最終話
終業式の日だった。
朝から、教室の空気が少し浮いていた。机の中を整理する音。プリントを丸める音。「春休みどうする?」みたいな声。そういう細かいざわめきが、ずっと教室の中を漂っていた。
もうすぐ、このクラスも終わる。
その事実を、みんなわかっていた。
◇
終業式のあと、最後のホームルームで坂本先生が前に立った。
相変わらず、淡々とした顔だった。黒板の前に立って、出席番号順に通知表を配って、必要な連絡を読み上げていく。
俺は、珍しく真面目にその声を聞いていた。
1学期からずっと、坂本先生は何もしなかった。俺が踏まれていたときも。小林が追い込まれていたときも。知っていて、見ていて、それでもほとんど何も言わなかった。
それでも、最後くらいは何かあるかもしれないと思った。教師としての言葉とか。人生の教訓とか。少なくとも、今まで一緒にいた生徒に向けた何かが。
少しだけ期待していた。
坂本先生は通知表の最後の一人を配り終わって、出席簿を閉じた。それから、いつもの抑揚の少ない声で言った。
「では、今年度はこれで終わりです。事故や怪我には気をつけてください。提出物の出し忘れがある人は、春休み中に学校へ持ってきてください。以上です。よい春休みを」
超あっさりしていた。
得られるものは、本当に何もなかった。
俺は少しだけ口元を押さえた。笑いそうになった。
最後まで、この先生はこの先生だった。
「では」と言って、坂本先生はそのまま教室を出ていった。ドアが閉まる。
終わった。
それなのに、誰もすぐには立たなかった。
◇
みんな、なかなか教室から出ていかなかった。
机に座ったまま、友達と話しているやつ。通知表を見せ合っているやつ。「写真撮ろう」と言ってスマホを構えるやつ。春休みの予定を、その場で決め始めるやつ。
次からは、別クラスになる可能性が高い。
同じ教室で、同じ席で、同じ時間を過ごすのは今日が最後かもしれない。そのことを、みんなちゃんとわかっている空気だった。
俺は何となく教室を見回した。
黒川の席は空だった。
最近は、もうほとんど来ていなかった。来ても長くはいなかったし、誰かとつるむ空気も完全に消えていた。今日は、最初から最後まで姿を見ていない。
机と椅子だけが、普通にそこにある。
でも、中身だけがもういなかった。
少し前まで、あいつがこの教室の中心だったなんて、今はもう変な感じがした。
それでも、進級はできるという噂を聞き、少し安心した。
◇
「仁」
声をかけられて、顔を上げた。
咲良だった。
「春休みなんだけど」
咲良はそう言って、少しだけ鞄の持ち手を握り直した。
「みんなで花見行こうって話してて。仁も来ない?」
いつもの咲良なら、もっと軽く言ったと思う。
「仁も来るでしょ?」とか、「もう人数に入れてるから」みたいに、笑いながら押してくる感じで。
でも今の咲良は、少しだけ硬かった。
「うん。行くよ。行きたい」
俺は答えた。
「よかった」
咲良は小さく笑った。
「じゃあ、あとで日程送るね」
咲良はそれだけ言って手を振り、中村の方へ戻っていった。
◇
その少しあと、伊藤にも声をかけられた。
「天野、春休みの花見の話聞いた?」
「ああ。さっき咲良から誘われた」
「お、もう誘われてたか」
伊藤が少しにやっとした。
「じゃあ来るんだな」
「行くよ」
「よし。これで男子側もそれなりに人数そろうな」
その会話を近くで聞いていたらしい田中が、少し身を乗り出してきた。
「え、俺も行っていい?」
伊藤が即座に返す。
「田中が来ていいか、女子に聞いてみるわ」
「それ聞いて、NGなことありえんの!?」
田中が本気で驚いた顔で言って、みんなで笑った。
俺も笑った。
田中は、今はこういう位置にいた。昔みたいに黒川の横で空気を温める側じゃない。こうして、みんなに雑に扱われて笑いを取る役に回っていた。
全部が許されたわけじゃない。
でも、時間はちゃんと流れているんだと思った。
◇
橘にも一言くらい声をかけようと思った。
でも、見回したときには、もういなかった。
あいつらしい、と思った。最後だから名残惜しそうにするわけでもなく、静かに帰ったんだろう。
少しだけ拍子抜けした。
でも、それも橘らしかった。
◇
窓の方へ歩いたとき、下の校門の近くに小林が見えた。
もう校舎を出ようとしていた。一人だった。相変わらず少し背中が丸くて、でも2学期の終わりよりは、ほんの少しだけ歩く速さがまともになっていた。
俺はスマホを出して、LINE通話をかけた。
数コールで、つながる。
小林がスマホを耳に当てながら、校舎の方を見上げた。俺と目が合う。
少しだけ、固まった。
まだ俺を少し怖がっている顔だった。それでも、前みたいに目を逸らして終わりじゃなかった。
「春休み、何かあったらLINEしてくれ」
窓越しに、スマホ越しに、そう言った。
小林は少し固まってから、頷いた。
「はい」
「じゃあな」
「……はい。天野くんも」
通話が切れた。
小林はそのまま、小さく頭を下げてから歩き出した。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
◇
帰ろうとして、ふとグラウンドの方を見ると、田村先生がいた。
終業式の日なのに、陸上部を見ていた。スタート位置に立った生徒に短く指示を出して、ストップウォッチを見て、また何か言っている。
春の少し冷たい風の中で、その姿だけがいつも通りだった。
来月からは二年生だ。
もう遅いかもしれない。でも、陸上部に入るのもありかもしれないな、と思った。
田村先生にそう言われたときは、まだ現実味がなかった。でも今は、選択肢として頭の中に残っていた。
グラウンドのトラックを見ながら、あの200メートルを思い出す。
24秒2でゴールした日。最初の27秒0から、あそこまで持っていった日々。
あれも、ちゃんと俺の中に残っている。
◇
家に帰ると、里奈がいた。
ソファに寝転がってスマホを見ていたが、俺がリビングに入ると少しだけ顔を上げた。
「里奈も次で中3か」
「そりゃそうでしょ。だからなに」
「いや、別に。そんだけ」
そう言って部屋に戻ろうとしたら、里奈が少しだけ気まずそうな顔で言った。
「……春休みに家にいる日っていつ」
「え、なんで」
「別に」と里奈が言った。
それから、いかにも不本意そうな顔で続けた。
「兄貴の服を選ぶ時にカフェでいた友達いるじゃん」
「ああ」
カフェで会った、元気なショートカットと少し控えめなセミロングの子を思い出した。
「その子たちと他の友達が、兄貴を見たいから家に来るとか、クソ迷惑なこと言ってるから」
「まじか」
「マジであの時の服選びのせい。ほんとクソ」
「だから悪かったって」
「謝罪はいいから、さっさといる日言って」
俺は少し笑った。
「27日と29日ならほぼ家にいる」
「ほんと終わってる。最悪」
「おい。返事としておかしいだろ」
俺がそう言うと、里奈は「ふん」と言い、部屋に戻ろうとしていた。
そこに、「でもさ」と俺は言った。
里奈が止まった。
「よく考えたら、この前の冬用の服は春に着るにはちょっと重いよな」
里奈が振り返る。
「……で?」
「春用のまともな服、ない」
「は?」
「悪いけど、また選んでほしい」
「いや、この前ので学んだでしょ」
「いいんだな? ドラゴンのイラストとチェーンのついた服で、お前の友達の前に出ても」
「だからそんなの選ばないでしょ」
「じゃあなんなら良いんだ。英字ポエムの黒Tに十字架ネックレスで出ればいいのか」
「だめに決まってるでしょ」
里奈は即答した。
「服燃やすっていうか、兄貴ごと燃やすけど」
「物騒すぎるだろ」
「その格好で私の友達の前に出る方がもっと物騒だし」
「だから、まだ自信ない。しかも同級生女子含めた花見も控えてる。マジで頼む。パフェも出す」
少し間があった。
「……ラストね」と里奈が言った。
「ほんとにラスト。しかも今回は絶対、知り合いがいないとこにするから」
「そこらへんは全面的に従う。母さんにも言わない。ステルスで行動する」
「……まあ、分かってるならいい」
俺は少し間を置いてから言った。
「あと、迷惑ついでに、できれば春の予備も一着ほしい」
「はあ? 兄貴の専属スタイリストじゃないんだけど?」
「でも、お前も嫌だろ。変な格好の兄がうろつくの」
里奈が深いため息をついた。
「その理屈で全部通そうとするの、ほんとやめて」
「いや、まじで里奈に頼むのが最適解なんだって。冬服でよく理解した」
「……日曜の午後なら行ける。場所はこっちが指定する」
「わかった。まじで助かる」
そして里奈は無言でリビングから出て行き、廊下から声だけが聞こえてきた。
「ほんと世話かかる」
ああは言っているが、夏には夏服を頼もうと思った。もっとも、今それを口にしたら確実にキレられるので黙っておいた。
◇
部屋に戻ってから、橘にLINEを送ってみた。
『クラスで花見することになってんだけど、来ない?』
すぐ返ってきた。
『行かない。花見にはあまり興味ない』
まじかよこいつ、と思った。
マイペースすぎるだろ。
逆に、何を言ったら来てくれるのか気になった。
『じゃあ、今度一緒に勉強しない?』
しばらくして、返信が来た。
『行かない。私は一人でやった方が効率がいい』
『いや、俺が分からないところあるから教えてほしいんだけど』
少し間が空いた。
『それなら、いいけど』
『OK。1時間だけでいいから。お礼にコーヒーぐらいは奢る』
『うん。それならいいけど、紅茶がいいかな』
思わず笑った。
相変わらずだった。
でも、その相変わらずが少し嬉しかった。
◇
明日はアルバイトがある。
休日だから、8時間勤務だ。
学校が終わっても、まだやることはある。前みたいに、教室と家だけで終わる日々じゃなかった。
そこで、ふと思い出したことがあった。
少し前、バックヤードで備品を整理していたときのことだ。
◇
その日は、ディナー帯に入る前の少しだけ落ち着いた時間だった。
俺はバックヤードの棚の前で、紙ナプキンやカトラリーを補充していた。少し離れた場所で、篠崎さんと三浦さんも作業していた。
篠崎さんが、ふと思い出したみたいに言った。
「そういえばさ、三浦もそろそろ高2なんだねー」
「はい。そうですね」
三浦さんが控えめに答える。
「早いよねえ。ちょっと前に入ってきたと思ったのに」
篠崎さんはそう言って、今度は俺の方を見た。
「天野くんも、高2か」
いきなり振られて、手が少し止まった。
「え、はい。そうですね」
「この店、顔採用すごいし女子率高いしさ。4月になったら、大抵は可愛いピカピカの新高一女子が入るんだよ。あ、ほら、三浦も4月に入ったじゃん」
「確かに4月に入りましたけど」
三浦さんが戸惑ったように言う。
「……ただ私、可愛い女子高生ではないと思います」
「え、なにそれ。鏡見た?」
篠崎さんがすぐ返した。
「じゃあさ天野くん、どう思う?」
「え、俺ですか」
「そうそう。三浦って普通に可愛いでしょ?」
三浦さんが「えっ」と小さく声を漏らした。明らかに困っていた。
俺は少しだけ考えてから、正直に答えた。
「そりゃ、まあ普通に可愛いですよね」
それから篠崎さんの方も見て続ける。
「篠崎さんは普通に美人ですね」
「お、わかってるね」
篠崎さんがにやっとする。
それから、すぐに三浦さんの方を向いた。
「ほら。やっぱ三浦、可愛いんじゃん」
「ありがとうございます……」
三浦さんはかなり小さい声で言った。
俺はそこで、なんとなく自分がこの場にいると余計に三浦さんが困る気がして、補充用のトレーを持って別の棚の方へ移った。
◇
少し離れたところで、グラスを拭きながら作業を続ける。
でも、二人の声は少し聞こえてきた。
「でもさ」
篠崎さんが言った。
「三浦も、うかうかしてられないよねー」
「はい?」
三浦さんの声が少し上ずる。
「だってさ。想像してみ」
「え?」
「この店って、入った時めちゃくちゃ厳しくて、三浦も泣いてたじゃん」
「ほぼ毎日泣いてましたけど……」
三浦さんが本当に嫌そうに言う。
「そこにさ」
篠崎さんは、完全に面白がっている声だった。
「優しい一つ年上の高身長イケメンがフォローしたら、どうなると思う?」
一瞬、空気が止まった気がした。
「え……?」
三浦さんが固まったような声を出す。
「だからさー」
篠崎さんは楽しそうに続ける。
「可愛い後輩入ってきて、朝倉店長に詰められてしょんぼりしてるとこに、その先輩が大丈夫?って優しく入ったらさ。時間の問題だよねって話」
「さっきから何の話ですか!」
三浦さんの声が、さっきより明らかに大きかった。
「いや、別に?」
篠崎さんがしれっと言う。
「心当たりがないなら、いいんだけどね」
「そんなのないですけど……」
三浦さんはそう言った。
でも、その否定はあまり強くなかった。
篠崎さんは完全ににやにやしていた。三浦さんは割と目を回しているように見えた。
俺は聞こえないふりをしながら、拭き終わったグラスを棚に戻した。
でも、今思い返すと、最近は特に三浦さんとよく話すようになっていた。
◇
机に向かって、時計を見た。
今は睡眠8時間以上のミッション中だ。もうあと10分で寝なくてはいけない。
布団に入る準備をしようとした、その瞬間だった。
パネルが光った。
嫌な予感がした。
開く。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【MISSION】
難易度:極
春休み終了までに、以下の全条件を達成せよ。
全条件達成で大幅ボーナス。
未達成項目数に応じてステータス低下あり。
特別スキル付与の可能性あり。
春休み終了まで:14日間
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春休みの激難ミッションだった。
俺は細かいミッション内容を読んだ。
「これ、また自由時間0になるやつじゃねえか……」
思わず声が出た。
でも、表示の中で一つだけ目に残るものがあった。
特別スキル付与の可能性あり。
《オーバードライブ》、《カリスマ》、《ネゴシエーション》。
どれも、使い方を間違えれば危ない力だった。実際、痛い目にも遭った。それでも、あの力がなければ越えられなかった場面があったのも事実だ。
次に手に入るなら、どんな力なのか。
そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が熱くなった。
怖さもある。でも、期待もあった。
今日はあと10分で寝ないといけない。
なのに、今からスケジュールを立てないとたぶん終わる。
俺は椅子を引いた。
スマホのメモを開き、春休みの予定を一つずつ埋めていく。睡眠、ランニング、勉強、筋トレ、バイト。遊びの予定。里奈に服を選んでもらう日。橘に勉強を見てもらう日。
終業式は終わった。
このクラスも終わった。
でも、俺はまだ終わらない。
「……よし」
荒いが、計画は立った。
もう寝る時間だ。
俺はスマホを伏せて、ベッドに向かった。
明日から、また始まる。
そう思って目を閉じた。
ブックマークや評価をくださった方、そして最後まで読んでくださった方に、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。




