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最終話

終業式の日だった。


朝から、教室の空気が少し浮いていた。机の中を整理する音。プリントを丸める音。「春休みどうする?」みたいな声。そういう細かいざわめきが、ずっと教室の中を漂っていた。


もうすぐ、このクラスも終わる。


その事実を、みんなわかっていた。



終業式のあと、最後のホームルームで坂本先生が前に立った。


相変わらず、淡々とした顔だった。黒板の前に立って、出席番号順に通知表を配って、必要な連絡を読み上げていく。


俺は、珍しく真面目にその声を聞いていた。


1学期からずっと、坂本先生は何もしなかった。俺が踏まれていたときも。小林が追い込まれていたときも。知っていて、見ていて、それでもほとんど何も言わなかった。


それでも、最後くらいは何かあるかもしれないと思った。教師としての言葉とか。人生の教訓とか。少なくとも、今まで一緒にいた生徒に向けた何かが。


少しだけ期待していた。


坂本先生は通知表の最後の一人を配り終わって、出席簿を閉じた。それから、いつもの抑揚の少ない声で言った。


「では、今年度はこれで終わりです。事故や怪我には気をつけてください。提出物の出し忘れがある人は、春休み中に学校へ持ってきてください。以上です。よい春休みを」


超あっさりしていた。


得られるものは、本当に何もなかった。


俺は少しだけ口元を押さえた。笑いそうになった。


最後まで、この先生はこの先生だった。


「では」と言って、坂本先生はそのまま教室を出ていった。ドアが閉まる。


終わった。


それなのに、誰もすぐには立たなかった。



みんな、なかなか教室から出ていかなかった。


机に座ったまま、友達と話しているやつ。通知表を見せ合っているやつ。「写真撮ろう」と言ってスマホを構えるやつ。春休みの予定を、その場で決め始めるやつ。


次からは、別クラスになる可能性が高い。


同じ教室で、同じ席で、同じ時間を過ごすのは今日が最後かもしれない。そのことを、みんなちゃんとわかっている空気だった。


俺は何となく教室を見回した。


黒川の席は空だった。


最近は、もうほとんど来ていなかった。来ても長くはいなかったし、誰かとつるむ空気も完全に消えていた。今日は、最初から最後まで姿を見ていない。


机と椅子だけが、普通にそこにある。

でも、中身だけがもういなかった。


少し前まで、あいつがこの教室の中心だったなんて、今はもう変な感じがした。


それでも、進級はできるという噂を聞き、少し安心した。



「仁」


声をかけられて、顔を上げた。


咲良だった。


「春休みなんだけど」


咲良はそう言って、少しだけ鞄の持ち手を握り直した。


「みんなで花見行こうって話してて。仁も来ない?」


いつもの咲良なら、もっと軽く言ったと思う。


「仁も来るでしょ?」とか、「もう人数に入れてるから」みたいに、笑いながら押してくる感じで。


でも今の咲良は、少しだけ硬かった。


「うん。行くよ。行きたい」


俺は答えた。


「よかった」


咲良は小さく笑った。


「じゃあ、あとで日程送るね」


咲良はそれだけ言って手を振り、中村の方へ戻っていった。



その少しあと、伊藤にも声をかけられた。


「天野、春休みの花見の話聞いた?」


「ああ。さっき咲良から誘われた」


「お、もう誘われてたか」


伊藤が少しにやっとした。


「じゃあ来るんだな」


「行くよ」


「よし。これで男子側もそれなりに人数そろうな」


その会話を近くで聞いていたらしい田中が、少し身を乗り出してきた。


「え、俺も行っていい?」


伊藤が即座に返す。


「田中が来ていいか、女子に聞いてみるわ」


「それ聞いて、NGなことありえんの!?」


田中が本気で驚いた顔で言って、みんなで笑った。


俺も笑った。


田中は、今はこういう位置にいた。昔みたいに黒川の横で空気を温める側じゃない。こうして、みんなに雑に扱われて笑いを取る役に回っていた。


全部が許されたわけじゃない。


でも、時間はちゃんと流れているんだと思った。



橘にも一言くらい声をかけようと思った。


でも、見回したときには、もういなかった。


あいつらしい、と思った。最後だから名残惜しそうにするわけでもなく、静かに帰ったんだろう。


少しだけ拍子抜けした。


でも、それも橘らしかった。



窓の方へ歩いたとき、下の校門の近くに小林が見えた。


もう校舎を出ようとしていた。一人だった。相変わらず少し背中が丸くて、でも2学期の終わりよりは、ほんの少しだけ歩く速さがまともになっていた。


俺はスマホを出して、LINE通話をかけた。


数コールで、つながる。


小林がスマホを耳に当てながら、校舎の方を見上げた。俺と目が合う。


少しだけ、固まった。


まだ俺を少し怖がっている顔だった。それでも、前みたいに目を逸らして終わりじゃなかった。


「春休み、何かあったらLINEしてくれ」


窓越しに、スマホ越しに、そう言った。


小林は少し固まってから、頷いた。


「はい」


「じゃあな」


「……はい。天野くんも」


通話が切れた。


小林はそのまま、小さく頭を下げてから歩き出した。


俺はしばらく、その背中を見ていた。



帰ろうとして、ふとグラウンドの方を見ると、田村先生がいた。


終業式の日なのに、陸上部を見ていた。スタート位置に立った生徒に短く指示を出して、ストップウォッチを見て、また何か言っている。


春の少し冷たい風の中で、その姿だけがいつも通りだった。


来月からは二年生だ。


もう遅いかもしれない。でも、陸上部に入るのもありかもしれないな、と思った。


田村先生にそう言われたときは、まだ現実味がなかった。でも今は、選択肢として頭の中に残っていた。


グラウンドのトラックを見ながら、あの200メートルを思い出す。


24秒2でゴールした日。最初の27秒0から、あそこまで持っていった日々。


あれも、ちゃんと俺の中に残っている。



家に帰ると、里奈がいた。


ソファに寝転がってスマホを見ていたが、俺がリビングに入ると少しだけ顔を上げた。


「里奈も次で中3か」


「そりゃそうでしょ。だからなに」


「いや、別に。そんだけ」


そう言って部屋に戻ろうとしたら、里奈が少しだけ気まずそうな顔で言った。


「……春休みに家にいる日っていつ」


「え、なんで」


「別に」と里奈が言った。


それから、いかにも不本意そうな顔で続けた。


「兄貴の服を選ぶ時にカフェでいた友達いるじゃん」


「ああ」


カフェで会った、元気なショートカットと少し控えめなセミロングの子を思い出した。


「その子たちと他の友達が、兄貴を見たいから家に来るとか、クソ迷惑なこと言ってるから」


「まじか」


「マジであの時の服選びのせい。ほんとクソ」


「だから悪かったって」


「謝罪はいいから、さっさといる日言って」


俺は少し笑った。


「27日と29日ならほぼ家にいる」


「ほんと終わってる。最悪」


「おい。返事としておかしいだろ」


俺がそう言うと、里奈は「ふん」と言い、部屋に戻ろうとしていた。


そこに、「でもさ」と俺は言った。


里奈が止まった。


「よく考えたら、この前の冬用の服は春に着るにはちょっと重いよな」


里奈が振り返る。


「……で?」


「春用のまともな服、ない」


「は?」


「悪いけど、また選んでほしい」


「いや、この前ので学んだでしょ」


「いいんだな? ドラゴンのイラストとチェーンのついた服で、お前の友達の前に出ても」


「だからそんなの選ばないでしょ」


「じゃあなんなら良いんだ。英字ポエムの黒Tに十字架ネックレスで出ればいいのか」


「だめに決まってるでしょ」


里奈は即答した。


「服燃やすっていうか、兄貴ごと燃やすけど」


「物騒すぎるだろ」


「その格好で私の友達の前に出る方がもっと物騒だし」


「だから、まだ自信ない。しかも同級生女子含めた花見も控えてる。マジで頼む。パフェも出す」


少し間があった。


「……ラストね」と里奈が言った。

「ほんとにラスト。しかも今回は絶対、知り合いがいないとこにするから」


「そこらへんは全面的に従う。母さんにも言わない。ステルスで行動する」


「……まあ、分かってるならいい」


俺は少し間を置いてから言った。


「あと、迷惑ついでに、できれば春の予備も一着ほしい」


「はあ? 兄貴の専属スタイリストじゃないんだけど?」


「でも、お前も嫌だろ。変な格好の兄がうろつくの」


里奈が深いため息をついた。


「その理屈で全部通そうとするの、ほんとやめて」


「いや、まじで里奈に頼むのが最適解なんだって。冬服でよく理解した」


「……日曜の午後なら行ける。場所はこっちが指定する」


「わかった。まじで助かる」


そして里奈は無言でリビングから出て行き、廊下から声だけが聞こえてきた。


「ほんと世話かかる」


ああは言っているが、夏には夏服を頼もうと思った。もっとも、今それを口にしたら確実にキレられるので黙っておいた。



部屋に戻ってから、橘にLINEを送ってみた。


『クラスで花見することになってんだけど、来ない?』


すぐ返ってきた。


『行かない。花見にはあまり興味ない』


まじかよこいつ、と思った。


マイペースすぎるだろ。


逆に、何を言ったら来てくれるのか気になった。


『じゃあ、今度一緒に勉強しない?』


しばらくして、返信が来た。


『行かない。私は一人でやった方が効率がいい』


『いや、俺が分からないところあるから教えてほしいんだけど』


少し間が空いた。


『それなら、いいけど』


『OK。1時間だけでいいから。お礼にコーヒーぐらいは奢る』


『うん。それならいいけど、紅茶がいいかな』


思わず笑った。


相変わらずだった。

でも、その相変わらずが少し嬉しかった。



明日はアルバイトがある。


休日だから、8時間勤務だ。

学校が終わっても、まだやることはある。前みたいに、教室と家だけで終わる日々じゃなかった。


そこで、ふと思い出したことがあった。


少し前、バックヤードで備品を整理していたときのことだ。



その日は、ディナー帯に入る前の少しだけ落ち着いた時間だった。


俺はバックヤードの棚の前で、紙ナプキンやカトラリーを補充していた。少し離れた場所で、篠崎さんと三浦さんも作業していた。


篠崎さんが、ふと思い出したみたいに言った。


「そういえばさ、三浦もそろそろ高2なんだねー」


「はい。そうですね」


三浦さんが控えめに答える。


「早いよねえ。ちょっと前に入ってきたと思ったのに」


篠崎さんはそう言って、今度は俺の方を見た。


「天野くんも、高2か」


いきなり振られて、手が少し止まった。


「え、はい。そうですね」


「この店、顔採用すごいし女子率高いしさ。4月になったら、大抵は可愛いピカピカの新高一女子が入るんだよ。あ、ほら、三浦も4月に入ったじゃん」


「確かに4月に入りましたけど」


三浦さんが戸惑ったように言う。


「……ただ私、可愛い女子高生ではないと思います」


「え、なにそれ。鏡見た?」


篠崎さんがすぐ返した。


「じゃあさ天野くん、どう思う?」


「え、俺ですか」


「そうそう。三浦って普通に可愛いでしょ?」


三浦さんが「えっ」と小さく声を漏らした。明らかに困っていた。


俺は少しだけ考えてから、正直に答えた。


「そりゃ、まあ普通に可愛いですよね」


それから篠崎さんの方も見て続ける。


「篠崎さんは普通に美人ですね」


「お、わかってるね」


篠崎さんがにやっとする。


それから、すぐに三浦さんの方を向いた。


「ほら。やっぱ三浦、可愛いんじゃん」


「ありがとうございます……」


三浦さんはかなり小さい声で言った。


俺はそこで、なんとなく自分がこの場にいると余計に三浦さんが困る気がして、補充用のトレーを持って別の棚の方へ移った。



少し離れたところで、グラスを拭きながら作業を続ける。


でも、二人の声は少し聞こえてきた。


「でもさ」


篠崎さんが言った。


「三浦も、うかうかしてられないよねー」


「はい?」


三浦さんの声が少し上ずる。


「だってさ。想像してみ」


「え?」


「この店って、入った時めちゃくちゃ厳しくて、三浦も泣いてたじゃん」


「ほぼ毎日泣いてましたけど……」


三浦さんが本当に嫌そうに言う。


「そこにさ」


篠崎さんは、完全に面白がっている声だった。


「優しい一つ年上の高身長イケメンがフォローしたら、どうなると思う?」


一瞬、空気が止まった気がした。


「え……?」


三浦さんが固まったような声を出す。


「だからさー」


篠崎さんは楽しそうに続ける。


「可愛い後輩入ってきて、朝倉店長に詰められてしょんぼりしてるとこに、その先輩が大丈夫?って優しく入ったらさ。時間の問題だよねって話」


「さっきから何の話ですか!」


三浦さんの声が、さっきより明らかに大きかった。


「いや、別に?」


篠崎さんがしれっと言う。


「心当たりがないなら、いいんだけどね」


「そんなのないですけど……」


三浦さんはそう言った。


でも、その否定はあまり強くなかった。


篠崎さんは完全ににやにやしていた。三浦さんは割と目を回しているように見えた。


俺は聞こえないふりをしながら、拭き終わったグラスを棚に戻した。


でも、今思い返すと、最近は特に三浦さんとよく話すようになっていた。



机に向かって、時計を見た。


今は睡眠8時間以上のミッション中だ。もうあと10分で寝なくてはいけない。


布団に入る準備をしようとした、その瞬間だった。


パネルが光った。


嫌な予感がした。


開く。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【MISSION】


難易度:極


春休み終了までに、以下の全条件を達成せよ。


全条件達成で大幅ボーナス。

未達成項目数に応じてステータス低下あり。

特別スキル付与の可能性あり。


春休み終了まで:14日間

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


春休みの激難ミッションだった。


俺は細かいミッション内容を読んだ。


「これ、また自由時間0になるやつじゃねえか……」


思わず声が出た。


でも、表示の中で一つだけ目に残るものがあった。


特別スキル付与の可能性あり。


《オーバードライブ》、《カリスマ》、《ネゴシエーション》。


どれも、使い方を間違えれば危ない力だった。実際、痛い目にも遭った。それでも、あの力がなければ越えられなかった場面があったのも事実だ。


次に手に入るなら、どんな力なのか。


そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が熱くなった。

怖さもある。でも、期待もあった。


今日はあと10分で寝ないといけない。

なのに、今からスケジュールを立てないとたぶん終わる。


俺は椅子を引いた。


スマホのメモを開き、春休みの予定を一つずつ埋めていく。睡眠、ランニング、勉強、筋トレ、バイト。遊びの予定。里奈に服を選んでもらう日。橘に勉強を見てもらう日。


終業式は終わった。

このクラスも終わった。


でも、俺はまだ終わらない。


「……よし」


荒いが、計画は立った。


もう寝る時間だ。


俺はスマホを伏せて、ベッドに向かった。


明日から、また始まる。


そう思って目を閉じた。

ブックマークや評価をくださった方、そして最後まで読んでくださった方に、心より感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。

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