第6章:崩れ去った日常と、突きつけられた最後通牒
BBQ会場を去る時、私に向けられる視線は、もはや好奇の目ではなかった。
そこにあるのは、真実を知った者特有の冷ややかさと、拓也という男に対する明確な「拒絶」の意志だった。
あれから数日、拓也はまるで魂が抜けたように帰宅するようになった。
会社では部長から厳重な査問を受け、育休中の不誠実な実態を詳細に追求されたのだ。かつて自ら描いた「イクメン・エリート」という砂上の楼閣は、一瞬にして瓦解した。
彼は社内での昇進コースから完全に外れ、閑職への左遷が決定したという。
その日の夜、リビングの明かりを極限まで落とした空間で、拓也は床に膝をつき、私の足元にすがりついた。
「美咲、頼む……会社で俺の居場所がないんだ。このままじゃ、俺は生きていけない。お前と結衣に見捨てられたら、俺にはもう何も残らないんだ……。頼む、もう一度だけやり直させてくれ。家事も育児も、これから全部俺がやるから!」
泣きじゃくりながら保身の言葉を並べる拓也。
その姿はかつて家で見せた「やってやった」というドヤ顔とは対極の、惨めな姿だった。
私はその頭上を見下ろし、感情の波が一切立たない自分に驚いていた。
かつては彼に好かれたくて、波風を立てないように必死だったのに、今はただ、冷めた目で「観察」している自分がいる。
私はゆっくりと、テーブルの上に一枚の紙を滑らせた。それは、数日前から準備していた離婚届だ。
「やり直す? 何と何でやり直すつもりなの?」
私の声は、夜の静寂に溶け込むほど淡々としていた。
「嘘つきで、見栄っ張りで、自分の見栄のために妻を貶め、娘の命を預かる育休期間すらも遊びに使っていた男。……そんなあなたと再構築するメリット、私と結衣に何一つないのよ」
「そんな……! 俺は、俺は家族のために稼いでいたんだ!」
「稼ぐ? 嘘をついて、周りに迷惑をかけて、自分の立場を悪くしたあなたに、これまでと同じ生活を維持する能力があるの? 私はもう、あなたが吹聴していた『怠け者の妻』じゃない。自分の人生を、あなたのような寄生虫のために捧げる気は毛頭ないわ」
拓也の顔から、血の気が完全に引いていく。
彼は私が「自分を置いていけない」と信じ切っていたのだ。
私の芯に触れたことなど一度もなかった男が、初めて私の言葉の重さを理解したようだった。
「会社での評判も、家庭での信用も、全部あなたの嘘と怠慢が壊したの。結衣はね、嘘をつかない正直な大人に育ってほしいのよ。……お父さんが嘘つきで、周りから軽蔑されているなんて、そんな未来、結衣には絶対に見せたくない」
私は窓の外を見やった。
遠くで街灯が静かに光っている。かつてはこの光が、家庭の幸せの象徴のように見えたが、今はただの点景に過ぎない。
「荷物はまとめてあるわ。今日、この家を出て行って。離婚届にはサインをして、これから先は弁護士を通して連絡を取るわ」
拓也は放心状態で床に倒れ込んだ。
かつて家庭という城を支配していたはずの王は、自ら築いた嘘の墓標の下で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
私は結衣を抱き上げ、寝室へと向かった。
背後で、拓也の過呼吸のような荒い息遣いが聞こえる。
この男に待ち受けているのは、針の筵のような職場の視線か、あるいはすべてを失った孤独という名の地獄か。
それは彼が選んだ道の結果だ。
ドアを閉めると、リビングの冷え切った空気が遮断された。
結衣の柔らかな温もりが、私の腕の中に確かな「守るべきもの」として存在している。
明日からは、この嘘のない世界で、娘と二人だけの新しい日常が始まる。
私は一度も振り返ることなく、光の差す方へと歩き出した。




