第一話 13時58分——発生まで7日
タワマン派も別荘派も、全員間違っている。やり直した俺には、籠るべき場所が分かっている。
俺は月岡達規。内装屋をやっている男だ。
クラクションが鳴りっぱなしだった。
跳ね起きた体を、シートベルトが座席へ引き戻す。左手はハンドルの真ん中を押しつけたまま、右手は首の横をつかんでいた。
ベルトの食い込みとは別の痛みが、首に残っている。歯の並びの形をした痛みだ。
ダッシュボードの表示は、6月20日、13時58分。
フロントガラスの向こうに、窓のない倉庫の壁が立っている。俺の会社が内装を請けている現場だ。
6月27日にゾンビが出て、9月25日に俺が噛まれた。その間の三か月が、日付つきで頭に並んでいる。
「夢にしては、はっきりしすぎてる」
確かめる方法なら一つある。
「5分後、元請けから電話が来る。入金と、夜間工事の話だ」
スマホを膝の上に伏せた。
13時59分。
エアコンは最強なのに、こめかみから汗が落ちる。シートの通風だけが必死に働いていた。
こいつが止まっていたら、俺は別の意味で座席を濡らしている。
14時01分。14時02分。
元請けの担当は、自分から電話をかけてくる人じゃない。こっちが三回かけて、やっと一回出る。
表示の数字が、03に変わった。
……なんだ。鳴らないじゃないか。
太ももを叩いて笑いかけたところで、膝の上のスマホが震えた。
14時03分、元請けから電話が来た。
「月岡さん? 入金、今日付けで処理しましたんで」
「それと、この暑さでしょう。来週から作業を夜に回してもらえませんか」
入金と、夜間工事。二つとも、覚えているとおりだった。
「……分かりました。段取りし直します」
通話を切って、現場には寄らずに家へハンドルを切った。
*
咲乃は今日、シフトの休みだった。
ソファで膝を抱えて、ゾンビものの配信ドラマを観ている。画面の中で、誰かが噛まれて倒れた。
観なくていい。7日待てば、本物が来る。
俺は正気で、別れ話がしたいわけでもない。それを飲み込ませるだけで40分かかった。
「こんな話で冗談を言うか?」
「ドラマの脚本だって、誰かが作った話でしょ」
「俺が話を作って、お前をだますか?」
「付き合う前は、ずいぶん上手だったけど」
返す言葉がない。当時の俺に文句を言いに行きたい。
咲乃が一時停止を押して、腕を組む。
「で、証拠は?」
「このあと、お義母さんから電話が来る。店が停電して、家に戻ったって」
「お母さん、今日は夕方まで店だよ」
「だから、停電するんだよ」
咲乃は鼻を鳴らして、スマホをテーブルに置いた。画面を上にして。
3時を少し回ったところで、そのスマホが鳴った。
咲乃がこっちを見る。俺はスピーカーのマークを指さした。
「店が停電しちゃって。もう家なの」
「夜、ご飯食べにいらっしゃいよ。達規さんも一緒に」
「行く行く。あとでね」
咲乃は切れた画面を、しばらく見ていた。
「……停電のこと、どこかで聞いてたんじゃないの。店の近所で工事があるとか」
疑い方がまっとうだ。俺の嫁は、こういうところで簡単には転ばない。
「じゃあ、もう一つ」
「4時になったら、もう一度かかってくる。台所の蛇口が壊れたって」
「蛇口は……工事じゃ分からないね」
「分からない」
「待つのって、こんなに長かったっけ」
咲乃は麦茶を注いで、口をつけずにテーブルへ戻した。
俺は時計を見ないようにして、グラスの水滴ばかり数える。
4時を2分過ぎて、テーブルの上でスマホが震えた。
「台所の蛇口が壊れたの。達規さん、見てもらえる?」
スピーカーの奥で、水の噴き出す音が続いている。
咲乃は通話を切ると、両手でスマホを握ったまま俺の顔を見た。
「分かった。何から始める?」
「蛇口からだ。工具箱を車に積む」
靴を履こうとしたところで、咲乃が玄関の段差に腰を下ろした。
「その夢の中で、私たちはどうなったの」
隠しても、この人は必ず突き合わせてくる。
「母さんは、発生の日に雀荘の前で。穂乃実は14日目から連絡がつかなくなった」
「お義父さんとお義母さんは、家で55日目まで持ちこたえて、そこで返事が来なくなった」
「私は?」
「家に隠れてた。俺が食い物を探しに出て、噛まれた」
気がつくと、また首の横を指で押さえていた。
咲乃が立ち上がる前に、腕を伸ばした。抱き寄せると、咲乃の手が俺のシャツの背中をつかんだ。
「今度こそ、守る」
返事はなかった。シャツをつかんだ指が、しばらく離れなかった。
*
義実家の蛇口は、パッキンとカートリッジを替えて15分で止まった。
夕方、義父の道久さんが帰ってくる。二本の電話の話は咲乃がした。
義父は途中で一度も口を挟まず、最後に「そうか」とだけ言った。
ダイニングに4人。足もとを、義母の飼い猫の閣下がのしのしと横切っていく。
「で、どこに籠る」
義父がそう聞くより早く、咲乃が手を挙げていた。
「いちばん頑丈なのは、うちの銀行の金庫じゃない?」
「扉は分厚いし、壁は鉄板だし。外からは絶対に開かないよ」
本気の顔だ。うちの嫁は、たまに発想が斜め上へ飛ぶ。
義父が湯のみを置いて、肩を揺らした。
「頑丈でも、中に入った物を食い尽くしたら終わりだぞ」
「水なら持ち込むもん」
「何日分だ。達規くんの話じゃ、秋になっても終わらんのだろう」
俺も一言だけ足しておく。
「10日目には、水も電気も止まる」
咲乃が口を閉じた。金庫室の換気も電気で回っていることくらい、銀行員なら俺より詳しい。
台所から、義母が浅い金属の皿を運んできた。縁に細かい擦り傷のついた皿に、切った桃が並んでいる。
「はい、果物。食べながら考えなさい」
閣下が義母の足もとに座って、皿を見上げている。桃なんか食べないくせに、見上げる。
「閣下、あんたのじゃないの」
義母は爪楊枝を一本ずつ配って、最後に俺の前で手を止めた。
「達規さん、一回見てきたんでしょう。どうするの」
4人分の視線が、こっちに集まった。
「場所は、もう決めてある」




