しばらく無言で歩く。
でもやっぱり、不思議と気まずくはない。
(……話しやすいな)
俺はそう思った。
雪城凪。
クールで、近寄りがたいと思っていた。
でも実際は、少し違う。
無口なだけで、変に気を使わなくていい。
それに――
たまに見せる表情が、分かりやすい。
「……あのさ」
凪が小さく言った。
「昨日のこと」
「ん?」
「助かった」
足を止めるわけでもなく、前を向いたまま言う。
「……そっか」
俺は短く答える。
「別に大したことしてないけど」
「してる」
凪は言い切った。
「すごく」
その声は、思っていたよりも真っ直ぐだった。
「……」
俺は少しだけ困る。
どう返していいか分からない。
すると凪が、少しだけ小さく言った。
「……あの人」
一瞬だけ言葉を止める。
それから続ける。
「また来ると思う」
その言い方は、少しだけ不安そうだった。
「……そっか」
俺は答える。
特に深く考えずに。
ただ事実として受け取る。
凪はそれ以上何も言わなかった。
でも。
その沈黙の中で――
何かを考えているようだった。
夕方の光が、道を少しだけオレンジ色に染めていた。
並んで歩く足音が、静かに続く。
さっきまでの会話が途切れて、少しだけ沈黙が落ちた。
でも、不思議と重くはない。
凪は缶を持ったまま、少しだけ視線を落としていた。
(……また来る)
さっき自分で口にした言葉が、頭の中で繰り返される。
あの人は、きっとまた来る。
何度でも。
断っても、距離を取っても。
「少し話すだけ」
そう言いながら、近づいてくる。
強引ではない。
でも、逃げられない。
(……面倒)
そう思う。
本当は。
もっとはっきり拒絶すればいい。
連絡先も消して、関わらなければいい。
分かっている。
でも――
(できない)
凪は小さく息を吐いた。
理由は、自分でも分かっている。
完全に切るのが、少しだけ怖い。
相手がどう出るか、分からないから。
だから曖昧にしてしまう。
距離を取りながら、完全には切らない。
その結果――
こうして、また来られる。
(……悪いのは自分)
そう思う。
でも、どうすればいいのか分からない。
その時だった。
「雪城」
隣から声がした。
顔を上げる。
朝日奈陽真が、前を見たまま歩いている。
「昨日のやつ」
「……うん」
凪は短く答える。
「迷惑なんだろ」
その言い方は、特に感情がこもっているわけじゃなかった。
ただ事実を確認するみたいな口調。
「……うん」
「なら、無理に相手しなくていいんじゃないか」
凪は少しだけ止まる。
「……でも」
言いかけて、言葉が止まる。
どう説明すればいいのか分からない。
すると朝日奈が言う。
「怖いとか?」
凪は少しだけ目を見開いた。
図星だった。
でも、それを認めるのは少しだけ悔しい。
「……ちょっとだけ」
小さく答える。
すると朝日奈は、少しだけ考えるように間を置いた。
それから言う。
「じゃあさ」
凪は視線を向ける。
「一人で対応しなきゃいいんじゃないか」
「……え?」
予想していなかった言葉だった。
「誰かと一緒にいれば、ああいうのって来にくいだろ」
「……」
確かにそうかもしれない。
でも。
「そんな都合よく、いつも誰かいるわけじゃ――」
「まあな」
朝日奈はあっさり言う。
「でも、たまたま一緒に帰るくらいならできるだろ」
「……」
凪は言葉を失う。
それは。
昨日と同じだった。
特別なことじゃない。
ただ、隣にいるだけ。
それだけで、空気が変わる。
「別に毎日じゃなくてもさ」
朝日奈は続ける。
「何回かそういうのあれば、向こうも諦めるかもしれないし」
「……」
凪は少しだけ考える。
(……確かに)
昨日も。
今日も。
あの人は、それ以上何もしてこなかった。
「彼氏?」と聞かれた時も――
それ以上踏み込んでこなかった。
(……そういうこと)
理解する。
あの人は、完全に拒絶されるのは嫌がる。
でも、“他に誰かいる”と分かると、無理には来ない。
だから――
「……」
凪の中で、何かが繋がる。
点と点が、一本の線になる。
(この人なら)
朝日奈陽真。
変に踏み込まない。
無理に助けようとしない。
でも、自然に隣にいる。
(ちょうどいい)
そう思った。
そして同時に――
(安心する)
その感覚が、はっきりとあった。
「……朝日奈くん」
凪は静かに呼ぶ。
「ん?」
「……」
一瞬だけ迷う。
でも、まだ言わない。
ここで言うのは違う気がした。
「……なんでもない」
「そうか」
朝日奈は特に気にした様子もなく頷いた。
それが、逆にありがたかった。
(……もう少し)
ちゃんと考える。
どう言えばいいか。
どう頼めばいいか。
軽い気持ちじゃダメだと思った。
この人は、多分――
ちゃんと向き合ってくる。
だからこそ。
適当に頼んではいけない。
「……」
凪は小さく息を吸う。
そして決める。
(明日、言う)
ちゃんと。
言葉にして。
この人に――
頼む。
夕焼けの中で、二人は並んで歩いていく。
距離は、昨日よりも少しだけ近くなっていた。
そしてその先にあるのは――
ただの帰り道じゃない。
これから始まる、少しだけ特別な関係の入り口だった。




