80.カイザックとイリア(2)
草を踏み、近づいてくる足音に、イリアは表を上げた。
が、その視界に誰かを映すよりも先に、大きな手が彼女の頭を撫でた。あまりの力強さに声も上げられず、目を回し始めた頃、困惑した男が自分を見下ろしていることに気付いた。
「おっ…お父様」
呼びかけられて、その手は止まった。離れていく手を、イリアは見つめていた。一年前と同じ―――小さなほくろの位置も同じ。
その向こうに見えるのは、笑顔ではなく、困ったような泣き出すみたいな表情だった。
しかし、その瞳が一度閉じ、再び開かれた時には、罰の悪そうな笑みが浮かんでいた。
「…お父様…なのね」
「…」
彼は返事をしなかった。その代わりのように、彼は一呼吸後、イリアの前に跪く。
不思議な感覚だった。
いつも遠くから見ているだけだった父王―――決して自分を見る事のなかった父の目が、今は自分だけを見ている。こうやって見れば、ここで出会った彼も、怯えるほどに強い父王も同じ容姿をしていた。
「…」
何かを口にしようとして、しかし出来ずにイリアは俯いた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
「…ずっと、イリアの事は…いや、バローナもアレビアも…意識しないようにしてきたんだ」
一年前に聞いた優しい声に、イリアは反射的に表を上げていた。自分を見つめる男は、まるで何かを耐えるような、泣き出しそうな顔をしていた。
「自分から少しでも遠ざけて、それで守ってるつもりでいた」
男の言葉の意味は、イリアが理解するには難しかった。それでも、そこに浮かぶ心根は幼い胸に小さな音を立てて響いた。
手を伸ばす。
大きなその手におずおずと触れる。
その熱に触れた瞬間、目が急に熱を持ち、鼻が詰まる。喉の奥にしこりが詰まって、イリアは低く呻いた。
「…イリアは」
嗚咽を振り絞り、イリアは触れた手に必死にしがみついた。
「…お父様に、話しかけても…いいの?」
言葉にすることをずっと恐れて、心に浮かぶ不安も淋しさも全部を見なかったことにしてきた。でも、一度言葉にしてしまうと、それは堰を切ったように溢れ出す。
「一緒にお散歩も、お茶もしても、いいの…? 前みたいに…」
初めてこの湖で出会った時のように。
「…笑って、くれる…?」
ずっとずっと淋しかった。
本当は、ずっと。
小さな身体を抱きしめて、ぐっしょりと濡れた頬を拭い、頬を寄せて口づける。
ずっと淋しかったのだと、その幼い心が震えていた。
(オレは―――)
その身体と心を諸共に腕に抱きしめて、己の不甲斐無さに自らへ叱責を始めようとした時、何かが自分達を覆った。
レアの体が自分とイリアを共に抱きしめる。
「…レア」
「後悔しても苦しいだけだよ」
そう言って、魔女は王とその娘のそれぞれの頬に優しく口付ける。
見上げた瑠璃色の瞳が本当に嬉しそうに微笑んだので、カイザックは自らがいかに強張っていたのかを理解した。
腕に軽い重みを感じて、慌てて見下ろすと、泣き疲れたらしいイリアが小さな寝息を立て始めていた。
「後悔はいらないけど、反省はした方が良いね」
「…そうする」
イリアを抱え直し、カイザックは苦笑した。子ども特有の柔らかい赤毛をそっと撫でる。
「護るって、決めたんでしょう?」
その様子を黙って見ていたレアが、小さく確認するように問う。そこには伺うというよりは確認するような音色であることを、カイザックは理解していた。
「あぁ」
そう応える男の意志を見つめ、そしてレアは空を仰いだ。
「わたしも守るよ」
男の決意に寄り添うようにレアは言った。カイザックの視線がこちらへ向けられていることを理解しつつ、しかしレアは空を仰いだまま、更に空へ腕を伸ばす。
「だから」
風のざわめく中、レアは空からカイザックへ視線を戻した。
「そのために必要な事には協力するよ」
「…」
その言葉の意味を、レアが理解しているのかはカイザックには分からなかった。分かって言っているのだとしたら、それはずい分と危険な意味を持つことになる。
腕の中で身じろいだイリアを見下ろし、彼は小さく息を吐き出した。
「心強いな」
そう言って腰を上げる。
「さて、いつまでも姿をくらませている訳にもいかないんでな。戻るか」
言いながらレアへ右手を差し出す。
「…最近忙しそうだね。今日は昼餉にも顔を出さなかったし」
「あぁ、忙しいな」
右手に触れたレアの手に指を絡め、カイザックはそれだけを応えた。一瞬怪訝そうな顔をしたものの、レアもそれ以上は口にせず、後宮へと足を向ける。
「そう言えば、どうしてイリアとオレが顔見知りだって分かったんだ?」
もっともな疑問に、レアはイリアの言を伝えた。するとカイザックは眉を寄せる。
「黒髪碧眼と言ったら、このロイヤにどれだけいるんだよ」
「後は右手の、このほくろ」
彼の疑念ももっともなので、レアは確証に至った根拠を示した。手を繋いでいるカイザックの右手首の下にある、小さなほくろ。
本人ですら見落としていそうな小さなそれに、案の定カイザックはさらに眉を寄せた。
「お前は、本人ですら覚えてないほくろの位置まで覚えてるのか?」
「おっ、覚えてるわけないじゃないっ!」
なんてことを言ってくれるのだろうと、レアは真っ赤になって叫んだ。と、イリアが眠っていることを思い出して、慌てて口を塞ぐ。
「じゃぁ、なんで?」
率直な疑問に、レアは口を噤む。
しかし、普通の好奇心として知りたがったカイザックの視線に、レアは喉を詰まらせて俯いた。蚊が鳴くような声で言葉を押し出す。
「初めての夜に…」
気を失う直前、頭を撫でた男の手にそれがある事を、遠のく意識の端で見ていた。
大きな手に、見つからないくらい小さなそれがアンバランスで、妙に記憶に残った。
(―――なんてこと、言えないっ!)
顔面に熱を感じながら、レアは力いっぱい瞼を閉じた。
「…っ」
それ以上の言葉を発しないレアを見下ろして、カイザックは察した。
「その反応で、だいたい分かった」
「分かったの!?」
ギョッと強張ったレアを、カイザックは面白そうに見下ろす。
「我が妻は、いつになったら赤くならなくなるかな」
毎日、鬼の如く怒っております。
…たまには、抱きしめなければ…そんな反省をする回でした。




