第46話 王太子の揺れる視線
王都の朝は穏やかで、王立学園の中庭も柔らかな光に包まれていた。王太子は訓練の合間に中庭を歩きながら、何か心のざわめきを感じていた。側近たち――アルト・フォン・セルマ、ビンセント・フォン・クラレンス、ゲオルグ・ルッツ、そして商家のニコル・セルマ――の態度に、微妙な変化が生じている。
「……なんだ、この違和感は」
王太子は眉をひそめる。側近たちは以前にも増して忠誠心を見せ、彼の命令に従っているはずなのに、どこか無意識のうちに、視線や態度が誰か別の人物――キャサリン・フラン男爵令嬢――に向いているように見えるのだ。
「アルト……お前まで、そちらを見ているのか?」
王太子は、政治的な討論の席でアルトの瞳が真剣なはずなのに、微妙にキャサリンの方を追う仕草をするのを見逃さなかった。アルトは学園でも秀才と評され、王太子にとっても信頼のおける人物である。しかし今、アルトの視線の奥に微かな迷いと熱を感じた。
放課後の剣術場でも、王太子はビンセントの態度に気づく。いつもなら、剣の型を正確に守り、忠実に訓練を行う彼が、キャサリンの動きに視線を追われている。剣を振るう手がわずかに震え、指導の合間に彼女に近づく瞬間が増えている。王太子は軽く眉をひそめ、胸の奥に小さな警告の感覚を覚える。
「ゲオルグも……」
辺境伯爵子息は、探検課題で一緒に過ごす時間が長くなるほど、キャサリンのさりげない接触や微笑みに無意識に心を奪われている。手を差し伸べられればつい握り返し、転びそうになれば抱きかかえられる。その距離の近さと心地よさに、ゲオルグは理性よりも感情で彼女を優先してしまう。王太子はその様子を目の当たりにして、胸中に小さな違和感を募らせる。
そしてニコル・セルマ。商家の青年は理知的で計算高く、王太子にとっても信頼できる人物であった。だが、キャサリンが資料を手渡す際の指先の接触や、さりげない身体的距離の取り方に、無意識に心を奪われつつある。王太子は、それを見逃すことはできなかった。
「……このままでは、側近たちが、完全に彼女の手の中に入る」
王太子は胸中に警戒を抱きつつ、同時にマリアンヌ・フォン・ルーベルの存在を思い浮かべる。学園でも社交界でも、彼女は知性と威厳、そして自らの影響力で王太子の信頼を確保している。キャサリンの身体的誘惑が側近たちに効いている一方で、マリアンヌの存在は常に王太子の心の安定を保っていた。
「……マリアンヌが近くにいなければ、彼らはすぐに流されてしまうかもしれない」
王太子は決意する。側近たちを守るだけでなく、キャサリンの策略から学園と王都の秩序を守る必要がある。だが、直接的な干渉は慎重でなければならない。キャサリンの魅力は強く、過剰に手を出せば、学園内での人間関係や社交界全体に影響を及ぼしかねない。
夕方、王太子は中庭のベンチに座り、考えを巡らせる。側近たちに対して冷静に接する一方、キャサリンの動向を観察する。アルトはいつの間にか彼女の近くに座り、微笑みを返している。ビンセントは剣術場で彼女の指導に熱中し、ゲオルグは探検課題で彼女に近づき、ニコルは資料を渡す手を少し長く握りつつ会話している。王太子は胸中で小さくため息をついた。
「……これは、放っておけないな」
王太子は側近たちの感情を直接コントロールすることはできない。しかし、マリアンヌの存在や、自らの関与によって、彼らがキャサリンの誘惑に完全に流されないよう導くことは可能だ。王太子は決意を固め、学園生活における自らの役割を再認識する。
夜、月明かりに照らされる学園の塔の上から、王太子は庭を見下ろす。キャサリンの笑み、側近たちの揺れる視線、そしてマリアンヌの静かな威厳――すべてが絡み合い、王都と学園の力関係を複雑にしていることを、王太子は深く理解していた。
「……誰も、無駄に振り回されてはいけない」
王太子の視線は、学園内に広がる光と影を鋭く見据え、静かに次の行動を決めるのだった。側近たちの心を守りつつ、キャサリンの策略に揺さぶられないよう、王太子の戦いはすでに始まっていた。




