命名 4
寺の門まで見送る住職に、母子は深くお辞儀をした。
「本当に、お世話になりました」
母親は、どういうわけだか住職の孫と名乗る青年と話して帰って来た娘が、さっきまでとは打って変わって清々しい顔をしているのを不思議に思ったが、娘が「内緒ー!」というので、聞かないことにした。
愛生は、祖母と話せたあの不思議な体験を、本当は人に話したくて仕方がないのだが、何となく言わないほうが良いのではないかという気がして、自分と英知だけの秘密にすることにした。
「お気を付けてお帰りください」
そう言う住職にもう一度お礼を言って、母子は門をくぐろうとした。そこで、愛生が名残惜しそうに振り向く。
「英知くん!」
愛生は、住職の隣へやってきた英知に顔を輝かせる。そして、その隣に気が付くと、「なあんだ」と口を尖らせた。
「英知くんに彼女がいないなら、立候補しようと思ったのに、残念」
少女の視線が自分に向けられていることに気付いて、凪は困ったように英知を見上げた。英知は、それについては特にコメントをせずに、微笑するだけだった。
「バイバイ、英知くん!」
勢いよく手を振る愛生に、英知は手を振り返す。
「バイバイ、愛生ちゃん」
ほんとにありがとー!と言って、愛生は母親と一緒に帰って行った。愛生たち母子の姿が小さくなっていくのを見送って、英知は祖父に向き直った。
「じいちゃん、俺たちもそろそろ帰るよ」
「そうか? ゆっくりしていけばいいのに」
「俺はいいけど、女の子を遅い時間まで連れ回すわけにはね」
祖父の家から東京まではかなりの時間が掛かる。あまり遅くなると、凪が家に帰るのが遅くなってしまう。
「そうか。凪ちゃん、よかったら、また遊びに来ておくれ」
「はい。お邪魔しました」
晴昭に、凪はぺこりと頭を下げて応えた。「じゃあ、じいちゃん、また来るよ」と英知は言い、見送りに出て来た開智に手を振って歩き出した。凪も会釈をして歩き出す。
駅へ向かいながら、凪は隣の英知にちらりと視線を送る。
どうしてこの人はいつも、私を彼女だと言われても訂正しないのだろう。この人は、私のことを一体どう思っているのだろうか。
「ん? なに、佐原さん?」
急に英知がこちらを向くので、凪は心の中を読まれでもしたかのような気になって、ドギマギしてしまう。
「べっ、別に!」
慌ててそっぽを向き、凪は呼吸を整える。
「そ、そういえば、あの子と、ずいぶん仲よさげだったよね、“愛生ちゃん”なんて」
私のことは、今でも“佐原さん”と呼ぶくせに。
「ああ……凪、」
ドクリ、と心臓が跳ね上がる。ただ名前を呼ばれただけなのに。そんな風に呼ぶ人はたくさんいるのに。英知の柔らかなテノールに乗せられた自分の名前に、凪は心臓を鷲掴みにされたような動悸を覚え、狼狽する。
「ってさあ、どういう由来なの、名前?」
「えっ?」
必要以上に動揺していただけに、それに続きがあったのだと知ると、恥ずかしいやら腹立たしいやらで、凪は思わず大げさに聞き返してしまった。
「だから、佐原さんの名前の由来。愛生ちゃんて、おばあさんが付けた名前で、いろんな願いが込められているんだって」
愛生の祖母が、その名前に込めた願いを、英知は凪に説明した。その流れで、今の質問に至るのか、と凪は納得する。
「でも、聞くほどのことでもないかも。結構単純なのよ、うちは」
「なに?」
「私の姉の名前、夕って言うの。それで、夕と凪で…」
夕凪、というわけだ。姉妹の名前で一単語にするという両親の単純さというか大雑把さに、性別が違っていたらどうするつもりだったのかと問いたい。
「ね、単純でしょ」
「俺は好きだよ、凪って名前」
またしても心臓が体の内側で飛び蹴りを始める。頼むから、簡単に好きだとか言わないで欲しい。
「佐原さんに、よく合ってる名前だと思う。凪──」
渦巻く声の波を鎮め、力の暴走を抑えてくれる。彼女は、いつでも心の中に穏やかさを取り戻させてくれる。彼女の存在は、自分にとって、正しく『凪』だ。
「お、桜沢さんは、どうして“英知”なの?」
赤い顔がばれないようにうつむいたまま凪は尋ねた。
「他の兄弟は“開智”と“大智”って字を書くにの、どうして桜沢さんだけ“智”じゃなくて“知”なの?」
それは大智と知り合い、開智と会った時に抱いた疑問だった。
「ああ、それは、命と引き換えに、名前を捨てたから」
「え?」
「俺、産まれてくる時に、ちょっとヤバかったんだって。それで、じいちゃんはもう俺に“英智”って名前を付けるって決めてたんだけど、名前の一部を捨てるから、代わりに俺の命を助けてくれって、祈ったらしいんだ」
命と引き換えに名前の一部を捨てるというのは、どこかの民間信仰のようなものなのかもしれない。
産まれてくる時、あちら側に片足を突っ込んでいたから、自分は向こう側の人と繋がりを持つことができるのかもしれない、と英知は考えたことがあったが、その考えを口にすることはなかった。
ただ、自分の近くに、いつも死があることは感じていた。それと同時に、自分が生きていることへの感謝も。
「だから俺の名前は、俺が生きるのに必要な名前なんだ」
「そう…。──いい名前ね、英知って」
「うん、ありがとう」
そう言って、英知は凪に笑みを向ける。その微笑は、穏やかで優しいものだった。凪が微笑み返すと、英知はそっと凪の手に触れた。そのまま緩く握る。手を繋いで、自分の歩調に合わせて隣をゆっくりと歩く英知に、凪は視線を向けられずに、でも、しっかりと手は握り返した。
英知と凪の後姿を見送って、晴昭は開智と共に庫裏へと踵を返した。
「強くなったな、英知は」
「うん、俺もそう思う」
晴昭の呟きに、開智が答え、祖父と孫は顔を見合わせて笑った。
その名前を付ける時、人は、その子の幸せを願う。希望を、夢見る未来を子どもに託し、幸多き人生であるようにと祈る。英知の名もまた、そうして晴昭に付けられたのだった。その子の幸せを願わないことなど、あるはずがない。
あの夏、英知は最初、抜け殻のようだった。瞳も笑顔も自分に向けられるのに、彼の眼はどこか遠くを見ていた。「まるでどこか遠くへ行ってしまいそうだ」と、大智が怯えていたと開智から聞いた。
彼の虚ろな心や体は、この世に未練を残す悪しき者たちには、さぞ魅惑的だっただろう。もともと、あちら側の者との壁が薄かった英知は、その力が強くなると、いわゆる悪霊と呼ばれるものさえも引き寄せるようになってしまった。自分の力が他人に伝染するのを恐れて一人になることが多かったから、より一層英知はそういうものに狙われるようになった。
部屋に引き籠っていた英知が初めてあの発作を起こした時、もう駄目なのではないかと思った。苦しそうに浅く荒い息と嘔吐を繰り返し、胸をかきむしる。本人は病気ではない、悪心に当てられたのだというが、対処のしようもない。
救急車を呼ぶことも出来ずに、ただ必死に英知の名を呼び続けた。すると、やがて英知は次第に息を整え、深呼吸をして目を開けた。
「大丈夫。じいちゃん、俺は、こんなことじゃ死なない」
その静かな声から、さっきまで苦しそうにしていた孫が、どうにかして悪霊どもを追い払ったのだと知れた。
「俺が連れて行かれそうになったら、名前を呼んで。必ず戻ってくる」
「英知…」
微笑して見せる孫の強さを、晴昭は誇らしくも感じ、同時に心配にもなった。何でも一人でどうにかしようとして、この子は一人で抱え込みすぎる。
だから、この子は自分が守らなければ、と晴昭は英知を抱きしめた。




