65.反撃の合図
レアは内心ぷりぷりと怒っていた。
「カイザックは、わたしのこと、オモチャだと思ってる!」
堪らずレアは声に出していた。突然叫ぶように言う少女に、周囲の女官たちがギョッとする。
「でも、お兄様のあんなに楽しそうな顔、久しぶりに見ました」
身体に合った制服を作るため、採寸を余儀なくされたレアに付き合うと言い出したルイスは、レアの先ほどからの機嫌の悪さを理解して、小さく笑う。
「…それに、…シィはお兄様を名前で呼んで下さるのですね」
レアを呼び捨てにすることに抵抗感を拭えないのか、ルイスは躊躇したように言った。それには気付かないふりをして、レアは思い出すように天井を見上げた。
最初にお互いの名を呼んだのはいつだったかと思い出し、レアは急に顔が熱くなるのを感じた。
「名前を教えてもらうまでは、『魔女』と『王様』だったから…」
「ロイヤの皇帝の名前は、ご存じなかった?」
ルイスの問いに、レアは首を振った。
「知っていたけど、本当の名前じゃないと思ってた。様付けしたら、つけるなって」
そこまで聞いて、ルイスは兄にとって彼女がどれほど特別なのかを理解した。
兄は、皇位継承争いに身を投じた時から、名を奪われ、友は臣下に変わり、ずっと背筋を伸ばして来た。唯一生き残った自分という家族を守るため、一人矢表に立つ兄を、ルイスはただ見ている事しか出来なかった。
「ザック兄様は、本当は悪戯好きでお調子者で、世話好きの、誰よりお人好し…でした」
本人が聞いたら眉を顰めそうな単語の羅列を、レアは聞いていた。笑っている風なのに、その声はどこか震えて届く。
レアは小さく笑って見せた。
「今でも、悪戯好きだし、世話好きだし、お人好しだよ」
そう言って優しく笑うレアの背中を、ルイスは見つめた。
今は採寸の為に肌着の背中。軍服を脱いだ彼女の身体は、驚くほど華奢で、弱々しくさえあった。リリアン始め、その場にいた女官が一瞬唖然とするほどに、軍服姿とそこにある身体は違って見えた。
それでも女性らしいふくよかな、美しいライン。
「シィ様、腕を」
リリアンに言われ、レアは採寸中だったことを思い出し、慌てて腕を上げた。
「ごめんなさい、リリアンさん」
素直に謝罪するレアを、リリアンはじっと見つめ、そして採寸を再開する。
「シィ様、私達に敬称は不要です。陛下を呼び捨てにされる事に対して、良いとは決して思いませんが、陛下たっての願いであるのでしたら、享受いたします。しかし、私達に対しても同様になさいませんと、示しがつきません」
ジルドに同じことを言われたと、レアは思い出す。
「分かりました」
そう言い、レアは嬉しそうに笑む。
「ありがとう、リリアン」
どこの馬の骨ともしれない、田舎の小娘から呼び捨てにされることを、気分が良いとは思わないだろう。しかし、そこに捕らわれることなく、皇帝の尊厳を保つことを考えてくれる。
「モモさんも、モモと呼ばせてもらいますね」
ルイスの隣に立つモモへ、レアは首を捻って言う。彼女の護衛であるモモもまた、否などない。
青天の霹靂、とはまさにこのことだ、と誰も口にはしなかったが、誰もが内心で思った事だった。
ある者は苦々しく、ある者はいっそ清々しく、その霹靂を見上げていた。
「なぜ、あの毒で死なん!?」
思わず声を荒げた男は、周囲の慌てた様子に奥歯を噛みしめた。
この一年、着々と準備を進め、皇帝が遠征から帰国するのを、首を長くして待ちわびた。確実にその口に入るよう、細心の注意と念密な計画を練った。
周囲の人間に紛れて、盃を傾けながら、皇帝の手から盃の落ちるのを待っていた。
青年が笑い出した時、男は自分の計画が失敗した事を知った。
盃の砕ける音を聴いた時、額に浮かぶ汗を理解して、男は生唾を飲む。毒を盛った首謀者を見極めるかのように一同を見渡す皇帝の碧眼が、自分を捕らえた様な気がして、男は顔面の血の気が引く音を聞いた。
床に飛び散った皇帝の盃を舐めた鼠が、次の瞬間に悶絶して死ぬのを、片づけた女官が見ていた。象をも殺すと言われる猛毒を取り込んでおきながら、何事もなく皇帝は一人の少女を皆の前に呼ぶ。
異国の軍服に袖を通した、小柄な少女は、無表情に皆の前に立った。
ルイーグスの弟子であり、武神アファリアとまで言われたマリーノの将だと言う。武神アファリアは男として描かれる事もあるが、通常絶世の美女として有名だ。しかし、そこに立つ少女は、絶世の美女と言うには無理がある。ロイヤの舞踏会であれば、どこにでもいる普通の容姿に見えた。
無表情の瞳が、一同を見渡していた。ほんの一瞬、自分と目が合う。
ただ、その深い瑠璃色の瞳は、ぞっとするほどに美しかった。
画策して構わないと皇帝が笑う。この少女の登場で、それまで保ってきたバランスの崩れることを、皇帝自身が良く理解しているようだった。
寵妃と皇帝に言わしめる少女に取り入ろうとすることを、皇帝は拒まなかった。それと同時に、その行為が無駄であると嘲笑うように笑う。
誰もが、その瞳の笑っていない事に背筋に冷たい物を感じていた時。
まるで、固いつぼみの綻ぶように、その少女の頬が綻ぶ。
その瞬間、その場の誰もが、その笑みに見入る。
今まさに美しく花開いていく少女独特の艶。
カイザックは、その場の空気が一瞬で変化した事に気付いた。その原因を理解して、内心苦笑する。
(まさに、これが神がかりだと言うのに…)
本人の自覚がないと言うのだから、更にたちが悪い。
「オレの寵妃だという事を、忘れるなよ」
無駄かと思いつつ、カイザックは釘を刺したのだった。
「毒が入っていると分かっているのでしたら、今後は飲むのは止めてください」
執務室に戻った皇帝へ、ジルドは第一声を放った。今はこの場に二人だけだ。
「無駄だという事を示しておいた方が良いかと思ったが、まずかったか?」
平然と言って椅子へ腰を下ろす青年へ、ジルドは用意しておいた書類を手渡しながら様子を伺った。盃に毒が盛られていたことは確かめられており、中身を乾した青年の身体に異変がない事を自らの目で確認する。
「…いえ、…盛った側の恐怖心は想像に難くはありません。相手に警戒心を持たせることは出来たでしょうが、御身に何かあってからでは、取り返しがつきませんから」
「その心配だけは、無用だな」
平然と言う皇帝を見下ろし、ジルドは小さく息を吐いた。安堵半分と、なんとも言えない複雑な心境の入り乱れるそれに、ジルド自身も名前を付けようがない。
「あまり、実感したくはありませんでした」
諦めたようにそれだけ言うと、青年は書類から視線を上げて、ジルドを見上げた。ニヤリと笑う。
「そうだな。あまり安売りして教えてやる事はないな。今後は気を付ける」
気を付ける、それだけ聞ければいいかと、ジルドは思う事にした。
「…これから、どう動きますか?」
ミヤの裏での働きによって、この一年のロイヤでの裏の動きはほぼ把握できていた。一年前には見えてこなかった構造が、今は手に取るように分かる。
一年以上の王都不在を口にした時は、反対を唱えたが、思惑は見事にハマった。皇帝の不在を良い事に、少々の立ち回りは大丈夫だと慎重さに欠けたのは、愚かだとしか言えない。
(まぁ、懐刀であるジルドを遠征に連れて行ったからな)
懐刀とも右腕とも言えるジルドを遠征に連れて行くことで、油断に拍車がかかったのは言うまでもない。彼らは一見すると遊び人に見えるミヤを、見誤った。
とは言え、まだ影しか見えぬ者もある。
「ひとまず、手近なところから攻めていくか」
いきなり粛清するわけにもいかない。まずは手近なしっぽを掴んでいくとしよう。
「では、我々の反撃といきましょう」
八歳の息子は、クリスマスプレゼントに何が欲しいのか、二転三転して困る。
六歳の長女は、先月ピアスを空けたので、ピアスとビクトリア・シークレットのポーチが欲しいとか…。
四歳の次女は、父ちゃんのやってるバンドリ・ゲームの影響で、ギターとドラムが欲しいとか…。
二歳の三女は、…聞くまでもなく、ぬいぐるみだろうが、…キッズ・タブレットにさせてもらう。
うちの長男は、どうも優柔不断だ。
わたしにそっくり。




