最終回
●運命の2人
エセルは、見るからに怒っていた。
激怒していると言っていい。
目とか口元とか、肩とか手とか。いつもどこかしらで見られたふくみ笑いやゆとりの余裕など、その一切が失われている。
まるで同じ姿をした別人のような、初めて見る彼の姿に――そしてそれが自分に向けられていることに――セオドアは戦慄した。
妖鬼や魎鬼たちを前にしたときにも感じたことのない、未知の感覚だった。
背中に壁が当たって、自分が無意識のうちに後退していたことに気づく。
これ以上退がれない。
「まっ……、それ――」
それ以上近づくなと言うように前に出した手の手首をとられ。背中に回され。
身動きがとれないまま、キスをされた。
かみつくような、飢えた男の怒りのこもったキスだった。
両手首を押さえ込まれて、身動きできないのはエドモンのときと同じだ。
されるこちらの意思を一切考慮しない、自分がしたいことをしているだけ、それを受けいれろとの、ただただ一方的な、こちらを蹂躙するだけの傲慢なキス。
なのに。
エドモンのときのようにかみつく気にはなれなくて。
おそるおそる、舌と唇を応えるように動かすと、唐突にキスが変わった。
2度目のキスは、1度目の乱暴さを謝罪し、償うような優しいキスだった。
はあっ……と同時に息を吐いて。
エセルは顔を離した。
「……怒って、いるのか」
「……っ、当たり前だろうが!!」
怒りがぶり返した様子で叫ぶ。
だがセオドアには、先の、現れたときの彼よりずっとこっちのほうが安心できた。
無言の静かな怒りほど怖いものはない。
「あんなふうに突然姿を消して! 俺が捜さないとでも!?
離れすぎて大まかな方向しか分からないし、心話にも応えないし! おまえがどこにいるか足取りが全くつかめなくて! あのガキに、宮に戻ってないか連絡を取らせたんだぞ!」
エセルにとって、幻聖宮は、かつて絶対に近寄らないと誓った場所だった。今でも大嫌いだ。
それでも、セオドアを見つけて引っ張りだすためなら乗り込むことも厭わないと考えた。
だけどセオドアはいなかった。
「サミンへ向かったレンダーから、おまえが商隊にいるようだと聞いて! サミンへ行ってみれば、今度はおまえがシャイアで男爵と結婚することになった、なんて手紙を読まされて!
これが怒らずにいられるか!!」
読むやいなや、エセルはダフに飛び乗りシャイアへ向かった。
途中の町で新しいダフに乗り換え、夜どおし駆けて領主館へ乗り込んでみれば、花嫁のセオドアは結婚式の直後、式場となった地下で、穴へ落下して死んだと聞かされた。
さすがにここまで距離が詰まれば、セオドアが今どこにいて、生死も分かる。
まだ生きているのに救助にも行かない、あわてている様子もなく「これから2人で幸せになるはずだったのに、彼女は不幸な事故で死んでしまった。なんという悲劇か」とか、不幸に酔っていけしゃあしゃあと抜かしている花婿姿の大男に猛烈に腹が立ち、ぶん殴って地下へ下りてみれば、セオドアが魎鬼と闘っていた、ということを、エセルはいら立ちにあかせてセオドアへぶちまけた。
「……殴ったのか? やつを」
「そうだ! おまえの夫とか抜かしやがるからだ――って、何を笑ってるんだ」
「いや。見たかったなと思って」
推測だが、あのおごりたかぶった大男は、その恵まれた体格と身分で、これまでだれにも殴られたことがなかったのではないだろうか。
それが見知らぬ男にぶん殴られたのかと思うと、くすくす笑いが止まらない。
ここで、もしセオドアが殴られた彼のことを気にして、心配する素振りを見せたなら、エセルはますます腹を立てただろう。
だが爽快そうに笑っているセオドアに、結婚するほど愛した男を気にしている様子はない。
そのことに留飲を少し下げて「何があった」と尋ねるエセルに、セオドアはここ数日の出来事を話して聞かせた。
「……おまえを妖鬼どものエサに?
急いでいたとはいえ、殴るだけですまさずに、消し炭にしてやればよかった」
「ばかなことを言うな。相手はこの国の貴族だぞ。おまえが面倒になるだけだ」
それが何だ? というようにフンと鼻を鳴らしたエセルは、さらにずいっと、額が触れそうになるくらい顔を近づけてきた。
「で?」
「……で、って……?」
「まだ聞いてないぞ。
どうして俺を捨てて消えた」
ずきりと胸にきた重い痛みに、セオドアはとっさに視線を逸らし、俯いて顔を隠した。
「べつに、捨てた、わけじゃ……あのときは、何も、考えられなくて……」
「うそをつくな!
おまえは俺を捨てたんだ! 俺がいくら喚んでも応えなかった! 俺をおまえの中から締め出した!!
なぜだ!? なぜ、俺を捨てた!?」
逃げることは許さないと責め立てるエセルに、セオドアはぎゅっと目をつぶり、心の底に追いやって、目を逸らしてきたことを、とうとう口にした。
「……だって、わたしは…………………………おまえの恋人を、殺してしまった、から……」
決してわざとじゃない。サリエルのことは、わたしも好きだった。尊敬していた。彼女に死んでほしいなんて、1度も思ったことはない。
それを、信じてもらえるだろうか……?
彼女の告白の衝撃に、言葉を失ってしまったか。沈黙してしまったエセルが怖くてなかなか目を開けられない。
意を決して、おそるおそる目を開けて彼を見上げると、エセルはやはり衝撃を受けていたが、彼女の考えていたものとは少し違って、どちらかというと、脱力しているように見えた。
「あの……、エセル……?」
どうかしたのか?
「………………そこからか」
長い沈黙のあと。
エセルは独り言をつぶやいて、はーっと重い息を吐き出し、顔にあてていた右手を外すと、気を取り直したように再びセオドアと視線を合わせた。
「いいか? 前にも言ったことだが、もう1度言ってやる。だから今度こそ信じろ。
俺と彼女はそういう関係じゃなかった」
(……恋人じゃなかった……?)
「……で、でもっ、彼女は――」
「サリエルがどうかは俺は知らない。俺は、1度も彼女をそんな相手として見たことはないし、彼女に期待させるようなことを口にしたこともない」
「香水を、あげていたんだろう……?」
「彼女に土産として頼まれたからだ。
それとも何か? 彼女が俺を愛していたから、俺も愛さなくちゃいけないっていうのか? 俺に我慢して犠牲になれと? 俺が愛しているのはおまえなのに?」
「それは……でも……」
そう、だったのか……?
わたしは、彼女の視点でばかり見て、エセルの感情とか考えを、考慮していなかった?
そういえば、似たようなことを前にも言われたような……と思っていると。
「まあ、おまえが俺を無視して俺よりほかのやつらのことばかり優先して考えるのは、今に始まったことじゃないけどな」
エセルが、あのときと似たようなことを口にした。
「……すまない」
「いいさ。おまえは、自分のことより他人のことばかり考えて動くやつだ。俺は他人じゃなく、おまえの一部だと考えているんだと分かったから、いい」
そっと、包み込むように両腕をセオドアの背中に回して、身を寄せた。
まるでとても大切なものを抱えるように。
そうして、額をセオドアの肩にふわりと乗せて、全身で彼女を感じようとしているようだった。
エセルが、彼女のことをとても大切に思い、扱おうとしていることが伝わってくる。
気持ちがいい。ずっとこうしていたい。
そう、思った。
だけど。
「……やっぱり、だめだ!」
胸を押して、力ずくで彼の抱擁から逃れたセオドアは、それ以上近寄るなと突っ張るように手を前へ出した。
「セオドア?」
「だめだ。それでも、わたしは人殺しだ。幸せになる資格なんか、ないんだ」
「違う!」
「違わない! だって、わたしが殺したサリエルは、もう二度と幸せになれないんだぞ? もう二度と、何も感じることも、何かを得ることもできないんだ!」
なのに、彼女をそんなふうにしたわたしが、幸せになっていいはずがない!
死にたいと思った。
だが死ぬときを逃してしまった。もうその道はない。
どんなにつらくても生きるしかない。
けれど、幸せになるのは無理だ。
目を閉じて、必死に首を振って拒否し続けるセオドアを、エセルがつかみ止めた。
彼女の死によって、自分は幸せになってはいけないと思い込む呪い。そうして自分とセオドアの仲を引き裂こうとする――これをセオドアに仕込むことがサリエルのねらいだったとさとったエセルは、セオドアをつかむ手の力を強め、揺さぶって、強引に自分と目を合わせさせると言った。
「セオドア! よく聞け! サリエルを殺したのはおまえじゃない! 俺だ!」
――おまえの望みどおりにはさせないぞ、サリエル。
いまいましげにエセルは奥歯をかみ締める。
「あの瞬間、おれは刀身化を解くこともできた! だけど俺はそうしなかった! なぜなら、彼女がそれを望んでいると分かったからだ!
あのとき、彼女は俺に殺されたがっていた!」
「……えっ……?」
エセルから新たな見解を示された、その驚きにセオドアは動くのをやめた。
食い入るように自分を見つめる彼女に、エセルはしめたと思う。
それでいい。俺の言葉を信じろ、と。
「あんな事件を起こした彼女の罪は重い。彼女もそれを承知していた。自尊心の高い彼女は、すべてが白日の下にさらされ、非難されるより前に死ぬことを望んだんだ。それも、愛する男の手で」
「……そんな、こと……」
そうなのか?
セオドアはその可能性について考えた。
サリエルは自尊心高く、法師であることに誇りを持っていた。その誇りゆえにあんなことを起こしたが、そこを責め立てられることは、たしかに耐え難かったのかもしれない……。
「彼女は俺に殺されたがっていた。それをかなえて彼女を殺した、俺こそが人殺しだ」
エセルの言葉にセオドアは衝撃を受け、急ぎ彼を仰いだ。
「そんなっ、エセル!」
「その業を背負うのはおまえじゃない、俺だ。おまえは、彼女の自殺にただ利用されただけにすぎない」
そのことを重く受け止めるフリをして、エセルは自分に向けて伸ばされたセオドアの手をとり、そっと、赦しを請うようにキスをした。
セオドアの見えないところで伏せられた目は、そんなもの、取るに足らないことだと嘲っていたが。
そんなエセルの企みを知らず。
セオドアは彼に両手を伸ばし、せいいっぱい抱き締めた。
「違う! おまえは……おまえは、人殺しなんかじゃ、ない!」
「ありがとう、セオドア。
もし本当にそう思ってくれるなら、俺は幸せになれるはずだ。
だから……返事をもらえるか?」
「えっ?」
何の? と目をぱちぱちさせる。
「さっき、俺はおまえに愛していると告白して、返事を待ってるところだったんだけど。
それで、おまえは?」
……そうだったっけ?
セオドアは先のエセルの言葉を思い起こし、ようやく、彼に告白されていたのだと気付いて、赤面した。
エセルの胸に両手をあて、そっと押して、距離をとらせる。
あたたかい。
内側で、トクトクと打つ鼓動が手のひらから感じられる。少し速いのは、緊張しているからだろうか。
そう思うと、少しうれしい。
彼は魔断だ。人じゃない。
もしそれを初めから知っていたなら。きっと、彼を好きになることはなかった。
距離をとり、気持ちにセーブをかけただろう。
だから彼が自分の魔断だなんて、思いたくなかった。
だけど彼は魔断で。
魔断だけれど、豊かな感情も、ひとを愛する心も持っていて。
魔断だから愛せない、なんて理屈は、おかしく思えた。
なにより、こんなわたしを愛していると言ってくれている。
「……返事は?」
見つめるだけで一言もしゃべらないセオドアに、沈黙に堪えかねたのか焦れたようにエセルが再び問う。
セオドアは面映ゆそうにほのかに頬を染め。
するりと両手を上にすべらせてエセルのうなじにあてると、彼を引き寄せて彼の唇に自分の唇を押しあてた。
セオドアが唇を開き、彼を積極的に自分の中へ迎え入れたことにエセルは驚き、目を瞠る。
とろけそうなほど優しい光を浮かべた目が彼を見つめている。
彼をその気にさせようとするようにうなじを撫で、髪先を絡めてもてあそぶ指の伝える意味をとり違えるようなエセルではない。
そうしてうなじから背中へ回った腕に引かれるまま身を乗り出し、セオドアを仰向けに押し倒そうと――――。
「…………ッッ……」
途中でぐっとこらえて、横に転がった。
「エセル?」
「ここは、だめだ。こんな、妖鬼たちがいたような不潔な地下、初めてのおまえにふさわしくない」
両目に腕をあて、隠した顔で、懸命に痛みにこらえるような苦しそうな声を出すエセルを見て、不思議そうにセオドアは首を傾げながら身を起こし、横に座る。
「おまえが炎で浄化してくれているが?」
わたしはこだわらない、との意を含んだセオドアの言葉に、エセルはキッとセオドアをにらみ上げて言い返した。
「いいか? おまえがそんなことを口にできるのは、何も知らないからだ。こんな場所でしたら、絶対後悔する! 俺は、おまえにそうなってほしくないから、堪えてるんだ!
あとで思い返したとき、おまえは俺の信じられないほどの忍耐力に、絶対感謝することなる!!」
「ふぅん?」
横目でにやにや笑っているセオドアに、エセルは「くそっ」とやりきれなさそうに言葉を吐き出して、どうにか立ち上がった。
「さあ出るぞ」
と、いささか乱暴な口調で手を差し出してくる。
「こんな所、もう1分たりともいられるものか。1秒でも早く、俺は出て行く!」
「それにはわたしも同感だが……出口はないぞ?」
「ないなら作ってやるまでだ。
こい!」
どこに何があるか、把握しきった足取りでエセルは1本の道に入った。
おそらく自分には見えない、感じられない何かを、彼は感じ取っているのだろう。そう思い、黙ってついて行くと、エセルは例の空気穴程度の穴が開いた壁まで行き、そこで炎で圧縮した空気を爆発させ、壁を破壊した。
外の、少し冷たい新鮮な空気が風となって入ってくる。
「さあ、出るぞ」
「すごいな」
感心しつつ、エセルの手を借りて外へ出ると、そこは馬車で通った、館へ続く道の途中だった。
館より町のほうが近く、館は屋根の一部しか見えない。
あそこにまだエドモンたちはいて、セオドアは妖鬼に喰い殺されたと思って安心しているのだろうか……。
ちらとそんな考えがよぎったが、すぐ、先の爆発で人が集まってくると思い、急ぎその場を離れた。
今度のことで彼に直接何かをする気はない。
エセルにも言ったが、ここは彼の国、彼の領地で、彼の権力のほうがずっと上にある。途中でもみ消されるか、またこっちの身が危なくなるだけだ。この国の人間でもない一介の退魔師候補生がどうにかできることではない。
宮に手紙を書こう。宮母アルフレートなら、何か思いついてくれるだろう。
宮母は国王と直接対話ができる。その上で退魔師を派遣し、この地を調査して何らかの処置を行い、永久封鎖してもらえたらいい。
数百年前、何があったかは正確には分からない。邪教徒が初代男爵になりかわり、この地で何を行っていたにせよ、すべて昔の話だ。
彼らが神と崇めた魎鬼帝を生み出すことが彼らの悲願であったとして。それはかなわなかったし、これからもかなうことはない。
それで十分だ。
●エピローグ
セオドアは、エセルのダフによりかかり、カンテラの明かりを頼りに彼からもらった便せんとペンで、夜明けまでかけて長い長い手紙を3つ、したためた。
1通目は、幻聖宮宮母アルフレートにあてたもの。これが一番長く、シャイアの町で自身の身に起きたすべてを書き、あの地についての処置はすべてアルフレートに任せると最後に記した。結果として、どんなことになってもわたしはかまいません、と。
2通目は、サミンにいるライラへ。これまでの感謝を書き、あらためて礼を述べた。蒼駕の剣をエセルに持たせてくれてありがとうと、わたしが礼を言っていたとレンダーに伝えてください、と記したあと、わたしはサミンには行きません、と書いた。
もう二度と会うことはないかもしれませんが、いつかどこかで会えたらうれしく思います、と書いて封をした。
そして、3通目。これが一番難しく、時間がかかった。
蒼駕へ。
すぐに帰ると約束しながら、果たせなくてすみません。また、1カ月も行方を知らせないままでいて、すみませんでした。
わたしは、もう二度と宮には帰りません。
もうセシルや百蓮からお聞き及びかもしれませんが、魔断は、見つけることができました。紅刺といいます。
彼と、これからについていろいろ話し合いました。
その結果、わたしは『流れ』の退魔師となることを決めました。
わたしは、何が起きようと、結局退魔師であることを辞められない。わたしにはこの道しかないのだと言うわたしに、彼が『流れ』になることを提案したのです。
(彼は、どうしても宮に行くのはいやだと言うので。宮の退魔師にはなれません。すみません)
1人でなく2人でいるということは、妥協の連続だと思います。それに、どこにも所属しない退魔師というのは、案外良案かもしれません。
だから……。
だから、蒼駕。
どうかよろこんでください。
わたしが魔断を得たこと、退魔師になったこと。
もう二度とお会いすることはないかもしれません。
けれど、あなたを忘れること、あなたへの思いを失うことは、決してありません。
これからも、青く晴れ渡る空を見上げるたびに、わたしはあなたのことを思うでしょう。
わたしを見つめるあなたの澄んだ瞳と眼差しを思い浮かべ、常にあなたが誇りとする娘でありたいと願います。
そしてあなたがわたしを思うとき。
わたしは幸せに、わたしらしく生きていると、信じてください。
ですから、どうか、心穏やかで、健やかでいてください。
「セオドア、もういいかー?」
エセルの自分を呼ぶ声を聞いて、セオドアは思いを振り切るように長く見つめていた手紙を速駆けに託した。
幻聖宮、蒼駕。
これまでの自分のすべてだったものに決別し、歩き出す。
心細くないと言えば、それはうそになるだろう。
だがそうして踏み出す先には、エセルがいる。
自分を見つめ、そばに来るのを待ってくれている。
「待たせたな」
セオドアは笑みを浮かべると、手綱を受け取って、ダフにまたがった。
彼女の後ろにエセルもまたがり、ダフを立たせる。
「さあ、行こう」
出立だ。
【碧翠眼の退魔師2 人妖の罠・了】




