97.奇跡の翼(2)
彼女の悲鳴のような一音が天へ駆け上がる。
マリアの父親の魂が、彼女の声と共に空を昇って行く様を、レアの瞳が追う。
「神さま…」
小さな囁きは、しかし空気を震わせた。
深淵の闇に広がる光の糸―――紡がれた人と人との結びの網の、更にその先へ。
窓の閉まっているはずの教会内に風が流れる。
初めは弱く、やがて強くなるそれは、レアを促すように彼女を中心に集まってくる。マリアとシスター達の歌う鎮魂歌に、魂の鎮魂への想いを添えていく。
「我らが万能なれと望む神よ」
光の粒子は今や教会内に溢れ、渦を巻き、その導きを待っている。
空へ、その先の天へ、―――貴女の元へ。
「今、優しい貴女の腕の中へ…」
少女の手が天へ伸びる。
光の粒子が天へ昇る竜の如く、彼女の指し示す先へと昇っていく。
「―――…」
少女の指し示す場所へと昇って逝く光の渦を、その場の誰もが茫然と見上げていた。
ある者は嗚咽を漏らし、ある者は涙を流す。先の争いにおいて落ちて昇れぬ魂の歓喜は、教会全体を仄明るく照らし出していた。
城と対峙する小高い丘の教会の会堂が光に包まれているのを、街の住人の多くが見ていた。
「ハイド様…あれは、何でしょう…」
城の窓から、その光景を目にすることとなったハイドは、全身の震えを止められずにいた。
天へ昇って逝く光―――その光が消えたと思った時、それは現れた。
会堂を覆うほどに巨大な六枚の翼が、空を覆わんばかりに広がっていた。
深淵の扉の向こうから、激しく扉を叩く音。
全ての魂の行く末を見届けたレアの耳に、微かな何かが届く。
今だ天へ伸ばしたままの、その指先へ触れる、別の少女の指先。
「―――…」
幼さの残る少女の笑顔が長い髪の合間から覗く。少女の指がレアのそれに絡み、その唇が名を呼ぶ。
「―――か」
透ける細い肢体に翼―――純白と漆黒、そして純白の六枚。
「神さまっ…!」
優しく笑いかけてくれた、遥か遠い昔のそのままに、少女は優しく微笑んで、瞼を閉じるように掻き消えた。
「神さまっ! 神さまぁ…!」
また、笑ってくれた。
そう思った。
熱に揺らぐ視界にいくら手を伸ばしても、もうそこにその姿はないのに、再び触れることはないのに、レアはカイザックが抱きしめてくれるまで、腕を伸ばし続けた。
この人智を超えた現象は、王都に住む多くの民の目にも触れていた。
騒ぎになる事は好まないと、教会側は先の現象について公な発表をしなかった。だが、人の口に戸は立てられず、皇帝の新しい側室がどうやら関与しているらしいという事は、一週間もたてば、誰もが知るところとなっていた。
多くの者が、レアの奇跡を目の当たりにしており、箝口令を敷くタイミングが遅かったため、もはや揉み消すことは不可能だった。
なぜこんなにも教会の対応が遅かったかというのは、教会内で意見が真っ二つに割れたからであった。
レアを神聖な者と崇めようとする意見と、悪魔の化身だと恐れる意見に割れたのだ。
純粋にその奇跡を受け入れる事の出来る者には、レアを悪魔とする事の意味を理解することは出来なかった。
しかし、反対する側には、聖職者でもないレアを聖人と認める訳にはいかない、というプライドがまず働いた。そして、現れた翼に漆黒があった事を上げて、アレは悪魔が天使に化けているのだと主張を展開していた。
そして、極めつけに、奇跡を起こしたのは、鎮魂歌を歌ったマリアを始めとした四人のシスターだとして、彼女達を担ぎ上げようとする動きまで始まっていた。
早々に察知していた皇帝は、彼女達四人を王宮近くの屋敷に囲い、厳重に警護させている。
「軟禁状態だねぇ」
紅茶のカップを置いて、周囲を見渡したレアはしみじみと言った。
「仕方がありません…」
目の前のシスターもまた、レアにつられて周囲を見渡しながら、呟いた。
今、レアは皇帝によって隔離されているシスター達の元を訪れていた。テラスでのお茶をしているのだが、そこから見える屋敷周囲は猫一匹入り込めないほどの警備兵が並んでいる。
彼女達を匿うように助言したのは、もちろんレアである。
自分には魔女との噂も以前からあるので、そちら方面で受け取られる可能性は十分にあった。そうなれば、あの奇跡はシスター達の献身のたわものだと言い出すのも目に見えていた。
彼らは、最初に奇跡を否定しておきながら、次に肯定しているという、自分達の矛盾に気付かないのだろうか。
「なんだか、巻き込んじゃったみたいで、ごめんね」
あの場は、現状を理解しての行動ではなかった。
魂が集まっているから、天に還してあげよう。そのために、自分だけでは心もとないから、手伝ってもらおう。ちょうど、父親がまだここに留まっているマリアがいる。しかも彼女は少なからず、糸が引ける。じゃぁ、鎮魂歌が良いかな。
そんな調子で事を運んだものだから、こんな大事になるとはレアも思っていなかった。
今日はお詫びも兼ねて、様子を見に来たのだった。
「いえ…。わたし達が奇跡を起こしたなんて、おこがましくて」
「こうして匿っていただかなければ、今頃どんなことになっていたのかと思うと、ゾッとします」
ミランシャもソイリィもファルも、皆謙虚だった。自分達が聖人に担ぎ上げられる事を、良しとは思っていない。聖職者として、神への奉仕をしないここでの生活に恐縮しきりで、身まで縮んではいるが、放置されたままだった未来を回避できることに、彼女達は安堵していた。
「まさか、こんな大事になるとは、考えてなくて…」
レアはやれやれと息を吐いた。
「まさか、神さまが来てくれると思ってなかったんだよねぇ…」
一瞬だったが、笑いかけてくれた。―――それが嬉しくて、レアは思い出す度、勝手に頬が緩む。
「あの…あれは、シィー様が?」
その場の誰もが一番知りたい問いを、マリアは意を決して問う。
「ん?」
マリアだけではなく、他の三人からもじぃっと見つめられて、レアは苦笑した。
「わたしは神さまの腕はあそこだよって、指示しただけだよ。鎮魂歌を歌ってくれたから、一人残らず昇って逝けた。みんなのお陰」
そう言って、レアはにっこりと笑って見せた。
「あ! あのっ! じゃぁ、あの少女は…ゼウス様?」
曖昧な返答に、ファルが身を乗り出してレアに詰め寄る。が、ゼウスは本来屈強な男性として描かれているため、先日目にした少女をそう呼んでしまう事への違和感に、彼女の声は尻込みしていた。
「みんなは、教会の敬虔なシスターだから、教理を覆してしまうような話は聞かない方が良いよ」
彼女達のシスターという立場を配慮したのだが、一方で自分の知る神の顔が脳裏を過る。
「どんな神さまを信じていても良いんだ。祈りの方向さえ間違ってなければ、それは全部、ちゃんと神さまに届くから」
巨人かと見上げてしまうほど大きな男と、優男に見える男の二人を連れて、帰って行く少女をシスター達はテラスから見送る。
門まで見送る―――皇帝の寵妃に対して礼儀を尽くそうとしたが、レアはそれを丁寧に断った。礼儀よりも身の安全を優先して欲しいと笑う。
「私、あの時、父に逢った…様な気がしたんです」
遠ざかっていく少女の背中を見つめながら、マリアは呆然と呟くように言った。ファルがマリアを覗き込むと、彼女は自分の言った言葉に苦笑した。
「亡くなったんだから、逢えるはずないのに。…でも」
父が笑いかけてくれた。大きな手で頭を撫でて、そうして他の光を連れて昇って逝った。
その先が、ゼウスであろうと冥界の王ハデスであろうと、どちらでもいいと思った。
「逢ったと、信じたい」
あの暖かな光の先ならば、きっと。
『この音とまれ』とか、『青のオーケストラ』を読んでると、弦のあるもの触りたくなりますね。
部活動を頑張ったことないわたしには、未知な世界。
いや、文芸部頑張ってたけどね。
めっちゃ、頑張ってたけどね。




