39.夢と邂逅
この夢は忘れて良い。
静かなアルトの少年の声がそう言った。
黒かと見紛うほど深い緑の瞳が、まっすぐに自分を見ていた。
「忘れて良いって…」
その双眸を見つめ返し、青年は息を飲んだ。
「ここは魂の深淵。全ての転生の記憶も力も魂の持つ役目も、ここにある。だが、普通に生きるに覚えておく必要はない。それだけだ」
転生の記憶と言われて、青年は周囲を見渡そうとした。
それに気付いた少年が片手を凪ぐ。瞬間、周囲の風景が闇に落ちた。
「知るのは、死んでからで良いだろう?」
それまで表情の読めなかった少年が、少し呆れたように言った。
死んでから、という言葉に、青年は嫌そうに顔を歪めた。今を生きている人間に対して、死後の話をする無神経さに苛立った。
少年が笑う。
「それでいい」
死を嫌悪する感情を肯定して、少年は胸の前で手を開いた。
その手の中で微かに灯る光を、漆黒の闇に落とした。落ちていく光を見ていた―――闇に光の波紋が広がる。
地面が大きく波打ち、闇に光の波が押し寄せる。
立っていることも困難なほどに押し寄せる力の波―――崩れていく世界の渦に手を伸ばす。
「忘れていい。いつかオレ達が迎えに行く、その日まで」
自分の身体がビクッと跳ねて、目を開いた。
落ちていく浮遊感と、胸に押し寄せる圧迫感に、自分を落ち着けるように努めてゆっくりと呼吸を繰り返す。
見開いた視界に、投げ出された自分の腕が見えた。
その腕に、幼い手が触れる。
驚いて顔を上げる、そこにいるのは、見知らぬ少女だった。
もう一方の手で、レアの髪を撫で、愛しむようにその額にキスをする。レアよりも幼い外見をしているのに、その瞳に映るのはその色ではなかった。
そのセピアの瞳が、自分に気付いた。驚いたように見開き、そして、納得したように笑った。
「―――…」
その名を言葉にしようとしたカイザックの唇に、少女が指を立てた。
「もう大丈夫」
それは声と言うには、あまりにも美しい音色だった。耳と言うよりは心に響いてくる。
「独りぼっちの輪廻も、死の恐怖に怯える夜も来ない。精一杯の生を…」
それは長い呪縛からの解放を告げるものだった。
「忘れていいよ、今は。いつかわたし達が迎えに行く、その日まで」
同じ言葉を聞いたような気がして、カイザックは目を見張る。少女の瞳が伏せ、代わりに視界を覆った白と黒の翼。微かな音を残して、その姿を掻き消した。
腕の中のレアが身じろぐ。
その穏やかな表を見つめ、カイザックは呆然としながら、レアの身体を引き寄せた。
もう大丈夫と、細い身体を抱いて、呟く。こみ上げる安堵感のままに、泣きたいような衝動に耐えながら、腕の中の存在を抱き締める。
自分の中から、夢も、その後の邂逅も、魂の深淵に沈んでいくのだろう。いつか再び出会うまでは。
それでも今は。
今だけは―――。
太陽の匂いに強く抱きしめられ、レアは目を覚ました。
苦しい程の腕の力と、力強い心音。泣きだしたくなるほどの安堵と、その神さまの名前を感謝と共に囁くカイザックの小さな声を聞いていた。
「カイザックも、お守りもらったんだね」
驚いたようにカイザックはレアを見下ろした。嬉しくて、こみ上げてくる感情のままにレアは笑みをこぼした。
「離れてしまわないように、力に身体が壊れてしまわないように、悪いモノから守ってくれるお守りだって、神さまが言ってたよ」
レアの言葉に、カイザックは一瞬の間の後、破顔した。
「そんな説明、何もなかったよ」
忘れるんだから、説明は不要とでも思ったのだろうか。だったら、なんて不精な神だ。
もうすでに顔も思い出せない神の面影に向かって、カイザックは苦笑した。掴もうとする意識からするりと抜けていく感覚。
「言わなくても分かるって思ったのかな。…もう思い出せないけど」
うん、とカイザックも頷いた。今は、呟いたその名すら、もう思い出せない。
それでいいのだと、誰かが言った。
その言葉に笑って、カイザックはレアの額にキスをすると起き上がる。
「お前はまだ寝てろよ。顔色は良いけど、昨日、何か無理はしたんだろう」
「そんな事は…」
ない、と言いかけて睨まれ、レアは大人しく掛布団にもぐりこんだ。さっさと身支度を整え始める男の背中を見上げて、おかしくなった。皇帝なのに、人の手も借りずに身なりを整えてしまう。
「そう言えば、どうしてココにいるの?」
レアの疑問に、カイザックは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「抱き枕がないと寝られなくなったから」
瞬間、レアはハッと気付いて、真っ赤になった。そのままガバッと布団を頭から被ってしまう。
「色々、気付くのが遅くないか?」
「あんまりにも当たり前に居るから、違和感がなかったの!」
くぐもった声が布団から飛んできて、カイザックは笑った。
「抱き枕の自覚が出て、大変よろしい」
「!」
布団がビクリと震えた。
「じゃぁ、城に戻る。今日一日は呼び出しがあっても寝てろよ」
ベッドの上の丸い塊を撫でながら、カイザックが言う。塊がもそもそと動いて、中から瑠璃色の目だけが覗く。
「お父様もお母様も、わたしが年頃の娘だって忘れているんだわ」
嘆く様な言い様に、カイザックは声を上げて笑った。
「あら、お早いのですね」
廊下に出たところで声をかけてくる者があった。手に夫の衣類と思われる物を抱えた奥方が立って、こちらを見ている。
「陽が昇る前には戻っておかないといけないので」
にっこりと愛想よく笑って見せて、カイザックは応えた。レアの先ほどの嘆きを思い出して、思わず笑いそうになる。
「楽しそうですね。…レアはまだ寝ていましたか?」
カイザックの楽しげな様子に、マリアは微かに目を見開き、そして再び笑む。
「ご両親がオレを部屋に通したのを、怒ってましたよ」
「一応、…お部屋は用意しましょうか?とお尋ねはしましたよ?」
レアと話しているような錯覚を覚えるような返しをされて、カイザックは苦笑した。彼女の源流は確かに母親から来ているのだ。
「陽が昇るには、まだお時間がありますよ。珈琲でもいかがでしょう?」
未だ暗い空を窓越しに見つめ、マリアは言う。マリーノ王城で物を口にするよりは安全だろうなと思いながらも、カイザックはようやく白み始めた空を見る。
「いえ、まだ、これからやらなければならない事もありますから、次回に」
カイザックの丁寧な言葉遣いに、マリアは何を感じたのか小さく困惑したように笑う。メイドに持っていた物を渡すと、ホールで使用人を呼んだ。
「目立つといけませんので、お見送りはこちらまでにさせていただきますね」
その心遣いに頭を下げて応え、カイザックは深くフードを被った。
書くかどうか迷って、勢いのままぶっこんだ本筋。
さて、レアも元気になったんで、憂いはなくなったかな~?




